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「アランくーん」

 俺が彼女と初めて言葉を交わしたのは高校一年生の夏休み明け、新学期が始まり課題試験を終えて、部活に向かうためアランと早めに訪れた放課後の廊下を歩いている時だった。

「みょうじやん。どした?」
「借りてたシャーペン返そうとしたらもう教室に居なくて追いかけてきた」
「ああ、スマン。貸したの忘れとったわ」

 アランと同じ一年二組のみょうじさんは一年なら誰もが、いや稲高生なら誰もが知ってる有名人だ。

 入学式の日にものすごい美少女が居ると噂になり、その一週間後には朝会でなんとかコンクールの金賞を表彰され海外のコンクールで受賞するほどピアノが上手いと噂になったみょうじさんは成績も人当たりも良いらしく、今では『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花』なんて一見大層なことわざを見事に着こなす完璧美人として性別学年問わず羨望の眼差しを向けられている。

「明日でも良かったのにわざわざすまんな」
「借りたものはすぐ返さなきゃ」
「律儀な奴やなぁ」
「そうだよ、私って律儀なの」
「いやそれ自分で言うんかい!」

 テンポのいい会話を繰り広げながらエナメルから取り出した筆箱にシャーペンを仕舞うアランを横目に、なんとなく彼女を見た。

 半袖のスクールシャツから伸びた細くて白い二の腕が窓から差し込んだ陽の光を反射している。上にベストを着用している生徒もちらほら伺える中、シャツ一枚で長い黒髪を一つに束ねた彼女は暑がりなんやろか。もうじき夏も終わるというのにどこもかしこも真っ白な肌を見ると、たしかに暑さには耐性がなさそうではある。

 アランに「本当にありがとね」と大きな瞳を細めて微笑む顔を、たしかに綺麗な子やなあ。なんて思いながら見つめているとふと視線が交わった。

「あ、部活行くところだったよね?引き止めてごめんね」
「別にええよ」
「ありがとう」

 ありがとう。とは何に対してのだろう。よくわからなかったが礼を言われて気分を害する人間など恐らくいない。状況や言い方にもよるやろうけど、例え相手がなんとも思っていないことでも自然にお礼を言えるその精神はええなあ。と無言でひとつ頷いた。

「それじゃあ私はもう行くね」
「おん。また明日な〜」
「うん、また明日。部活がんばってね」

 アランと、俺にもちゃんと視線を向けて、まさに花のような笑顔を残して去っていったみょうじさんを数秒見送ってから俺らも再び歩き出した。

「いやぁ、信介はほんまどんな時も信介やなぁ」
「そらそうやろ」
「そういうこととちゃうやん」

 訳のわからんことを言うアランに頭の中に疑問符を浮かべる。俺は生まれた時から死ぬまでずっと信介や。じいちゃんから一文字もらったこの有難い名前を改名する予定なんてない。将来婿入りなんかしたら苗字の方は変わるかもしれへんけど、それでも俺が信介であることは変わらへん。なにが違うんや。

「よくみょうじを前にしていつも通り話せるなって」
「お前も普通に話しとったやん」
「俺も初めはめっちゃ緊張したわ!みょうじが気さくやからもう慣れたけど、クラスの男子ですら未だに緊張してみょうじさんと喋られへんて奴多いのに」
「ああ、美人さんやからか」
「おっ。それは信介でもそう思うんやな」

 失礼な。俺も人並みに女性を綺麗だとか可愛いだとか思うことはある。それが人より少ないという点では人並みではないのかもしれんけど。

 みょうじさんのことは彼女が噂の的にされていた入学式で見かけた時も素直に美人やと思った。遠目に見てもそう思うくらいには。俺自身、自分がこんな風に感じるんは珍しいなと思ったからよく憶えている。しかし彼女はアイドルでもなければモデルでもない。俺らと同じ一般人で同級生。

「あんま騒ぐんも迷惑やろ」
「大人やな……」
「ちやほやされんのが好きな奴も居るんやろけど、なんとなくみょうじさんはそんな感じに見えへんしな」

 さっきアランと話してる姿を見て、たしかに気さくで明るい子って印象は受けたけど言葉の端々から感じる気遣いや慎ましさは目立ちたがりのそれとは到底かけ離れとる。あの見た目で否応なしに視線を集めてしまうこと以外はきっと、普通の女の子なんやろな。

「せやけど、えらい綺麗な女子が居ったら騒いでまうんが高校生やんか」

 お前は精神年齢がバグっとんねん。とケラケラ笑うアランに背中を叩かれながら階段を降りた。