02


 あれから二日。今後、同じクラスになったりしない限り俺がみょうじさんと関わることはないだろうという予想は大きく外れて、昼休みに廊下でたまたま鉢合わせた音楽教師に雑用を頼まれ楽譜の束を抱えて音楽室に入ると彼女がいた。

「あ、バレー部の……」

 みょうじさんは相変わらず半袖のシャツ一枚という涼しげな身なりだったが今日は髪を下ろしているようだ。染色なんて知らないような黒髪が大きく開け放された窓から吹き込むぬるい風にさらさらと揺れている。

 言葉を続けようにも続けられない。そんな様子のみょうじさんを見て、そういえば前に会ったとき名乗っとらんかったな。と思う。まあ、俺が名乗るような状況ではなかったから当たり前なんやけど。

「六組の北信介や」
「北くん。私は二組のみょうじなまえです」

 よろしくね。と柔らかく微笑むみょうじさん。みんな噂しとるから知っとるよ。とは口に出さずによろしくと一言返して、さてこの楽譜はどこに置くべきかと視線を彷徨わせた。先生は片しといてって言うてたけど。

「あ、それ吹奏楽部の?」
「わからん。中野先生に片しといてって渡されてん」
「運悪く雑用押し付けられちゃったんだね」

 彼女は座っていたグランドピアノの椅子から立ち上がると「ちょっと見せて」と俺に近づいてきた。隣に立って俺の腕の中の楽譜を覗き込むみょうじさんからはなんやええ匂いがして、柄にもなくちょっとときめいた。

「うん、吹奏楽部のだね。私、楽譜しまう場所知ってるから手伝うよ」
「それは助かるわ。ありがとう」

 こっちだよ。と言うみょうじさんの後について音楽室と繋がる隣の音楽準備室へと足を踏み入れた。初めて入ったな。楽譜とか、楽器とか、こんなにたくさん仕舞われてたんや。壁と窓を覆うように置かれた背の高い本棚にびっしりと詰められた音楽の雑誌や楽譜の束と所狭しと置かれた楽器たちに少し驚いた。

「北くんに頼んだんだからここら辺に置いておけばいいと思うんだけど、金管、木管、パーカスに分けておいた方が親切だから」

 手伝うね。とさっき聞いたような台詞をもう一度言って、俺の手から楽譜の束を取り机に置くとペラペラと捲って何かを確認するみょうじさん。ありがたいな。とか、優しい子やな。とか、思うことはいろいろあったけどそれより先に、今しがたみょうじさんが発した言葉のひとつが理解できずに反芻する。

「パーカス……」
「あっ、ごめん。パーカスってパーカッションの略。打楽器のことだよ」
「みょうじさんはピアノ以外にも詳しいんやね」
「中学校に上がるまではいろんな楽器やってたから」

 ふわりと笑ったみょうじさんがそれからまた楽譜に視線を戻して、気づいた。そういえばこの子は、人の目をよう見て喋る子やな。二日前も、初対面の俺にちゃんと目を合わせて話しとった。目は口ほどに物を言う、とよく言うが本当にその通りだと思う。ほんの一言交わしただけでそれまで話したこともなかったみょうじさんに俺が好印象を抱いたのはきっと、彼女が澄んだ瞳で真っ直ぐに目を見て話すからだった。

 俺がそんなことをくどくどと考えている間も、みょうじさんは楽譜の右上に書き込んである略号を確認しながらてきぱきと楽譜を仕分けていた。金管、木管、パーカス。三つの山に分けられたそれらのどれがどれなのか、略号を見ても俺にはまったくわからなかったが、元々一つだった束がそれぞれの三つの居場所に収まっていく様子を見るのはなんだか面白かった。

「……よし。これでオッケー」
「俺が頼まれたもんやのに、ありがとう」
「どういたしまして。私、こういう作業好きだからたのしかったよ」

 たまたま居合わせただけやのに当然のように手を貸して誰かのための"親切"をやってのけるみょうじさんは、その瞳のように心の綺麗な子なんやろな、と感心する。普通、この年頃は特に、こういうことは面倒くさがってやらん人のが多いから尚更。

 一緒に音楽準備室を出て音楽室に戻ると、壁一面のぽつぽつと穴の空いた有孔ボードみたいに俺の頭の中にもぽつぽつと文字が浮かんだ。

「ピアノ以外って、何やっとったん?」

 答えを聞いたところでその楽器の形状を思い出すことくらいしかできないであろう質問を投げかけたのはなぜか。自分でもよくわからなかった。ただ、用事を終えてすぐにここを離れるのが惜しいと、思ったような、いないような。

「んー、サックスとフルートとトランペットと、あと、ドラムとチェロもやったよ。一番長かったのはヴァイオリン。結構大きいコンクールで賞もらったこともあるんだよ」

 すごいでしょー。なんて言う割に鼻にかけた感じがまったく無いのが不思議だ。にこにこと懐っこい笑顔を浮かべるみょうじさんはやはり、俺の目を真っ直ぐ見つめていたし、その笑顔は今まで見た中で一番しあわせそうだった。

「みょうじさんは、ほんまに音楽が好きなんやね」
「えっ」
「ん?なんか変なこと言うてしもうた?」
「いや、うん……」
「どっちやねん」

 否応どっちつかずな返答に思わず突っ込むと、みょうじさんは驚いたように目を丸くして、それから耐えきれなくなったみたいに笑い声を漏らした。

「ふっ、北くんもツッコミとかするんだ」
「そらツッコミどころがあればするわ」
「関西人だなあ」
「これは関西に限ったもんなんか?」
「いや、どうだろう」
「わからへんのかい」

 そう言うとみょうじさんはまた笑った。なんや、関西弁のツッコミがツボなんやろか。みょうじさんはひとしきり笑って「あーおもしろい」と一息つくとピアノ椅子に腰を下ろした。

「さっきの話、私、よく才能あるとか天才とか言ってもらえるけど、音楽が好きなんだねって言われたの初めてだったから。ちょっと、びっくりした」

 なんも知らん奴が失礼なこと言うてしもうたか、と思ったがみょうじさんが穏やかに目を細めているのを見るにそんな心配は不要だったらしい。

「俺は、天才っちゅう言葉はあんま好きやない」
「そうなの?」
「せやって、最初からそんな奴居らへんやんか」

 人よりちょっと勘を掴むのが上手いだとか、体格が恵まれているとか、そういう少しのアドバンテージみたいなもんは確かに存在すると思う。せやけど、そういう奴らかてなんとなくぼんやりしとったらあっという間に頭打ちや。実際にそう言う人間も、見たことがある。

「音楽でもスポーツでも、"天才"って呼ばれる奴らは普通の人が十やるところを二十やりよる。或いはより効率的な十。密度の高い十。ほんでたまにAからZまでやってみたらおもろいんちゃうかって考えたりする。失敗しても周りになんて言われても、普通やったら大事にするようなモンを犠牲にしてでもやらずには居れん。そんなんできるの、好きやからやろ」

 いつだって、人目を惹くような人間は、自分のやっとることを心から愛しとるんや。って誰が見てもわかるような顔をしている。さっきのみょうじさんの笑顔は、俺が子供の頃に釘付けになったテレビの中の選手と重なった。

「そうやって、好きなモンと向き合ってひたすらに努力してきた人間を最初からそうやったみたいに"天才"って呼ぶんは、失礼やと思うねん」

 あの選手も、みょうじさんも、きっと普通の人らの倍練習して、思いもつかないようなことを試して、遊ぶ時間も時には寝る時間までも惜しんで好きなモンに打ち込んできたのだろう。交わした会話は決して多くないし、俺はみょうじさんの名前と人の目を見て話す優しい子だということくらいしか知らないけれど、あのしあわせそうな笑顔ひとつで必ずそうだと確信した。

「……ふふ、そっかぁ」

 ぼうっと俺を見つめていたみょうじさんが、ふと我に返ったかのように笑みを溢した。その笑顔がまた、しあわせそうでかわいらしくて、そんな気持ちを誤魔化すように口を開いた。

「あくまで俺の持論やけどな」
「私は好きだな。その持論」

 その柔い眼差しに見つめられて、俺は初めて彼女から目を逸らした。なんと、返そうか。と考え始めたところで予鈴が鳴って、昼休みの終わりを告げる。

 どうせ帰る方向も同じだから、音楽室を出ると自然と肩を並べて廊下を歩きはじめた。そういえば、みょうじさんも何か用があって音楽室にいたのだろうか。だとしたら雑用を手伝わせて時間を奪ってしまって申し訳ない。と素直に口にすると「気分転換にふらっと来ただけだから平気」と微笑まれた。それなら、みょうじさんがそう言うなら、ええか。

「ねえ。今度、私の演奏聴いてくれる?」

 特別教室棟とクラス棟を繋ぐ渡り廊下に差し掛かり遠くに喧騒が聞こえはじめた頃、みょうじさんが俺の顔を覗き込んで、相変わらずかちりと視線を重ねてそう言った。音楽のことなんて、ましてやクラシックのことなんてまったく詳しくないけれど、今度は目を逸らさずに小さく口元に笑みまで浮かべて、俺は迷わず頷いた。