05



 整理整頓。なんて貼り紙の横にはキラキラのモールで縁取られたクレープの宣伝ポスターが飾られている。なんとも不釣り合いな二つをぼんやり眺めていると、背後から聞こえてきた笑い声が耳をくすぐった。

「おはよう、北くん」
「おはよう」

 振り返ると、いつものスクールシャツではない、水色と白の縦縞模様のサッカーユニフォーム風のクラスTシャツと制服のスカートを身に纏ったみょうじさんがにこにことご機嫌な笑みを浮かべていた。みょうじさんは普段からにこにこしている子だけど今日は一段と笑顔が眩しい。よっぽど文化祭を楽しみにしてたんやなぁ。と微笑ましくなってしまう。

「クレープ好きなの?」
「ん?普通やけど」
「そうなの?じーっと見てたから食べたいのかと」
「ああ。なんやアンバランスやなあって思て」

 筆で書かれた整理整頓の貼り紙を指差すと、みょうじさんも「ほんとだ」と笑った。俺は今度はその横顔をじーっと見つめる。高い位置で一つに結われた髪がくるくるに巻かれているだけでも十分かわいらしいのに、今日はどうやら化粧までしているらしい。綺麗な曲線を描いて天井を向くまつ毛だとか、キラキラ輝く瞼だとか、ほんのり血色が足された頬だとか、初めて見るおめかし姿に俺まで気持ちが浮ついてしまう。極め付けは小さな唇に乗せられたつやつやの薄紅色で、俺も男なのでどうしてもそこにばかり目が行ってしまって困る。

「ねえ、北くんはなに食べる?」

 不意にこちらを向いた純粋な瞳にそれはもうかなりの後ろめたさを感じて、そうやなぁ。と考えるふりをして壁中に貼られた宣伝ポスターへと視線をずらした。

「焼きそばとたこ焼きは食いたいな」
「おお、さすが運動部。がっつりだね」
「みょうじさんは?」
「クレープ!」
「即答やなあ」
「好きなの。甘いもの」

 とびきり甘い笑顔にこっちは胃もたれしそうやけどな。という言葉はぐっと飲み込んで、「今日は甘いものがたくさんあって幸せ」なんて両手で頬をおさえるみょうじさんに、そらよかったなあ。と相槌を打つ。

「クレープは食べたいんだけどね、味が七種類もあるの。知ってた?」
「へぇ、知らんかった」
「私が食べたいのはイチゴレアチーズスペシャルとチョコバナナデラックスとブルーベリーカスタードホイップ!」
「食いしん坊やな」
「ピアノだって結構体力使うんですぅ」

 あ。あかんて、いま唇尖らせんのは。思わず左手で目元を覆ってため息を吐くと、呆れていると勘違いされたのか「本当だもん」と拗ねた声。ちゃうんやけどな。

「せやけど、そんなに食ったら他のモン食えなくなってまうんやない?」
「そうなの〜。だから北くんがクレープ好きならシェアしてもらおうと思ったんだけど。残念」

 一緒に周る友達はみんなダイエット中とか言うし。とまた唇を突き出して不貞腐れるみょうじさん。もうここまでくるとワザとか?小言のひとつやふたつ言いたなってくるわ。だけどそんな考えは、子供が欲しいおもちゃを見つめるみたいにクレープのポスターを見つめるみょうじさんを見たら綺麗さっぱり消え去った。

「ええよ。嫌いやないし、俺もその呪文みたいなクレープ食ってみたいわ」
「ほんとにっ?」
「おん。ほんまに」
「うわぁ〜、北くんは神様だ」

 瞳を輝かせて大袈裟に喜ぶみょうじさんに思わずこっちまで嬉しくなってくる。みょうじさんは「あ、そうだ」と思い出したように手を叩くと、スカートのポケットからマジックペンを取り出した。

「ちょっと手出して?」
「片手?両手?」
「もうっ、からかわないでよ」

 照れ臭そうに笑うみょうじさんに片手を差し出すと、キュポン、と音を立ててマジックペンのキャップが開けられた。シンナーの匂いがつんと鼻をつく。

「今日と明日は部活お休みだよね?」
「おん。油性で書いても怒らへんよ」
「よかった。北くん怒ると怖そうだもん」
「みょうじさんは怖ないやろなあ」
「怒るよ?」

 とは言いつつその口元は弧を描いている。みょうじさんは律儀に「失礼します」と断りを入れてから俺の手のひらにペン先を滑らせていく。い、ち、ご、れ、あ……ああ、クレープの名前を書くつもりか。とそこまでわかればもう手のひらを凝視する必要はなくなって、真剣に、楽しそうに人の手に油性ペンを走らせるみょうじさんを見下ろした。

「はい。これでよし」
「ほんま呪文みたいやなあ……」
「北くんが絶対に私とクレープを食べるって呪文」

 三種類のクレープ名のカタカナが並ぶ手のひらを見つめて呟くと、みょうじさんはそんな俺をくすくすと笑いながら言った。なんやそれ。かわいいにも程があるやろ。そんな呪文ならいつでも呪われたるわ。水性なら、部活がある日でも大歓迎やし。

「俺が神様なら、みょうじさんは魔法使いやね」
「魔女の方がかっこよくない?」
「どっちでもええよ。好きなほう選び」
「急に投げやり!」

 投げやりというか、甘やかしたつもりなんやけど。そんな無言の抗議がみょうじさんに届くはずもなく、魔法使いは子供っぽいから〜なんてご丁寧に理由を説明してくれている。

「なまえー!あんた頭にリボンつけてへんやろー!」

 数メートル先の教室のドアから顔を出して声を張るのはみょうじさんと同じクラスTシャツを着た女子生徒だった。あ、みょうじさんとよう一緒に居る子や。名前は知らんけど。

「えー、リボンなんてあるのー?」
「ある言うたやんかー!水色と白どっちがええー?」
「待っていま行くー!」

 みょうじさんは会話に一区切りつけるとふわふわの髪を揺らしながらこちらを振り向いて、ぱっと花びらが開いたように笑う。

「それじゃあ、北くんまたね」
「あ、ちょお待って」
「ん?」
「今日のおめかし、めっちゃかわええな」

 おはようと挨拶をした時からずっと言いたかった言葉を口にすると、みょうじさんは頬に乗せられた色よりもっと濃く頬を赤らめた。化粧するよりこっちのが手っ取り早いんやないか?ってくらい一瞬やったから、ふは、と笑い声をこぼすと、ぺちりと腕を叩かれた。まったく痛くないところがまたかわええ。

「そ、そんなことのために呼び止めないでっ!」
「あと、」
「なんですか!」
「白のがみょうじさんに似合うと思う」

 ほんまはそれ以上かわいくしてほしくないんやけどな。今日は外部の人間もたくさん出入りするし、みょうじさんの噂を聞きつけて他校の男子が盛り上がってるらしい、と練に聞いた。まあ、俺が気を揉まんくてもみょうじさんの周りの女子たちが眼を光らせとるやろうけど。時に女は男より強し。や。

「……じゃあ、白にする」

 髪を耳にかける仕草をして、そう小さく呟いたみょうじさんは、俺が声を上げる間もなくぱっと背を向けて駆けて行った。なんなん、それ。言い逃げはずるいやろ。そんなんは、反則やんか。なあ。そんな心の声は無論彼女に届くはずもなく、揺れるふわふわの髪を眺めながらじわりと熱を持つ頬と乾いた唇を右腕で覆った。