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『なに考えてんの』
『…怒んないでよ』
『自分が襲われるかもしれないって思わなかったわけ?』



近くにいるから一緒にランチをしようと友人のクロエから連絡が入り、職場近くのカフェで昼食をとることにしたまではよかったのだが。どことなく上の空であることに気づいた彼女に問い詰められ、先日あった諸々を全部話したのが間違いだった。この歳で本気で怒られるのは案外へこむ。



『でも無視するわけにもいかなかったし…』
『優しいのは結構だけど、身の程知らないと逆に事を大きくするだけよ』
『…そう、だけど』



思わずクロエの視線から逃げるように窓の向こうをみる。さすが、現役警察官の迫力は桁違いだ。あの日のタンクトップの男より恐ろしい。この調子でランチが続くのなら早く時間が過ぎて昼休みが終わればいいのにと切に願うが、そういう時ほど時間の進みは遅く感じるものである。



『けど、なによ』
『……もうしない』
『約束するわね』
『……する』



渋々頷くと彼女は満足したのかサンドイッチを齧りだした。それに倣い私もサラダにフォークを突き刺し口に運ぶ。すると、クロエは先ほどとは比べ物にならない明るい声で、『それで』と話し始めた。今度は何を言われるんだ。



『彼のことはどーするの』
『どうするって……』
『考えるって言ったんでしょ』
『……言ったけど、やっぱりちゃんと断るよ』
『あら、なんで』
『寝たのは完全に成り行きだし……』
『その成り行きで初めて奪われた彼には同情するわね』



フォークの先からぼとりとレタスが皿に落下する。もしも言葉が具現化していたら、いまの彼女の発言は鋭い刃となり私の心臓を勢いよく突き刺していたことだろう。あまりの衝撃に思考はフリーズし、ただ彼女の言ったことだけが何度も頭の中で繰り返し再生されている。確かに今日まで私は自分の行いを反省してきた。けれどそれはあくまでも自分のための反省にすぎなかったのだ。彼のことなど何も考えちゃいなかった。本来初めては大事な人と時間をかけて段階を踏んで、お互いの気持ちを確かめ合うために及ぶべきであったはずで、それをあんな形で奪った挙句翌朝には逃亡しその上忘れてほしいなど、罪が深すぎて溺死しそうだ。



『ど、』
『なに?』
『どうしよう…』
『なにが』
『私、すごく、最低じゃ…』
『今更ね』



至極つまらなそうに、クロエはほぼ氷だけのアイスティーをストローでかき混ぜながら言った。それからズッと最後の一口を吸い上げて、傾けたグラスをもとに戻す。それと同時に手元の携帯の画面が明るくなり、着信を伝えていた。タイムリミットのようだ。



『はぁ、戻らなきゃ』
『…このあとも頑張って』
『あんたは人のこと応援してる場合じゃないでしょ』



ごもっともだ。どうするべきなのかは全く分からないが、このままじゃいけないということだけはちゃんと分かる。クロエと一緒に席をたち、半分も減っていないサラダと手つかずのサンドイッチを包んでもらってから店をでた。昼時のシドニー市内は明るく、活気にあふれている。



『まぁ幸い、彼は名前を好きだって言ってるんだし、悪いと思うなら誠心誠意応えなさいよ』
『私のしたこと考えたらむしろ応えないのが正しくない…?』
『その上で告白してきたんでしょーが。それであんたは考えるって約束したの。だったら切り捨てないで歩み寄る、それから答えだすってのが誠意なんじゃないの』



まるで子供を説教するような表情で、人差し指を私の胸に突き立てながらクロエは言った。なんの答えも導き出せていない私はそれが正しいことなのかもわからず、けれど一理あるような気もして、曖昧なまま『うん』と返事をした。そんな思考も彼女にはお見通しのようで、お互い煮え切らない表情のまま手を振り合った。 
職場に戻り持ち帰った昼食をロッカーに放り込む。閉めた扉に額を付けると、ガツンと思ったより大きな音が鳴った。スチールの冷たさがじんわりと広がって、やがて自分の体温となじんでいく。時計の秒針の音だけが広がる室内で、今日何度目か分からないため息をついた。

考えなくちゃいけないことがたくさんある。自分のしてしまったこと、彼との約束、私のすべきこと。

閉じていた目をあける。クロエは切り捨てず歩み寄れと言っていたけど、正直そこはまだわからない。それが正しいかどうかの判断がつかないからだ。正解なんてあるかもわからないが。ただひとつだけ、今の私がやれること、やらなければいけないのは、きちんと謝ることだろう。彼の言葉も行動も蔑ろにしてしまったことは謝罪しなければいけない。誠意を見せろと言うならきっとまずはそこからだ。
心を決め、ロッカーから顔を離し鍵をしてから漸く事務所へ向かった。



『お前、日に日に弱っていってないか?』
『…ですかね』



そう言うのは私の上司だ。弱っているというのは語弊があるが、確かに元気いっぱいでないのは認めよう。
なにせ、あれから一週間だ。松岡くんに謝罪をしようと心を決めてから、今日で一週間が経とうとしている。なぜだ。会いたくないと思っていた時にはあんなにも簡単に、あっという間に再会を果たしたというのに、会いたいときに限ってチームの練習の予約は入らない。今まで逃げ回っていたせいで連絡先のひとつも聞いていない自分が憎くて仕方ない。もしかしたら遅い時間にふらっと自主練でもしに来ることがあるかもしれないと、ここずっと遅番を買って出ているせいか若干寝不足気味でもある。今朝鏡をみたらうっすら隈ができていて絶望した。それでも諦めてなるものかと、今日も今日とて事務所で二十一時を迎えている次第だ。帰り支度をしている上司が憐みの視線を投げかけてくる。



『ホラ、これでも食って元気出せ』
『……カップラーメン、これ日本のじゃないですか』
『あぁ。さっきミハイルに会った時にもらったんだよ。土産だと』
『ミハイル……ミハイル?!コーチ?!』
『うわっ、なんだよ急に』
『いたんですか、ミハイル!チーム、来てました?!』
『いや、今日は調整だけだとか言って一人だけだったぞ。あの日本人の、』
『すみませんちょっと行ってきます!』
『はぁ?なぁオイ、たぶんもう帰っちまってるぞぉ』



最後らへんの上司の言葉はよく聞こえなかったが、なんであろうが関係ない。このチャンスを逃してたまるか。廊下を駆け抜け室内プールへ向かうがそこはすでにもぬけの殻で誰一人としていなかった。休んでいる暇はない。今度は屋外の方へ向かって走り出す。スタッフも殆ど帰ってしまっている施設はがらんどうで、自分の足音が大きく響いていた。
もう無理これ以上走れないと思いながら必死に足を前にだしてたどり着いたプールにも、人影はなかった。疲労が一気に押し寄せる。こんなに全力疾走したのはいつ以来だろうか。膝に手をつきながら大きく肩で息をする。じんわりと滲む汗がこめかみから滑り落ちた。



「名前さん…?」



呼吸の音と重なって、一瞬聞き間違いかと思った。それでも聞こえた声に振り返らずにはいられない。勢いよく後方をみる。プールの入口のすぐそばで、ジャージ姿の松岡くんが立っていた。



「大丈夫ですか…?」
「……だいじょうぶじゃない」
「なんでそんな…、走ってきたんですか?」
「そう、だよ、めちゃくちゃ、走った…」



ゆっくりと呼吸を整えていく。松岡くんが小走りで寄ってくる。背中に添えられた手から体温が浸透していく。そこにまたじとりと自分の汗が滲むのを感じながら、漸く身体を起こした。それから、松岡くんを正面から見据えた。



「君に、会うため」
「俺に、ですか」
「そう」



少し困惑気味の表情を浮かべる松岡くんは、私の背中から手をよけて佇まいを直した。話をしようとして息がつまる。あんなに何度も、会えたら言おうと思っていた言葉たちを頭の中で反芻していたのに、いざ本番となると真っ白になってしまった。それが焦りに拍車をかけて、余計パニックに陥ってしまっている。どうしよう、そういえば人に謝るのって、業務外だと子供以来のような気がする。変に処世術を学んできたせいか、人の顔色を窺ってすごすのが妙にうまくなったから。
松岡くんの表情が一層曇る。このままではまずいと、反射的に体が動いた。



「あの、」
「ごめん」



腰から先を垂直にまげて謝りながらお辞儀をしたのと、彼が声を発したのはほぼ同時だった。いま松岡くんがどんな表情をしているか確認するのはちょっと怖い。ぎゅう、と握りこぶしを作る両手にさらに力をいれると、それを宥めるように優しく、両肩に手が置かれた。まるでそうしてくれと言われているように、私はゆっくりと身体を起こした。



「なんで名前さんが謝るんですか」
「…自分のことしか、考えてなかったから」
「そうですか?」
「そうだよ。勝手に酔っぱらって、家に入ってあんなことして…忘れろとかさ」
「…あれは、俺も悪かったです。すみませんでした」
「松岡くんは悪くない。私が、」
「でも結局、俺は誘いにのりました。だから、ごめんなさい」
「……やめてよ、そういう、大人の対応」



いたたまれなくて視線を逸らす。分かっていた。松岡くんはきっとそう言うだろうと予想はしていた。だけど本当に予想通りで、いや、それ以上にずっと優しい真剣な目で言うから、罪悪感が余計に募る。締め付けられる胸の痛みで顔が歪む。溢れそうな熱を止めようと唇をかみしめた。



「…わかりました」
「……?」
「名前さんの謝罪、ちゃんと受け取ります」
「…ありがとう」
「その代わり、ひとつだけお願い聞いてもらえませんか」



優しかった表情に色がさして、少しおどけた様子に変わる。それで彼の気が済むなら私に拒否権はないわけだが、一体どんなことをお願いされるのかと思うと身体に力が入った。私の心配をよそに、松岡くんはジャージのポケットから携帯を取り出して見せる。



「連絡先交換してもらえませんか」
「……え」



拍子抜けして思わず間抜けな声が出た。お願いするようなことだろうか。というかそんなことでいいのかと逆に不安になる。よくわからないまま同じように携帯を取り出し、メッセージアプリのコードを表示して松岡くんの携帯に寄せる。それを彼が読み込むと、間もなくして既存のスタンプがひとつ送られてきた。



「用があったらいつでも連絡してください。今度は俺が走ってむかいますから」



いたずらに笑うその姿に、胸の奥が満たされていく。この柔らかく、どこか甘いぬくもりを感じたのは今日が初めてではない気がした。