窓の向こう、ギラギラと目に痛い輝きを放つ太陽の光を浴びて、本格的な夏の始まりを感じていた。とはいえまだ7月の半ば、これからまだまだ暑さは増すのだろう。考えるだけで体力が奪われそうだ。


「おーい、プリント」
「あ、悪ぃ」


瞼を下ろして眠る体勢に入ったのもつかの間、倉田の声に目を開けた。上半身を捻りこちらを向いている倉田の手は、数枚のプリントをひらひらと上下に動かしている。早く取れ、ということらしい。軽い謝罪を口にしながらそれを受け取り、同じようにして後ろへ回す。椅子に深く座りなおし手元の紙に綴られている文字に目を走らせた。来週に控えている夏休み、その過ごし方についての諸注意に始まり、夏期講習の申し込みについて、それから、始まってもいない夏休みが終わってからのことについてとびっしり書き連ねられている。もうそんな時期か。去年、ひとつ上の先輩が、部活に勉強に文化祭の準備にと、ぎゅうぎゅうのスケジュールを汗だくになりながらも楽しそうにこなしている姿を思い出した。俺らにも今年、そんな夏が待っているのだろうか。高校生活最後の夏に思いを馳せるも、すぐに一時間目開始の号令がかかり、いま考えなくてはならないのは夏休みではなく、目の前の授業なのだという現実が頭を覆った。


「おーいマッキー、今日屋上で」
「俺今日はパース」
「今日はってか、今日も、じゃん!昨日食堂来なかったし!」
「どこいってたの、昨日」
「美術室」


昼休み、珍しく及川が教室へやってきたと思いきや、こんなクソ暑い中屋上で飯をとろうと言ってきたので秒で断った。そんなところへ行くくらいなら、昨日みょうじに教えてもらった穴場でひっそりと過ごした方が有意義だ。行き先を告げると、及川も、その隣にいる松川も一瞬ハテナを飛ばしたが、松川はすぐに「じゃ俺らだけで行くわ」といって、及川の背を押して廊下を歩き始めた。「何?なになに、美術室ってなんかあんの?」と及川の騒ぐ声が聞こえていたが、それも次第にフェードアウトしていく。案外、及川なら俺も行く、と言い出しかねないと思ったがそこは松川のおかげで免れた。ぱたぱたと、空気が抜けるような上履きの足音だけが聞こえる。携帯片手に廊下を歩き、美術室の戸に手をかけ顔を上げた。


「…あ」
「げっ」


後方の入り口の戸を開けようとしている人物と目が合った。というかまぁそいつはみょうじなわけだが、彼女も俺と同様、昼飯の入っているであろう袋を手に提げていた。元はといえばみょうじが昼食をとる場所として見つけていた場所だ。鉢合わせてもおかしくはない。というより、恐らくこうなることを俺は期待していたんだろう。あいつらが着いて来てなくて良かったと心底思っているのが、その証拠だ。しかしなんだ。その、汚物をみるような目で俺を見るのはやめろ。俺が何をした。


「なんつー顔してんの」
「なんであんたがここ来んの」
「気に入ったから?」
「私の場所だし!」
「いや、美術部のだろ」
「あああ、私の平穏なランチタイムが…」


わざとらしく肩を落とすみょうじを無視して教室の中へ入る。俺らがいま足を踏み入れるまで恐らく人は来なかったのであろう空間は、夏にしてはどこかひんやりとしていた。それがまた気持ちいい。「2−B 坂田」とタグに書かれたクッションを今日も拝借して床に落とし、窓辺の壁に背を預けて座った。木漏れ日が窓から差し込み、日向ぼっこにはちょうど良い場所だ。


「私のベスポジ…」
「一緒に座る?」
「座らねーです!てかこっからこっちに来たらダメだから!」


床のタイルの線を指差し、みょうじは正方形二枚分の間を空けて隣に座った。その行動になんの意味があるのか。こいつ今日どっかおかしいな、熱でもあんのかな。そんなことを考えながら熱心にみょうじを見ていると、彼女はほんのり頬を染め、けれど目を吊り上げたままビシっと音が聞こえてきそうなほどきっちりと人差し指を俺に向けた。


「あんたは前科あんだからね!要注意人物に認定したから!」
「全然話が見えないんだけどもしかしてまだ寝てる?」
「あ、あああんた昨日私にあんなことしておいて、よくそういうこと…!」
「昨日…?あぁ、サンドイッチ?ごめんて、買ってきてやろーか?」
「そうじゃネーヨ!!」


左手中指だけを突きたてこちらに向ける。その指を掴んで思い切り反らすと、ものすごい勢いで引き抜かれた。「折れるわ!」だったらそういうことをするんじゃない。フリかと思うだろ。声を殺して笑っていると、横では随分乱暴にパンの袋が開けられる音がした。今日はお目当てのメロンパンをゲットできたようだ。


「花巻今日は購買じゃないんだね」
「おー」
「なんでここ来たの?」
「気分?」
「ふーん」
「なに、来ないで欲しかった?」
「…そういうんじゃない」


じゃぁ、どういう意味で聞いたんだ。ちらりと横目で彼女を盗み見るも、パックの苺ミルクを吸い上げながら、前に投げ出した足の先を見つめているみょうじの表情からは何も読み取れなかった。こういうとき、何でもない風に聞くのが苦手なのだと最近分かった。核心に触れてしまいそうな際どい質問に、俺はビビっている。情けのない話だ。関係をクリアにしたいと思う反面、今のこのどっちつかずな、曖昧な関係に安心してしまっている部分が大いにある。遠いような近いような、手を伸ばしたらすぐにでも届きそうなこの距離が俺をダメにしているのだ。分かっているのに踏み込めないのは、彼女の気持ちがよく分からないから。だからと言って本心に迫るのは怖いと立ち止まっているのだから、随分と慎重になってしまったものだと乾いた笑いがでた。


「もうすぐ、夏休みなんだね」
「そうらしいな」
「花巻は部活?」
「まーそうなるだろネ。お前は?」
「あたしもバイト三昧かなー。最後くらい目一杯貢献しないと」
「なに、やめんの?」
「うん、夏休み終わるのと同時くらいに」
「ふぅん」


そりゃそうか。あまりにのんびりしていて、時々自身が受験生の身であることを忘れそうになる。そろそろ勉強の方にもエンジンをかけ始めなければ、及川や岩泉のようにスポーツ推薦で大学を受ける生徒とは違うのだ。志望校も決めて、それに向けて何が足りないのか等、挙げだしたらキリがないほどやることは山ほどある。尻ポケットに雑に突っ込んでいた、今朝配られたプリントを広げた。「夏期講習の申し込みについて」の項目を、皺を伸ばしながら改めて眺める。


「自由参加とか言ってさ、ほぼ強制だよね、それ」
「申し込まなかったらめちゃくちゃプレッシャーかけてくるからな」
「そーそー。だから夏休みっても、最初の1週間はまだ授業受けてる感じだよ」
「どれ取んの?」
「めんどくさいから数学だけ。花巻は?」
「俺も英語だけ」


基本的には自由参加。参加を希望の生徒は時間割の中から好きな科目を選んで好きに受けられる、という形の夏期講習はみょうじの言うとおり、参加を拒否することは中々できない。というのも、申し込みをしなかった生徒へはもれなく教師からの圧力がかけられるのだ。「随分余裕だね、それなら志望校のレベルひとつあげられるんじゃないの」と言われたときに一気に自信がなくなった、と先輩が語っていた。しかし、後に泣きを見ようとも、今の俺には部活が最優先であり、講習などというものに時間をとられている場合ではない。とにかく何かしら受けなければならないのなら苦手科目だけを選択してしまえという考えは、俺もみょうじも同じだったようだ。


「けど、お前が辞めたら佐々木が泣くんじゃね?」


しばしの沈黙のあと、ふと懐かしい名前を挙げてみる。最近では店の中に入らず、その入り口もしくは階段の下で待っていることが多いため、みょうじを迎えにいってもやつと会うことはないのだ。しかし、返事がない。なんだシカトか、反抗期か?「おい、」と喉元まで湧き上がっていた言葉を無理やり飲み込むと、ゴクリと喉がなった。微妙に空けられた距離の先、壁にもたれている彼女はかくりと頭を垂れ船を漕いでいた。食べ終わったパンの袋は丁寧に小さく三角に折りたたまれ、床に置いてある。ジュースのパックは手に握られたままだ。確かに、昼のこの時間は眠たくなる。満腹になっているなら、尚更だ。一体どんなに気持ちよさそうな表情をしているだろうと、すっかり顔を隠してしまっている髪をよけるべく手を伸ばした。タイル二つぶんの距離は案外、ある。恐る恐る、といった表現がぴったりなほど、俺はゆっくりと腕を真っ直ぐにしていく。あと、数十センチ、あと、数センチ。ゆっくり、ゆっくり。俺と彼女との間がなくなっていくにつれ、周りの音が聞こえなくなり、呼吸が上がって胸が高鳴った。なんだかいけないことをしようとしている、悪戯をする前の子供みたいな心境だ。どうしよう、やめようか。ここへきて迷いが出た。見たい、でも、触れてはならないもののような気もする。昨日はこんなことなど考えもせずに、易々と触れていたのに。あの時と今と、何が違うというのだろうか。


「……ん、」
「…っまじか、」


葛藤の真っ最中、そんなことも知らずに彼女は小さく唸る。そして身じろいだ後、再び眠りにつくが、その体は壁を伝い斜めになっていった。このままいくとみょうじの頭は勢いのまま床に激突するであろう。咄嗟に左腕を掴み、それを阻止する。しかし彼女は目を覚ますことなく、俺に支えられたまま傾きながら寝息を立てていた。器用なやつめ。どうにか最悪の事態を避けられたことに安堵するも、どうしたものかと頭を抱えた。咄嗟にとはいえ、触れてしまっている左腕。そこに目線を移すと、じわじわと手のひらが汗をかいていくのが分かった。昼休みが終わるまでこの体勢でいるのはキツイ。かといって、床に寝かせるわけにもいかないだろう。こいつだって一応女子なのだ。誰が踏んで歩いているかも分からない地べたに髪や頬や体を乗せるわけにはいかない。それならば。


「…文句は言わせねぇ」


そう、これは寝てしまったお前が悪いんだ。俺はお前が汚い思いや痛い思いをしない為に体を貸してやるのだから、むしろ礼を言われるべきなのだ。そう自分に言い聞かせ、「こっからはこないで!」と指定された境界線を超えて彼女の横へ移動する。ぴたりと体をくっつけ左腕を少しだけ強く引くと、重力に逆らうことなく、みょうじの体は俺の体に寄りかかった。かろうじて持っている苺ミルクのパックを彼女の手から抜き取り、窓の縁に置く。美術部の誰かがデッサンか何かのために持ってきたのであろう姿見が、俺たち二人を写していた。鏡の中の自分と目が合って、そこにいるのは俺なのに、なぜか誰かにこの光景を見られているような気分になって居た堪れなくなる。こうなったら俺も寝るしかないと、顔を俯けた。俺の右肩、というより二の腕あたりに頭を預ける彼女の寝顔は、この位置からはしっかりと見えてしまった。ああもう無理だ、完全に、眠れない。



シエスタを
決め込む者たち