指先が触れたなら

「なかなか良くならないわねぇ」
「…ん」
「病院、」
「いい。そこまでじゃないから」
「でももう3日目よ?」
「大丈夫。寝てれば、治る」


様子を見にやってきた母親を早々に部屋から追い出し、再びベッドへ潜り込んだ。3日というのは私が学校を休んだ日数で、あの日から数えて6日目にあたる。あれからロクに眠れない。翌日から始まった3連休は身体がずっしりと重く、泣き腫らした目と痛む頭や節々が嫌でもあの光景を脳に蘇らせた。72時間では私の傷は癒えるどころか瘡蓋さえできず、未だ生々しくバックリと割れたまま痛みを増していく。結局休みが明けても学校など行ける心境ではなかった為、こうして風邪のフリをして枕に頭を沈めている。一静には、会いたくない。それだけだった。


「大丈夫か」
「うん」
「…服。風邪ひくから、着ろ」
「うん」
「……」
「……」
「…名前、」
「忘れていいから」
「は、」
「忘れていいよ、全部。私もそうするから」
「おい」
「なかったことにしてよ」
「なぁ、こっち見ろよ」
「……ごめんね」


真っ暗な部屋の中、静かな空間で服を着る自分が酷く滑稽に思えた。何をしているんだろうと漠然と後悔が押し寄せるも、何に対しての後悔なのかも分からない。ただ、一静を傷つけてしまったという自覚だけはあったから、恐らくそれに対してなのかもしれないと、全ての思考にモヤがかかったように曖昧なまま完結させる。弱々しい声で私の名前を読んだ後、彼が何を言おうとしていたのかは想像すらつかない。どんな顔をしていたんだろう。彼の目に、私はどう映っていたんだろうか。知る勇気も無いくせにそんな疑問はしっかり頭にこびり付く。忘れていいよと言ったのは私なのに、なかったことにしろと言ったのも私のくせに、自分が一番そうすることが出来ずにもがいているなんて呆れるほかにない。目を閉じればあの声も、手の感触も、温度も何もかもが鮮明に感じられ、かといって眠らずにいれば暗闇の中ぼんやりと浮かぶ自室の白い壁が彼の肩越しに見えたそれと重なって見えてじわりと視界を滲ませる。そんな有様だ。後悔先に立たず、そんな言葉の意味をこんな形で身を持って知りたくなどなかった。


『生きてる?』


ようやく眠れそうだったのに。とっぷりと日が暮れた頃、この時間になるまで自分が一体何をしていたかは分からないけれど確かに時は過ぎていて、いい加減限界を迎えていたらしい身体が睡眠を促していた。抵抗することなくまどろみへ落ちる寸前、電子音が耳を突く。プツリと途切れた糸はもう繋がらず、手放した風船の如く眠気はどこかへ飛んでいってしまった。枕の下に埋めた携帯を引っ張り出すと、友人の名前と共に生存確認のメッセージがポップアップ表示されていた。


「さぁ」
『いつになったら学校来んの?』
「治ったら」
『ひいてもない風邪なんか治るかバカ』


バレていたらしい。彼女は私のことをなんだと思っているのか。もし本当に風邪だったらどうするんだと思いつつ、彼女が言っていることは間違いではないので言葉を返しあぐねる。うだうだとしているうちに、もう一通メッセージが送られてきた。


『いい加減来てよ。あんたの旦那が毎日うるさい』
「旦那ってなに」
『いるじゃんバレー部の』
「旦那じゃないし」
『なんでもいいけど、名前いるかとか連絡ついたかとか毎回聞かれる私の身にもなって』


キリ、と胃の辺りが軋む感覚がした。どうしてそんなこと聞くの。私のことなんて気にする必要ないのに。あの日のことなどなかったことにしてこれからの高校生活を過ごしていけばいい。そうしてもらうための「忘れて」だったのに。返事をすることも忘れて、布団を頭からかぶって身体を縮こめる。一静が分からない。あんなに傷ついた顔したくせにそうさせた相手を気にかけたり、責めるようなことも言わなければどうしてと問いただしてくることもない。あったのは、あの日の翌日に送られた「大丈夫か」のメッセージひとつだけ。これを送信したとき、彼はどんな気持ちだったのだろう。考えれば考えるほど分からないことが浮き出るばかりで、頭が痛くなる。もうやめよう。また眠れなくなるから。電源を落とそうと携帯のボタンに指をおいたと同時に再び彼女からのメッセージが届いた。並んだ文字を目にして、息を止めた。


『あんまりうるさいから、今日出た課題持って行かせた。ズル休みでしたってちゃんと白状しなよね』


勢いよく身体を起こし部屋の電気をつける。テーブルの上にある時計は20時43分を告げていた。まずい。部活なんてとっくに終わってる。私の足なら30分はかかるが、あいつの足なら20分かからないで着くだろう。とすればもうすぐそこまで来ているはずだ。どうしよう、どうしたらいい。窓の前に立ち息をのむ。二階だ。自分の頭に浮かんでいることを実行すればどうなるかくらい幼稚園児でも分かるだろうが、正しい判断などくだせないくらいには焦っている。唯一残っていた一欠けらの冷静が、部屋の電気を消すよう指示していた。


「あらー、いらっしゃい!」
「遅くにごめんおばさん」
「いいのよー!ご飯は?食べてく?」
「いや、プリント渡したら帰るよ」
「わざわざありがとうね」
「名前、寝てる?」
「さっき電気ついてたから起きてると思うけど…寝てても部屋入っちゃっていいわよ」


階段をおりてすぐにある玄関での話し声は二階の部屋まで筒抜けだ。できることなら一静からプリントを受け取って立ち話でもしてさっさと帰してやってはくれないかと期待していたが、なんとも最悪な提案をしてくれた。終わった。逃げ場などないこの空間の中で、私はただ布団をきつく身体に巻きつけて怯えるしかない。ギシ、と階段を踏みしめる音が近づいてくる。お願い、お願いだから、そっと課題だけ置いていって。声なんてかけないでそのまま行って、お願いだから。一静に名前を呼ばれたら、泣かずにいる自信がない。足音が止む。コンコンと、大層控えめなノックの音が聞こえた。


「…寝てんの?」
「……」
「なぁ」
「……」
「開けるぞ」
「っ、ダメ!」


ベッドから転がり落ちるように抜け出し、扉とノブを目一杯押さえた。ガタン、と大袈裟な音がして、すぐに訪れた沈黙に緊張が高まる。身体が小刻みに震え、息はあがっていた。この薄い扉一枚の向こうには、一静がいる。そのことが怖くて堪らなかった。


「…課題、持ってきた」
「そこに、置いてって」
「あのさ、」
「ありがとう、持ってきてくれて。もう平気だから明日は学校行くし気にしないで帰っていいよ。お願いだから早く、」
「名前」


彼は、人の言葉を遮ってまで話すようなことはしない人だ。最後まできちんと聞いてから、ゆっくりと目をみて優しく話してくれる。その彼が初めて、私の声に被せて言葉を発した。ボリュームは限りなく抑えられているはずなのにやけにしっかり聞こえて、思わず口を噤む。何を言われるのだろう。喉がカラカラに渇いていく。大きく空気を吸ったとて酸素は殆ど肺に行き着かず、胸が締め付けられるだけだった。苦しい。


「あの日のこと、ごめん」
「…っ、」
「無責任なことして、ごめん」


惨めだ、と、思った。謝ってほしくなんかなかった。好きでもないのにあんなことしてごめん。そう言われてるみたいで、悲しみだとか寂しさだとかそんな感情よりも惨めさが溢れた。分かっていた。自分だけが好きで堪らなくて求めていたことくらい。それをこんな形で突きつけられるとは思わなかったけど。もう嫌だ。涙がまた頬をすべり落ちていく。


「…もういいから、帰ってよ」
「名前、」
「お願いだから…!」
「……」
「もう…、分かってるからっ…」


ずるずるとその場に沈み込む。口にすると思った以上に切なくて、何かに切りつけられているみたいに鋭い痛みが走った。分かってる、分かってるから。ちゃんと分かってるから。言い聞かせるように何度も反芻する。もう私の口からは嗚咽しか漏れていかなかった。扉が、ゆっくりと開く音がする。すぐそばに一静がいる。顔を上げたらそこにいるのだと思うと、覆う手に力が入った。


「なぁ、俺の声ちゃんと聞こえてる?」
「……かえって、よっ…」
「うん、聞こえてんならいいや。そのままちゃんと聞いてて」
「…かえって……」
「お前が好きだよ。ずっと好きだった、女として」


止めたくて仕方のなかった涙は呆れるほどあっさり勢いをなくした。すっかり思考能力が低下してしまった脳みそでは今のこの展開に追いつくことができず、ただ彼の言葉を何度も頭の中で繰り返し再生している。お前が好きだよ。そんなの、私だってずっと一静が好きだった。好きなんだよ、どうしようもないくらい。


「6日間もお前に会えないのとか本当しんどいから」
「い、っせ」
「無理ならそれでいいよ。あの日のことも、気まぐれだって思うから。でもせめて、幼馴染ではいさせてくれよ」


そろそろ限界だからさ、と、呟いた声がとても寂しかった。そうさせたのは私だけれど。彼も私と同じことで、同じように悩んでいたのかと思うと申し訳なくて、また泣けてきた。こうして言葉にするのに、一体どれだけ勇気がいっただろう。私はそれから逃げてあんな手を使って、自分も彼も傷つけたというのに。それでも彼はこうして気持ちを伝えてくれた。私は大馬鹿だ。謝らなければいけないのは私。でも今は謝罪の言葉を述べている場合ではない。それより伝えなければならないことがある。今日までずっとずっと抱えていた、ひとつのこと。


「…じゃ、…ない、」
「なに?」
「気まぐれじゃ、ないっ」
「…それなら、本気?」
「…っ、ほんき、だったよ」
「俺いますげぇ期待してるけど。いいの?」
「っく…ふ、」
「そろそろ泣き止めよ」


顔を覆う腕がつかまれ、ゆっくりと解かれていく。涙でぼやけた視界にぼんやり一静が映った。瞬きをしたら涙が一粒ずつ零れて、視界をクリアにしていく。一静は眉を下げ困ったような、嬉しそうな、そんな顔で笑っていた。あぁ、やっと彼の笑った顔が見れた。嬉しくて、安心して、ほんとにもう一体どこから湧いてくるのか知らないけど目に膜が張った。


「笑った顔みたいんだけど」
「…むりぃっ…」
「お前は本当、不器用にも程があんだろ。俺もだけど」
「…ごめん…ごめんね…いっせい、」
「それじゃないよ、俺が聞きたいの」


立てていた膝の裏に手を差し込まれ、ズズと引きずられる。一静の足の間に納まった格好が少しだけマヌケだ。彼の服の袖を掴む手に力が入る。私も、言わなくちゃ。見上げたら案外近くに彼の顔があったことで堅くなってしまった私の頬を、一静の親指が優しく撫でる。喉元で尻込みをしている二文字の背中を押すのに、それは充分すぎるほどだった。