とろける魔法とあなたの吐息

朝8時。私を起こしたのはアラームの音ではなく、電話の着信音だった。こんな時間に誰だよと覗いてみれば、画面に出ていた名前は担任で慌てて通話を押す。「起きてたか!」と元気な声が寝起きの頭を揺さぶった。いや、アンタに起こされたんだよ。


「おはようございます…」
『寝起きか?!遅刻するぞ!』
「用件を言ってくださらないと私このまま寝ますけど」
『冗談だって!実は頼みごとがあってな』
「なんでしょうか」
『社会科の準備室』
「またですか?!」
『ち、違う!今度はあれだ、整理だけだから!掃除じゃないから!』


この担任は一体私をなんだと思っているのか。冬休み前の大掃除を手伝ってあげたときは、どうやったらこんなにぐちゃぐちゃにできるのかと感心したほどだった。それをどうにか片してさらには分かりやすく分野ごとにまとめてあげたというのに、たったの二ヶ月足らずでもう整理が必要な具合になってしまったとは悲しすぎてため息も出ない。私はあなたの家政婦じゃないんだぞと言ってやりたいが相手は担任、私の受験をサポートしてくれた人でもある。おかげで皆が必死に勉強しているこの自由登校期間を悠々自適に過ごせているわけなので、わかりましたと伝えておいた。


「悪いな、名字!」
「イエ」
「ホントごめんって。な?」
「イイデスケド」
「顔がそう言ってない」
「だって、あんなに綺麗にしたのに…!」
「あそこまで酷くないから!」


学校へ着いてまっすぐ社会科準備室へ向かうと、先生はちょうど電話を終えたところだったらしく携帯をポケットにしまいながらこちらを振り返った。「大丈夫だから!」と何が大丈夫なのかわからないまま開かれた扉の向こうをみて愕然とする。もういい、大人の言うことは信用しないことにしよう。


「…」
「た、頼んだぞ!」
「えっ、先生は…」
「この後授業あるんだよ…あ、でも大丈夫、助っ人は呼んでおいたからな!」
「…ソウデスカ」
「あと教卓の引き出しん中にお菓子入ってるから!好きに食べていいぞ!」
「そうします」
「じゃぁよろしく頼んだ!」


ガラガラ、ピシャン。勢い良く閉められた扉を数秒みつめてから、短く息を吐いてどこから手をつけようかと腕を組んだ。床に積み重なる資料、ばらまかれているプリント達。棚に並べられている書籍は倒れていたり後ろ向きに入っていたりとバラエティーに富んだ置き方になっている。使ったものは元あった場所に戻す、そんなの幼稚園児だってできるよ先生…!なんて怒ってみたところで始まらない。とりあえずはこの散乱しているプリントたちからどうにかしようと教卓を埋め尽くすそれらを手に取った。ビッシリと明朝体の文字が詰まっているものや殴り書きされているものやら。なんとなく目を通して大事なものとそうでないもの、さらにその中で分かりやすいように自分なりにグループ分けをしてまとめた。あとはこれらをしまえるファイルがあればいいのだけど、それは一番最後にしよう。もうこの際だから掃除もしようと教室から箒を持ってくるべく準備室の扉に手をかける。やけに軽く開いたそれの向こう側には、よく知った人が立っていた。


「…おぉ」
「どしたの」
「呼ばれた」
「助っ人って一のことだったんだ」


大きな口を隠すことなく欠伸をする様子をみると、彼もどうやら先生に電話で起こされたらしい。推薦組は他にもいたはずなのに敢えてこの組み合わせにするというのは、わざとなのかそうじゃないのか。まぁどちらにしたって先生には感謝しよう。思わぬところで恋人と二人きりになれたのだから。


「昼からの、どうする」
「あの有様だよ…ムリっぽいよね」
「だな」
「でもいいよ、一緒にいれるのに変わりないし」
「それもそうか」


二人で教室までをゆっくり歩く。今日は世の恋人達、恋する女子達にとっての一大イベントであるバレンタインデー。チョコレート会社の陰謀なんてよく聞くけれど、昨日スーパーにいったら生クリームに卵、バターなんかがすっからかんになっていてのを見て、加担しているのはどうやらチョコレート会社だけではないぞと思ったのだった。しかしなんだかんだ言ってもやっぱり浮き足立つのは仕方のないことだと思う。いつもは言えないことなんかや気持ちを伝えるキッカケにはなっているから、今年はどうしようか、なんて飽きもせず毎年頭を悩ませる。カバンにそっと忍ばせた手作りのトリュフチョコはお昼から予定していたデートの終わりに渡そうと思っていた。今日の映画デートはお掃除デートに早変わりだ。


「しかしよくここまで散らかしたな…」
「才能だよ、ある意味」
「ま、文句言ってもしゃぁねぇか」
「どっからやる?」
「俺こっちの棚からやってくわ」
「わかった。じゃぁあたし反対からやってくね」


黙々と作業が続く。本を開いて中身を確認、ジャンルごとに分けては棚へ戻し、並べ替えてはまた戻し、その繰り返しだ。チラリと横を盗み見れば、真剣な顔して読みふける一がいて思わず笑ってしまった。こんな一瞬一瞬が幸せだなぁと思う。地元ではあるけれど通う大学は別々だ。こうして制服姿で、同じ教室で過ごすのはあと二日、卒業式の予行練習の日と当日だけだ。似合わなかった白い制服ともお別れなのかと思うと少しだけ惜しい気もした。結局3年間、そのブレザーは彼には馴染まなかったけれど、ペールグリーンの線が入ったジャージはいつだって彼を輝かせていたからそれでいい。一の背中で誇らしげにしていた4は、今では私のラッキーナンバーだ。


「…んだよ」
「んーん、何でもないよー」
「ニヤニヤこっち見て、なんでもねぇわけあるか」
「見惚れてたって言ったらいい?」
「聞かなきゃよかった」
「だから何でもないって言ったのに」


聞いておいて照れるのは反則だよ?その反応は付き合い始めから変わらなくておかしかった。つい声を出して笑ってしまう。うるせぇ、と彼が呟いたあと、待ってましたとばかりにお腹がなった。私のではなく、一の、だ。顔を見合わせる。気まずそうに目をそらした一は少し顔を赤らめていた。


「電話で起きたから、朝なんも食ってねんだよ」
「あはは、あたしもだよ」
「お前腹減らねーの?」
「うーん、あんまり空いてないかなぁ」
「ちゃんと食えよ。ただでさえ細っけぇんだから」
「そうかなー。女子にしては太めだと思うけど…」
「抱くときいっつも折れそうで心配んなる」


今度はあたしが赤くなる番だった。初心っぽい反応するくせにそういうことは平気で言っちゃうわけ?意味分かんないよ岩泉くん、この空気どうしてくれるの?


「なんか食いモンねーの」
「…あ、あぁ、食いモンね、引き出しん中にお菓子あるって先生言ってた」
「菓子か…ま、なんもねぇよりいいか」


あ、そう、普通に会話続行しちゃうのね。そうですかそうですか。色気より食い気か君は、なんてツッコミはもう過去に何度もしてきたから今更言いはしない。教卓へ向かう一の後ろをくっついて、一緒に引き出しの中を覗きこんだ。大袋につめられたお菓子たちを手に取る。煎餅、とかかれたその袋を握るとミシ、と煎餅らしからぬ音をたててへこんだ。あ、これはダメなやつだ。


「…これ、去年が消費期限だ」
「こっちも」
「げっ、グミ変色してる!」
「…全部捨てちまえこんなもん」


怒り半分呆れ半分で大袋のお菓子たちをバラバラとゴミ箱に落としていく。はぁ、と項垂れた一の背中には哀愁が漂っていた。相当空腹らしい。どうしたもんかと思考を巡らせたどり着いたのは自分のカバン。中には今日の終わりに渡そうと思っていたものがあるではないか。


「一、」
「あ?」
「これ、帰りに渡そうと思ってたんだけどね」
「…おー」
「腹の足しには全然ならないかもだけど、無いよりいいでしょ?」
「サンキュ」


にっかり笑う一に胸がきゅっとなる。本当はこれと一緒にあげたい言葉もあったのだけど、こんな顔がはっきり見える場所で目をみて伝えるには恥ずかしすぎるから言わないでおく。早速ラッピングのリボンをといて中身を出す一の手をじっと見つめた。


「おぉ、なんかすげぇな」
「ただのトリュフチョコだよ、全然すごくないから」
「俺作れねぇし、充分すげぇだろ」
「今度教えてあげようか?」
「勘弁」
「なんだ、残念」
「食っていいか?」
「もちろん、その為に今あげたんだから」


とは言ってみるものの、このままジっとしていては感想を求めているみたいで申し訳ないので整理の続きを始めた。「うめぇな」と小さく聞こえたのだけで充分だ。にやつきながら、少し高めの位置にある本に手を伸ばしたときだった。背中にトン、と何かがあたる。突然加速する鼓動に耳を澄ましていたら、「おい」と低い声が耳元で響いた。肩を揺らしてゆっくり振り返れば、まぁるいトリュフチョコを口に挟んで不敵に笑う一がいた。いつだったかベッドの上でみた目と同じ目をしてる。何かを発する前に唇が塞がれた。


「んっ…」
「…ふ、」
「はぁ、ん、…ん」


口の中をトロリとしたチョコが行ったりきたりしている。入ってきたかと思えば味わう間もなく一の舌に持っていかれ、口を離そうとすればまた押し込められ、の繰り返しだ。ねっとりとした感触がいやらしさを増す。息をするのも忘れるくらい夢中でキスをして、もうチョコの味なんかこれっぽっちも分からなかった。追いかけてくる舌に自分の舌を絡めればより深くなるそれに意識ごと持っていかれそうだ。崩れ落ちそうになって彼の制服を握る手に力が入った。それでも支えきれない体はずる、と背中からすべったけれど、足の間に入れられた彼の膝に助けられた。いや、これは助けられたというよりさらに攻められているような気がする。なんて恥ずかしい格好になっているんだろう。考えれば考えるだけ、熱は下半身に集中していった。


「おーおー。腰砕け、ってやつだな」
「…バカじゃないの」
「んな顔で言われてもな」


唇はようやく離れたものの、体勢はなにも変わらない。いいから早くどいてくれと願うも、彼は一向に動くそぶりは見せなかった。それどころか私の背後にある棚に手をついて余計に距離を縮めてくる始末だ。一体いつどこで彼のスイッチを押してしまったんだろうか。そんな要素はどこにもなかったはずなのに、しっかりと男の目になってしまっている一を見て腰が疼いた。


「なぁ、ここで最後までシてみるか」