ふたりの朝の話

今朝の私の目を覚まさせたのは、毎朝けたたましく鳴るアラームの電子音ではなくて、耳元で小さく小さく聞こえた「さむ」という彼の声だった。くるりと布団の中で身体を反転させて、私を抱き寄せるために回された腕をそっと下ろして肩まで毛布をかけてやった。んん、と少しだけ身じろいで、体温で温まった空間の中でやっぱりまた彼の腕に捕えられた。まるで抱き枕だな。そんな風に思っても結局胸がとくんと音を鳴らしてしまうのだから、私も大概だ。ぎゅうと抱きしめられたことでより近くなった彼の顔を下から見上げる。男の人にしては白い肌に、閉じた目の長い睫毛がとても映えている。柔らかい茶色がかった前髪は重力にしたがって横に流れ、綺麗なおでこを隠してしまっていた。それを人差し指で真ん中から無理やり分けてみる。額と一緒に整った眉も顔を出した。本当、綺麗な顔をしているなぁ。天使みたいだって思うのは欲目でもなんでもないと信じたい。


「とおるくん」


呼んでみるも起きる気配はない。当たり前だ、そうならないような声音で言ったのだから。ただなんとなく呼びたくなってしまっただけだから。私にとってこの5文字は魔法の言葉で、口にしたら大体色んなことがどうだって良くなる。例えば仕事でどうにもならないことばかりがずっと続いて、立ち止まることは許されないけれど進み方も分からなくなってしまって途方にくれる。そんなときでさえ、彼の手にかかればあっというまに溶けていってしまうのだ。


「…んー…」
「おはよ」
「……うん、おはよ…」
「まだ早いから、もう少し寝たら?」
「…いま何時…」
「まだ7時だよ」


言い終わる頃にはもう目が閉じてしまっていた。ほんの少し空いていた隙間がなくなりピッタリくっついた身体はいつも以上にあったかい。頭の上で規則正しい呼吸が聞こえる。ねぇ、とおるくん。昨日の帰りにみた星はすごく綺麗だったね。あれは結局何座だったんだろうね?帰ったら調べようと思ったのに、忘れてた。それよりも、毎日あの道通ってるのにあんなに綺麗な空が見えるなんて知らなかったよ。…いや、忘れちゃってたのかな。最近はずっと下ばかり向いて歩いていたから。そうしないといつかグラリと倒れてしまいそうで、大きな穴に落ちてしまいそうで怖くて、身動きとれなくなっていたから。冬空を見上げながら数回重ねた唇からはそんなことばかりが彼に伝わったのだろうか。私をみつめる彼の目は優しくもあり、強く何かを訴えかけるようでもあった。彼はこういうとき決して甘やかすだけの言葉は口にしない。それだけでは私が納得しないことを知っているからだ。けれど、優しさもなければダメになってしまうなんとも面倒な性格だということも熟知してくれている。しっかりやれよ、と背中を押した後には必ず、大丈夫だからなんてまるごと包んでくれる。どんな時だって我慢できていた涙を、それはいとも簡単に引き寄せて溢れさせた。あなたはなんてことないみたいに、お前なら大丈夫だよって笑ってくれたけど、それが私にどれだけ勇気を与えてくれたかなんて知らないんだろうね。知らなくていいけど。でも、愛しくて仕方ないことくらいは知っててもいいよ。


「…あー…夢みた…」
「おはよう。どんな?」
「…なんか…ホッキョクセイ…」
「前後の内容が気になる」
「うん、俺も…」
「でも昨日の星は綺麗だったなって私もいま思い出してたんだよ」
「俺としてはお前の方が綺麗だったけどね。昨日の」
「エッチ」


私を迎えに来る途中のコンビニで買ったおでんは家に着いた頃には少し冷めてしまっていたけど、それでも彼と食べれば最高に美味しかった。はんぺん食べちゃってごめんね。今度からはふたつ買うようにしようか。おでんと缶チューハイで夕食を済ませた私達は珍しく一緒にお風呂に入ったりなんかした。何を今更と言われてしまうかもしれないけれど、なんだかやっぱり恥ずかしくて、そんな私をみて徹くんは嬉しそうに微笑んで何度も可愛い、と言った。呼吸するかのように愛してると可愛いを吐き出して、キスと共に名前を呼ばれてどろどろに甘やかされて、このまま溶けてなくなってしまうんじゃないかなぁとバカげたことまで考えた。


「思い出してんの?」
「おでんをね」
「…はんぺ」
「だから、ごめんって」
「俺楽しみにしてたのに…」
「じゃぁ今日買いに行く?」
「二日続けておでん?」
「嫌?」
「全然。そうしよう」


完全に目が冷めたらしい彼は目を細めて私を見つめて、大きな手で何度も髪を撫でつけた。それが気持ちよくって自分からも擦り寄れば柔らかな唇が頭上に降ってくる。一回、二回、三回目が終わってから今日どこ行こっか、と彼が呟いた。


「今日も寒いよ」
「そうだけど。冬だし、そんなこと言ってたらどこも行けないよ?」
「そっか」
「プラネタリウムでも行こうか」
「そうだね。昨日の星座、分かるかも」
「他は?どっか、行きたいとこ」
「そうだなあ」
「折角早起きしたし、少し遠いところでも良いよね」
「それじゃぁ、降りたことない駅で降りてみようよ」
「どこ?」
「わかんないけど、適当な電車のって、適当なところで降りてみるの」
「なんか新しい発見あるかもね」
「うん、楽しそう」
「それじゃぁそうしようか」


まるで子供みたいに笑いあって、大きな胸に額を押し当てた。緩やかなリズムを刻む鼓動の振動が伝わってきて、なんだかそれさえもすごく愛しくて、彼が今ここにいるということにとても感謝した。出かけるのならそろそろ起きて準備をしないといけないのだけど、今のこの空間からはとてもじゃないけど抜け出せない。離れたくないなぁ。ぽつりと零れた言葉は彼にも聞こえていたみたいで、今朝は甘えたさんだねって笑った。そういう彼も一向に私の身体に巻きつけた腕の力を緩めないのだからお互い様だ。ねぇ、もうちょっとだけ。もう少しだけこうしていようよ。私の中の愛してるが、このぬくもりと一緒に君に溶け込んでいくまでさ。