逢魔が時の禍福
数年にわたり新型ウイルスが世界中に蔓延したが、華圭が生まれる頃には緩やかに鎮静化していき、十六年の歳月を経た現在ではすっかり平和を取り戻した日本国。
疫病だけではなく政治家の汚職で悪化した経済も、ようやく回復の目途が立った。
人通りの多い街中のケーキ屋に立ち寄った華圭は、あるケーキを探した。
それは、桜風味のクリームと桜の塩漬けを使った、和洋折衷を感じさせる逸品。春季限定で販売しているので、こぞって求める客が多く、本日は売り切れ間際で購入できた。
一度帰宅して桜ケーキを冷蔵庫に入れ、残すは夕飯の買い出し。
行きつけの店で夕飯に必要な割引商品を買い揃えると、明日の予定を立てる。
「明日の誕生日は奮発して、シチューにしようかな? ……いや、それより鶏の香草焼きとかきたまスープの方が贅沢よね」
誕生日は華やかな夕食を作るのが、毎年恒例の楽しみ。プレゼントは無くても、ささやかながらお洒落な料理を作れる唯一の機会なのだ。
明日の午前中も学校はあるが、楽しみがあれば頑張れる。
ほんの少しの幸福があるなら生きていられるのだと、華圭は穏やかな気持ちで思った。
「ひっ……!」
うっすら橙色に染まりつつある雲を眺めながら家路を歩いていた時だった。
首筋に鋭くも不快な何かが奔ったのだ。
「え、なに……?」
重苦しい粘液のようなものに肌を舐められたような得体のしれない怖気に混乱したが、脳裏に過った既視感。
この不快な悪寒は、かつて感じたことがあった。
それは、幼少の身に起きた恐怖体験。
「……ま、さか――」
恐る恐る辺りを見渡すと、背後から人の形をした何かがいた。
それは十代前半の小学生と同等の大きさ。
だが、人間ではない。一目で判るほど、恐ろしい風体なのだ。
長期間も洗っていないと思われる、ぼさぼさの頭髪、赤みの強い皺だらけの皮膚。限界まで瞳孔が開くほど血走った眼は血のように赤黒く、爛々と不気味な光を宿す。
現代では馴染みのない衣服は、江戸時代の貧民が纏うような原形を留めていない着物。黄ばんだ犬歯を剥き出しに涎を垂れ流している様子から、凄まじい飢餓が感じられる。
しかし、たとえ飢えに苦しんでいても人間が、血のような赤黒い目に不気味な光を発するだろうか?
「ヨコ、セ」
子供とは――否、人間とは思えない、おぞましい嗄れ声。
ゾッと怖気が奔ると同時に、忌まわしき記憶が蘇る。
「なん、で……」
どうして忘れていたのか。幼い頃から、これ≠ノ狙われてきたのに。
後ろ足を引いて距離を取ろうとするが、それは足に力を入れて――
「ヨコセ……ハナ、ヲ……ヨコセエエエエ!」
狂気的な叫びをあげながら、華圭へ目掛けて走り出す。
「ひっ! いやああああ!」
恐怖のあまり悲鳴をあげて駆け出す。
幸いにも華圭は、体力も脚力も並外れている。逃げるのは得意だ。
しかし冷静に考えると、家まで押し入られるとどうなるのか。
家の中で襲われたら、確実に死ぬ。
(どうして急に!?)
ここ数年は何事も無かった。危険なものは死霊だけだった。
過去に襲ってきたモノの記憶が鮮明になるたびに、体の芯が震える。
「うわあっ!?」
肩越しで化け物を見れば、凄まじい勢いで飛びかかってきた。
咄嗟に体を捻ると、ブレザー制服の袖が破けた。
長く鋭い爪に引っかかったようだ。
入学したばかりで真新しい制服が台無しにされて、精神的にも堪える。
「いたっ」
二の腕から感じる、微かな痛み。
破れた隙間に目を向けると、薄皮一枚が切れたのか小さな傷と血が。
震えながら化け物を視れば、その手には二輪ひと房の花を握っていた。
華圭の体に咲く花、桜だった。
化け物は桜を嗅ぎ、大きく口を開けて――食べた。
むしゃむしゃと咀嚼する化け物の狙いが分かった。
(――私の花だ)
ごくりと嚥下した化け物。
次の瞬間、貧相な体付きが見る見るうちに肉をつけていく。
「オ……おぉおおぉぉ……! チカラ……! 力が漲る……! すばらしい……! これが……これが花比売の力か……!」
不自由そうだった口調が、はっきりした滑舌に変わる。
恐ろしい声に背筋が震えると同時に、疑問が芽生えた。
「はな……ひめ……?」
(なに、それ。いったい何のこと……?)
混乱する華圭に、ゆらり、化け物は飢えた獣の如し顔を向けた。
「もっとだ……もっと寄越せ……! その花をオオォォォ!」
凄まじい速さで飛びかかる化け物。
先程とは比べ物にならない速度を脊髄反射で回避するが、きっと逃げ切れない。
華圭は迫りくる絶望を感じて、胸中に悲嘆が去来する。
(どうして私はこうなの?)
身体に花が咲いて、ずっと孤独で、誰にも信じられず、助けさえ求められない。
親にも忌み嫌われ、他者と分かり合う日は来なかった。
誰でもいいから理解してほしかった。
同時に、普通≠ニの乖離から異端扱いされないか恐怖もあった。
信じてほしいと願いながら、歩み寄りに不信感を抱く。
矛盾した心に苛まれ、孤独しかない未来に絶望した。
一人寂しく死んでいくのなら、生まれたくなかったとさえ思う。
けれど――
(こんな私でも許されるのなら――)
願うだけでも許されるのなら、救いが欲しい。
「助けてっ……!」
絶体絶命に追い込まれて、ついにこぼれた一言。
直後に躓き、不覚にも体勢を崩してしまう。
転ぶのが先か、化け物に傷つけられるのが先か。
倒れるまでの一瞬が長く感じる中でも、答えは明白。
(誰か――!)
涙が溢れる目を閉じて、迫りくる痛みに身構える。
「ギャアァッ」
化け物の断末魔が響く。
恐怖に心臓が縮み上がるが、そこで痛みの代わりに不思議な温もりを感じた。
「やっと求めてくれたか」
不意に聞こえた、安堵のこもった声。
男性特有の低さの中に、妖しい甘さが感じられる妖艶な音色。
恐る恐る目を開ければ、黒い絹地が視界に映る。
顔を上げれば、凄絶な美貌の男がいた。
繊細な髪は黒瑪瑙のように艶のある漆黒。色白の顔は流麗な輪郭を描き、引き締まった柳眉と目鼻立ちすら芸術的だが、最も映えるのは色気を感じる薄桃色の唇。
よく見れば、鋭さのある切れ長な目が通常の色彩でない。
本来なら白いはずの部位は黒く、金色の光が宿る瞳の虹彩は紅玉の如し。
そして、額には色白の角が二本。
物語でよくある、悪役の特徴。
――鬼。
魑魅魍魎。悪鬼羅刹。あやかし。様々な呼称があり、現代風に呼ぶなら『妖怪』。
けれど華圭は、恐怖を感じなかった。それどころか不思議な安心感を覚える。
感覚が麻痺したのかと疑いかけたが、引きつった悲鳴により意識を現実へ戻す。
彼が心胆を凍てつかせる鋭い目付きで見据える先は、何かに胸を貫かれた化け物。
胸部から根元を辿れば、背後から伸びる男の手が持つ大太刀。
男が向ける化け物への眼差しが、さらに鋭さを増す。大太刀の黒と赤で彩られた柄を握り締めた直後、青白い炎が刀身から発せられた。
化け物が一瞬にして消し炭と化すほど苛烈だというのに、華圭は熱気を感じなかった。
男が大太刀を下げ、片腕で抱いていた華圭を解放する。
改めて見上げると、やはり鬼の証である二本の角が生えている。しかし、倒された化け物のような不気味さはない。
むしろ、襟に白い毛皮、裾に金色と赤色で亀甲紋が描かれ黒い打掛といった厳かな和装が似合う超然とした美貌は、芸術的でもあり、神秘的でもあった。
(……あれ?)
ふと、頭の奥で何かが引っかかる。
初めて見るはずなのに、初対面とは感じられない。
その上、言葉に表せない懐かしさが胸を締め付けた。
(懐かしい……って、どういうこと……?)
不可思議な違和感に戸惑う。
鬼は大太刀を黒い鞘に納めると、妖しげな目で華圭を流し見る。
色気が漂う目付きを受けて無意識に心臓が高鳴るが、華圭は頭を下げた。
「あ……の……! ありがとう、ございました。助けて、くれ、て……」
あの化け物から助かったのだ。自分で言って、ようやく実感した。
胸の奥から熱いものが込み上げて、ツン、と刺激が鼻の奥を刺す。
ギョッと目を丸くした鬼の反応と同時に、自分が泣いているのだと自覚する。
「ご、ごめんなさい……! えっと……だ、大丈夫。大丈夫です、から……!」
慌てて服の袖で涙を拭うけれど涙が止まらず、さらに溢れてくる。
困らせたくなくて、早く泣き止むよう意識するが、なかなか落ち着かない。
華圭は「人前で泣くなんて情けない」と自分自身を叱咤すると……
「無理に止めなくていい」
乱暴に目を擦る手を掴まれた。
美しい鬼は柳眉を下げて、そっと華圭の頬に手のひらを添える。
温かな手のひらに包まれ、親指の腹で涙に濡れる目元を拭われた。
こうして誰かに慰められるのは初めてで、胸の奥が切なく締めつけられる。
「恐ろしかっただろう」
押し殺さなければならない恐怖心を、優しく暴かれた。
何かを言いたくても唇が震えて声が出せない。そんな自分が情けなくて口を引き結ぶ。
すると、鬼に後頭部を掴まれて、胸板に押しつけられた。
彼は鬼だ。鬼は残忍な存在だと物語では定番中の定番だ。
なのに、これまで華圭が出会った人間よりも優しかった。
誰かから与えられる温もりに馴染みがなくて、華圭は込み上げる感情を抑えられなくなり、けれど指先で控えめに彼の服を掴み、胸板に額をくっつける。
ぽんぽん、と背中を叩く優しさが沁みて、徐々に気持ちが静まっていく。
深呼吸をすれば、どこか懐かしい匂いが鼻腔を擽り、体中の強張りが消えた。
「……あの、ありがとうございます」
「落ち着いたか?」
「う……はい」
服の袖で涙を拭いながら頷けば、鬼は華圭の頭を優しく撫でた。
人前で泣いたのは数年ぶりで、少し気まずい。
けれど、聞きたいことができた。
「その……さっきの、何だったんですか? 私をハナヒメとか言って……」
思い切って訊ねると、鬼は難しそうな表情を浮かべた。
「話せば長くなるが……」
「あ、じゃあ……私の家に来てください。お礼もしますから」
どうせ家族のいない家だから心配はいらない。
申し出れば、鬼は快く頷いた。