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「俺、もう無理だよ」
雪は音を吸収する。だから、雪の降り積もる日はやけに静かなんだと昔家にあった図鑑かなんかで読んだ事がある。吐き出されたシャチの言葉は、どこに響くこともなく雪みたいにぽとりと足元に落ちて消えてしまった。
きっと、いつか俺たち自身も誰にも気づかれることなく消えていくんだと思ったら、それなら俺たちは今、何のために生きているんだろう。
俺には、もうさっぱりわからなかった。
「なぁペンギン、俺たちずっとこんな事して生きてくのかなぁ…」
すび、とシャチが鼻を啜る音が聞こえる。
寒いからか、泣いているのかはわからない。
「…帰ろうぜ。とりあえず、帰らなきゃ」
立ち止まったままのシャチの手を引いて歩く。
シャチの気持ちはわかってる、でも今の俺にはそうやって誤魔化すことしかできない。
どうしようもできない自分と、理不尽な世界に腹が立って仕方なかった。
人目につかないように街灯もない暗い裏路地を二人で進む。狭いところは雪で道が埋まって、膝まで濡れてしまったけれど、これまで宝石や金品の強盗も沢山やってきた、街の人に顔を見られているかもしれないと思うととても大通りなんて歩けなかった。
…むしろ、見つかってしまった方があの屋敷から逃げることができるのだろうか?——いや、どうせ警察に捕まって叔父さんの所に戻されて、また殴られるだけだと思い、考えるのをやめた。
しばらく歩くと屋敷の灯りが見えてくる。
こんな所、本当は帰りたくなんかない。何度そのまま逃げようかと思ったか。
でも、見つかったらどうしようだとか、住む場所もなくて、みなしごで、どうやって生きていけば良いんだとか、怖気付いているうちにまたいつもと同じく屋敷に戻って、また次の日には叔父さんのために犯罪に手を染めに街へと出向く。そんな毎日の繰り返しだった。
それだけのために生きている日々、シャチの言うことだって間違ってはいないのはわかっている。

屋敷に入ると、酔っぱらった叔父さんと何人かの男の声が廊下から聞こえて鉢合わせないように急いで自室へと戻った。それに、びしょびしょの足元が気持ち悪かったし、早く服を脱がないと霜焼けになってしまいそうだった。
「ほら、ズボン着替えて今日は久しぶりにクマノミのところに行こうぜ。この時間ならまだあいつ寝てないだろうし」
「……うん、そうだな」
部屋についてからもむくれていたシャチを何とか宥めてクマノミに会いに行こうと思う。最近は街で色々とやることが多くなり、その分帰りが遅くなっていたから、中々会うことができなかった。
クマノミは俺たちより先にこの家にいて、てっきり叔父さんの子供なんだと思っていたらそうではないらしい。俺たちよりも扱いはいいけれど暮らしぶりは似たようなものだった。ただ、暴力を受けていないのが幸いか、それはあいつが女の子だからなのかもしれない。
俺たちは叔父さんの『使い勝手のいい道具』にされるためにここに引き取られたと思っている。あの叔父さんが善意で子供を引き取ることなんてしないだろうけど、クマノミは日がなほとんどあの部屋にいるみたいだった。
何かさせられているのか?と聞いたけれど「別に何も」とクマノミは言っていた。
夜がもう少し更けるのを待って、ドアに耳をつけて物音を伺う。
クマノミに教えてもらった、この時間になって叔父さんの寝室から物音が聞こえなかったら叔父さんと叔母さんは酒に酔って寝てるから、頃合いを見て部屋を抜け出せるって。
さっき廊下で聞こえた声の様子だと、かなり酔っ払っていたようなので流石に眠っているに違いない。案の定叔父さんの寝室からは物音が聞こえなかったので、しばらく待って部屋を抜け出す。
「へへ、あいつに会うの久しぶりだな」
シャチが先ほどとは打って変わって嬉しそうに小声で呟く。
この生活で唯一、三人で集まる時間が楽しいと思える時間だからだろう。
俺もそうだ。見つからないようにという緊張感と、少しのワクワクで鼓動が早鐘を打つ。
「あいつ、今度会った時は今まで食ったものでいちばん美味かったものの話してくれって——」
廊下をしばらく歩いた先にクマノミの部屋がある。
いつもなら閉まっているはずの扉が、ほんの少しだけ開いてゆらゆらと部屋のランプの灯りが一筋漏れていた。後ろを歩いていたシャチが背中にぶつかり「いでっ、何だよペンギン!」と言うので、「しっ!」と口を塞いだ。
シャチは不思議そうな顔で中途半端に開いた扉と、俺の顔を交互に見る。
「…ただの閉め忘れだよな」
何だか胸騒ぎがして、誰に言うでもなくそう呟く。
早鐘を打っていた鼓動が、身体の外にも聞こえているんじゃないかってくらい、低く、跳ねるように響く。
クマノミは勝手に部屋を出ることを許されていないらしい、そんなクマノミが扉を閉め忘れることなんて今まで無かったからだ。後ろにいるシャチとギュッと手を握りなおし、何が起きてもいいように身構えながらそろりと扉に近づく。
漏れ出た灯りの影に隠れるように部屋を覗き込む。

少ししか見えなかったが、そこにいたのは叔父さんと、クマノミに間違いなかった。
ベッドの上でうつ伏せに押し付けられたクマノミに馬乗りになる叔父さんが見える。
偶然目線を上げたクマノミの瞳と、目が合った。
俺に気付いた彼女は、苦しそうに顰められた眉はそのままに今にも泣き出しそうな顔になって、視線を彷徨わせて、顔を伏せた。

俺は、そのほんの数秒がひどく長く感じて、その間クマノミから目を離すことができなかった。

「……なぁ、ペンギン、何が…」
後ろから聞こえたシャチの囁き声にはっと気が付くと、彼の手を引いて元来た道を早足で歩いていた。シャチは、突然引っ張られたことに混乱していたみたいだけど、大きな声を出せないから何も言わずただ引っ張られていた。
自分たちの部屋に戻って、急いで扉を閉める。
追いかけては来ていないから、どうやら叔父さんには気付かれていないようだ。
シャチは「急にどうしたんだよ!中で何見たんだ?!」と俺に問いただす。
「———シャチ、おまえ、今何歳だったっけ…」
へなへなと扉に背中を預けて足の力が抜けた。
霜焼けにはなっていなかったはずなのに、脚がじりじりと痛んだ。
シャチは、俺の問いかけに「はぁ?!14だけど…なんの関係があるんだよ!」と混乱のような怒りのような疑問を浮かべていた。クマノミは、シャチと同い年だったはずだ。
俺だって、もう15になる。『それ』が何なのか知らないわけではない。
「なあ!部屋の中で何見たんだよ!…クマノミは…」
シャチはクマノミの身に何かあったのかと俺の肩を掴んでゆすぶった。
部屋の中で何が行われているかなんて、一目瞭然だった。
「なぁ、シャチ」
俺の呼びかけに、シャチはびくりと驚き「な、なんだよ…」と混乱したまま言葉を返す。
顔を上げて、シャチの目を見て、覚悟を決めた。
「やっぱり、逃げよう…ここから」

仮にも叔父さんは『シャチの親戚』だったから、話すべきかは迷った。
でもそれを察してかシャチは「俺、別に叔父さんのこと家族って思ってねえよ」と俺に話してくれた。部屋の中で見た事をシャチに話すと、唖然としてそれを聞いていた。
「でも…あいつ、クマノミ、何もされてないって…」
「…さあな、俺たちが聞いたのも結構前だったろ。
本当にあの時は何もされてなかったのか、それとも——」
俺たちは同時に口をつぐむ。
「だから、あいつも連れてここを出よう。
あいつだってきっと自分から望んであんなことしてるわけじゃないはずだろ」
「…うん、だよな、屋敷の連中は俺たちが逃げるなんて考えてもいなそうだし、俺たちで計画を練ってあいつを連れて逃げよう」
俺たちは顔を見合わせて頷く。
クマノミの様子は気になったが叔父さんに見つかっては元も子もないので今日はそのまま眠ることにした。床にあってもなくても変わらないような布を敷き、その上に寝転んでしばらく天井を見上げたけれど、あの瞬間に見たクマノミの表情が頭から離れなくて中々眠りにつくことができなかった。
隣を見てみると、シャチもそわそわした様子でまだ眠れていないようだった。
「…なぁ、ペンギン、あいつどうなったんだろ」
「…どうもこうもないだろ」
「…大丈夫かな」
「…大丈夫では…ないんじゃないか」
「…俺たち、あいつ置いて逃げてきちゃったな」
「…仕方ないだろ。だから次は絶対助けられるようにしようぜ」
隣に寝転ぶシャチの手のひらをギュッと力強く握る。
「うん」と言ってシャチも俺の手のひらを握り返すと、そのまま目を瞑って眠ってしまった。

その日から毎日、街での仕事の合間に作戦を練った。
時には必要な物資をこっそり盗んだり、運んだりもした。
街へ出る日はいつもクマノミの部屋の窓を見上げてから向かっていたけれど、最近はカーテンが閉められてしまっていて、あの日を最後に彼女の姿を見ることはなかった。
相変わらず叔父さんの暴力を振るわれるのは怖かったけれど、大人しく言う事を聞いている風に見えていたのだろう、屋敷を出たあとの事を探られることは無かったから脱走計画がバレることはなく、着々と準備は進んでいった。

今日も、いつもと変わらない雪の降る日。
いつも通り朝起きて、用意された水とパンを食べて、街へ向かう。
クマノミの部屋のカーテンは今日も開いていない。
街の外れまで行き、密輸の協力者の小屋まで武器を運び引き渡すのが今日のやることだった。
それと、本題の仕事の合間にこつこつと進めてきた脱走計画も大詰め、残すは決行の日をいつにするかを決めればあとは実行に移すだけだ。小屋まで武器を運んでいくと、人相の悪そうな取引先の奴らが今日に限ってやけに「早くしろ!」と急かしてきた。
「なあ、なんでこいつら今日はこんなにうるせえんだ?」
「さあ…」
俺たちがこそこそ話しているのを聞きつけた取引先の奴が「無駄口を叩くな!」と怒鳴る。
俺もシャチも、一体なんなんだと思いながらその日は息を切らして作業した。
そして全ての武器が運び終わり、あとはそいつらに任せて俺たちは退散しようとした時に取引先の奴らの中でもまとめ役っぽい人物が皆に向けて叫んだ。
「お前ら!さっさと港までこいつらを運ぶぞ!
今日は夕方から此処らの地域一帯が吹雪になるらしいからな、海がしける前に船を出しちまいてえ」
小屋に響くそのでかい声を聞いて、俺とシャチは無言で顔を見合わせる。
お互いに何も言わなかったが、言いたいことはわかる。とりあえず小屋を出て、街へ向かった。
いつものように裏路地を歩いて帰路につく、大通りを歩く街の人達は『夕方から吹雪になるらしい』と皆せかせか買い物や用事を急いでいた。
「…街の人たちが急いでるってことは、吹雪の予報は本当なんだな」
「今日の夕方…」
シャチも俺も、ぼんやりと呟く。
お互いに考えていることはきっと一緒だ。
あと俺たちに必要なのは、勇気だけなのはわかっていた。

屋敷に戻る頃には、外の風が少しずつ強くなっていてごうごうと低い音が鳴る。
クマノミの部屋の扉は、あの日以来ぴたりと閉まっている。
俺とシャチは部屋に入って、外の音に耳を澄ませた。
やがて、乾いた雪が壁に叩きつけられる音が聞こえてきて外が吹雪き始めたことを察した。
「…なあ、シャチ」
声をかけると、緊張感を持って「ああ」と返事が返ってくる。
「俺たち、十分過ぎるほど準備してきた、あとはいつ逃げるかを決めるだけだったよな」
覚悟を決めたつもりだったけれど、いざとなるとちょっぴり不安になって心臓をばくばくさせながらシャチに向かって言うと、あいつはもう覚悟ができたかのような顔でまっすぐこっちを見ていたから、俺の弱気な気持ちはシャチのおかげで引っ込んだ。
「今日だ。
これから吹雪に紛れてここから逃げるんだ。
クマノミを迎えに行って、三人で」
その言葉に、シャチは力強く頷いた。

初めて俺たちの部屋の扉を開けた時のクマノミは、どれほどの勇気が必要だっただろう。
敵か味方かもわからない俺たちにどんな気持ちで話しかけたのだろう。
いまクマノミの部屋の扉を前にしてそんなことを思う、正直不安でいっぱいだ。
でもそんなものはここで捨てていくんだと決めて、ふうと一息つく。
冷たいノブを回して少しだけ扉を開けると、部屋の奥の方にランプがあの日みたいにゆらゆらと揺れていた。
ベッドに座った人影が「…誰?お父様…?」と小さく呟いた。久しぶりに聞いたクマノミの声だった。
扉を開けて、中をみると俺たちに気がついたクマノミが「ペンギン、シャチ…」と、ぽかんと口を開けて驚いていた。

あの日に逃げてしまった俺たちのこと、クマノミは何て思うだろうか。
嫌われても、もう友達じゃないって言われても仕方ないと思うけど、でも、もうこんな日々は終わりにするって決めた。
俺も、シャチも、クマノミも、誰かにいいように使われるだけの生き方なんて
そんなの、死んでいるのと一緒だ。
そんなの嫌だ。
だから俺は受け取ってもらえるのかはわからないけど、思いを込めて必死に手を伸ばした。
後ろにいるシャチも、繋いだ手をぎゅっと握りしめた。
クマノミの瞳の中に俺の開いた手のひらが映る。

「———一緒に逃げよう、クマノミ!」



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ある吹雪の日に