シロツメクサを


「降りる、降りるから!!私後ろから押すから、降りてもいいでしょ!?」
「ぜったい、ハァ、ダメ!おりちゃだめだからね、名前先輩ッ」


降りる降りないの問答をしながらも、ふらふら左右に揺れる自転車は坂を上っていく。自転車の二人乗りで坂を上るなんていう今時の少女漫画でもないような王道シチュエーションと、手を回したことで必然的に近付いた距離に、気恥ずかしさか照れか良く分からない感情を持て余していられたのは束の間だった。どうやら傾斜が緩やかだったのは初めのうちだけだったらしく、上に上に上るにつれて自転車のスピードは落ち、名前の耳に届く真波の呼吸は苦しそうになっていった。まだ梅雨入りすら迎えていないのに、その腕や項には滝のような汗が止めどなく流れている。二人分の体重に自転車は悲鳴を上げ続け、何よりもすごく揺れていて不安定だった。
真波がサドルから腰を上げて本格的に立ち漕ぎを始めた辺りから、もういいです降りますと主張し続けているのものの、当の真波が頑として聞き入れてはくれない。
ついぞ困り果てた名前の目に映る、立ちはばかる坂道。傾斜は更にきつくなっていくようだ。必死に身体を上下させペダルを回す真波が一際大きく息を吐いて、顔を俯かせたその瞬間。

―――とうとう我慢の限界が来て、名前は荷台から飛び降りた。













一人分の体重が減ったことにより軽くなった自転車を更に後ろから押して、真波と名前は永遠に続くかもと本気で思えた坂道を上り切った。
頂上にたどり着いた達成感を感じる暇もなく、真波は舗装されたアスファルトを逸れて脇道に突っ込んで行ってしまった。置き去りにされた名前は坂道で上がった息を必死で整えながらその後を追う。
少しもしないうちに開けた場所に出た。車道から離れ周りを木々に覆われているそこには草花が絨毯みたいに生い茂り、ちょっとした原っぱみたいになっているようだった。

真ん中に大の字で寝転がった真波を見つけ、そっと近付いてみる。
酷使された自転車は少し離れた位置に乱雑に放り出されていた。さっきまで無理な負荷を掛けられ悲鳴を上げていたのに、なんと哀れなことだろうか。無言のまま真波の隣に立つと、ついと途中まで上げられた視線は名前を捉えるまえに逸らされる。そのまま額の上に右腕を載せて顔を隠してしまったものだから、今真波がどんな表情をしているのかは分からなかった。

しばらく見下ろしていても、真波は何も言わなかったから、仕方なく名前も腰を下ろす。背後で車の音がしたが、どこか遠くに聞こえた。緑に覆われた空間は不思議と静かで、柔らかな夕暮れの日差しが所々を徐々に橙に染め上げていく様が綺麗だと思った。

「名前先輩のばか」

ぼうっとその様子を見つめていたら、唐突に真波の声が聞こえて名前は視線を斜め下におろした。相変わらず表情はその腕に隠されていて見えない。だけど声色は如実に真波の不機嫌を物語っていた。耳を澄ませて続く言葉を待っていると、「ぜったい降りないでって言ったのに...」と真波が小さく呟いた。どうやら不機嫌の原因は、名前が彼の制止を振り切り自転車を降りてしまったことにあるらしい。


「いや、無理があるでしょ。寧ろ途中まで上れたのがすごいよ」
「あーあ、おれ山速いし、名前先輩一人くらい余裕だと思ったんだけどなぁ」
「速いのは競技用のちゃんとした自転車でしょ?普通のやつで、しかも二人乗りとか無茶だよ」
「それでもいけると思ったんだもん」

まるで子供みたいに拗ねた声を上げて、真波はごろんと寝返りをうった。無言の背中がそれ以上の言及を拒否しているように思えて、名前は声を掛けるべきか迷った。機会を一度逃してしまうと気まずさが残り、とうとう言葉を発することを諦めた。
そのまままた暫く無言が続き、名前は再び風に揺れる木々や緑の若々しい草を見つめることに徹する。

そんな中、ふと横目にした背中。
もともと汗で濡れていた上に豪快に地面に寝転がったせいで、学校指定の白いブラウスは草や土に塗れて汚れてしまっていた。なんとはなしに払ってあげようと伸ばした指先が触れる直前、その背中が小刻みに震え始めた。泣いているのかと一瞬焦ったが、どうやらそうではないらしい。くすくすと漏れ聞こえる吐息は間違いもなく笑い声だった。不貞腐れたかと思えば唐突に笑いだす、自由すぎる真波の感情の変化など、名前には分かるはずもなかった。
中途半端に上げられたまま、行き場を無くした手をさまよわせていると、再び真波が寝返りをうつ。あのブラウスを洗濯する顔も知らぬ真波の母の苦労を思いながら、名前は真波と正面から視線を交差させた。

「あのね、俺、名前先輩を独り占めしたかったんだ」
「え?」

飛び出た言葉は予想外のもので、名前の思考はすぐには追いつかなかった。戸惑いを隠せない名前を見て、真波の笑みは更に深まっていく。髪についた草を頭を振って払い落としながら勢いよく身を起こした真波は、ぐっと名前との距離を近付けた。逃げる間も与えられず伸びてきた両手に捉えられて、名前の身体は真波の腕の中に収まってしまった。
思わず身を固くした名前を宥めるように、真波は彼女の頭を撫でながら徐ろに口を開いた。


「俺、今日誕生日なの。5月29日、真波山岳くんは晴れて16歳になりましたー」
「あ、そうなんだ。知らなかった。おめでと」
「うんありがと。それでね、名前先輩に何貰おうかなって考えたんだけどねー?欲しいものとかそんなの、一つしかなくってさあ。しかもまだ手に入んないんだ」
「...私、真波の誕生日知らなかったのに貰うのは前提なの?」

初めこそ今まで異性と認識していなかった後輩に抱きしめられてパニックになりかけたものの、変わらずのんびりとした調子で話す真波に少しずつ混乱は収まり、その発言の不可解な点を指摘できるくらいには冷静さを取り戻すことができた。
名前のごく自然な問い掛けにも当然といった風に真波は首肯く。拍子に触れた頬が思ったよりも熱くて、再度ゼロ距離にいる真波を意識した名前の冷静さは、たったいま取り戻したばかりだというのにいとも簡単にこぼれ落ちていく。
震える唇を噛み締めた。
息が漏れる小さな音ですら、真波に届けば動揺を悟られてしまうような気がしてならなかった。

投げ出したままの左手に感触があり、目線だけでそちら見やると重ねられた真波の左手が何やらごそごそと動いている。真波の意図するところが分からずにただ成されるがままにしていると、満足げな「できた」という呟きと共に左手を持ち上げられた。すかさず真波の指が絡むそこから視線が外せない。正確には左手薬指。女子にとっては少なからず重要な意味を持つその場所に小さく揺れる白い花弁。

「真波、なにそれ」
「えー?指輪?草で作ったやつだけど」
「いつ作ったの」
「さっき。寝転んで名前先輩に背中向けてたとき」

器用にもそこら中一面に生えているシロツメクサの草花から小さな指輪を作り上げたのだと言う。断りもなく勝手にそれを嵌めてくるところが真波らしいといえば真波らしいが、普段以上に奔放な言動に振り回された名前には抱きしめられた意味も真波の言葉の意味も、何一つ理解が及ばない。


「あと2年なんだ。そしたら名前先輩のここに、こんなのじゃなくてちゃんとした指輪つけて、俺のものにするんだ」
「ま、なみ」
「予約しておくんだから、勝手にどっか行っちゃ駄目なんだからね」

‘あと2年’という言葉と、左薬指の指輪。
そこから導き出される答えはひとつしかなかった。

「約束だよ、名前先輩」

言い逃げするように真波の身体は離れていく。
放り出したままの自転車の方へ向かう真波の俯きがちの頬は、夕暮れに照らされた以上に真っ赤だった。




(シロツメクサの花言葉 「約束」)


Happy Birthday 真波山岳!!


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