普段は破天荒で面倒事しか起こさない友人二人の稀に見る真剣な態度に触発された私は、彼らのありがたーいお言葉に従って努めていつも通りであろうとした。
しかし悲しいかな、いつも通りを意識すればするほど、いつも通りは遠ざかり私の行動は裏目に出るばかり。遠乗りから帰ってきた荒北達を出迎えるはずが、石に蹴躓いて盛大に大転倒、逆に心配されたり。何ぞこれしき、と歯を食いしばってドリンクを振舞おうとしたらラックごとひっくり返してしまい十数人分のドリンクはパァ、それどころか部室の床がびしょ濡れの大惨事に。この辺りであのロード以外頭に無いであろう部内一のロード馬鹿、ミスター鉄火面・福富に「その、色々と大丈夫か」と本気で心配された。これはかつてないほどの由々しき事態であるが諦めるわけにはいかない。だって女の子だもん!!
意気込みとパッションだけは十分すぎるほど漲っていたが、しかしそれだけで乗り切れるほど現実は甘くないらしい。
その後も整備中のビアンキを引っ掛けて蹴倒してしまったり、せめてもの償いにと自販機に買いに走って部室に置いておいたベプシが荒北が手にした瞬間暴発したりと、まあ簡潔に言うと散々だった。
ちなみに付け加えて置くと、ベプシは私が用意したものと知らずにとあるバカ二人が“ちょっとしたイタズラのつもりで"シェイクしたらしい。飲み口スッキリの爽快感が売りの炭酸飲料を、鬼神の如く振りまくればそりゃあ暴発もするだろう。もはや飲み物ではなく凶器である。
息も絶え絶えなほど笑い転げている新開と東堂は、つい一時間程前は慈愛に満ちた表情で私と荒北の仲を案じてくれていたはずなのに。なんだこの人間不信に陥りそうなほどの手のひらの返しよう。そして問いたい、優しさってなんですか。
「箱根の直線には鬼が出る」とは高校自転車競技界でもっぱら都市伝説のように語られているウワサではあるが、ハコガクの部室には正真正銘の悪魔が出るのだと、二重に響く爆笑を聞きつつ思い知った。
1人のバカでも人並み外れた面倒事を引き起こす能力を持っているのに、それが二人。単純計算でバカ二倍、しかしこいつらはそんじょそこらのバカじゃなく1+1が2にも3にもなるほどのエース級のバカなのだ。バカの化学反応により巻き起こされる大惨事はまさしく悪魔の所業。監督も顧問も早々に匙を投げ、医者も黙って首を降るレベル。可哀想な被害者代表の私はもはや言葉もなくただ茫然と立ち尽くすしかできない。
しなやかな猫っ毛からポタポタと泡も消えた炭酸飲料の雫を滴らせつつ、いっそ不気味なほど無言の荒北に、死刑宣告を待ち受ける囚人のような心境で向き合う。ひと思いにやってくれ、と半ば投げやりにお腹の辺りに力を入れた私とは裏腹に、荒北は静かな声で告げた。
「アー、なんだ。いろいろ気遣ってくれてンの、分かってっから。もう十分だし、名前チャン頑張るの禁止ねェ」
...なんというデ・ジャヴ。
背後で元凶のひとり東堂が「流石は荒北、懐が深いな!」なんて言いながらぱちぱち手を叩いたところでハッと我に帰った。既視感じゃないこれ実際今朝にもやったやり取りじゃん!なんで今日がお誕生日、あんたが主役の荒北に申し訳なさそうに気遣わせてるんだ私は。大体全部ほぼ100%後ろのバカ二人のせいだけど!!
「〜〜〜っ!」
「ッちょ、おま、バァカ!!何泣いてんだよ!」
何か喜ばせなくちゃ、と張り詰めててた緊張は荒北の労る様な声色に触れて切れてしまった。だって、今、荒北は『頑張らなくていい』と言った。失敗ばかりの私の行動に呆れて、もうこれ以上迷惑を掛けてくれるな、と。つまりはそういう意味だろう。分かっていたのに突きつけられた言葉は私を極力傷付けないように幾重にもオブラートに包まれていて、荒北の普段の素行からは想像もつかないほどの心遣いが、余計に苦しい。苦しくて、ふがいなくて、胸が張り裂けんばかりに痛いんだ。
「名前を泣かせるなんて、靖友、おめさんも中々ワルだなぁ。ここは一先ず、寿一に言いつけようぜ」
「なんて非道い男なんだ、荒北め!よし、早速フクに電話しようではないか!」
「よっしゃ、オメーらは後でまとめてシバいてやるから、ちょおっと黙ってろよナァ!?」
「...あらっ、きたぁ!ごめっ、きら、きらいに...なんないで...」
何も出来なくてごめん。ダメダメな彼女でごめん。普段可愛げが無いくせに、こんな特別な日にすら喜ばせてあげらんなくて、ごめん。
ごめんなさいがいっぱい胸につっかえて言葉にならなくて、外野をひと睨みで黙らせた荒北にようやく伝えられたのは、これ以上はないほどに情けない懇願だった。壊れたみたいにボロボロ涙を落とす目を覆って、密かにこんにちはしていた鼻水も拭う。鼻水女子なんて百年の恋も冷めるだろうと判断できるくらいには、冷静のカケラが残っていたことがせめてもの救いか。
ずぴずぴと女子に有るまじき音を響かせながらごめんなさいを繰り返していたら、突然空気が震えた。錯覚でも、物の喩えでもなんでもなく、音が質量を持ちビリビリと肌に刺さるは獣の咆哮。
「だぁーーーーッ!!!お前も!いい加減にしろよこのおバカチャンがッッ!」
それは自身の荒々しいライディングから『野獣』だなんて評されている荒北の、本気の怒鳴り声だった。何だかんだで面倒見の良い荒北が、新開東堂コンビを叱り付ける元ヤン仕込みのドスの効いた怒鳴り声は日常的に耳にしてはいる。だけど、実際に自分が怒鳴られる側になるとこうも違うものか。迫力も衝撃もそしてショックも、どれをとっても想像以上なのだ。
初めて向けられた荒北の剣幕に私は簡単に追い詰められて、ゆるゆるに緩んだ涙腺は馬鹿みたいに雫を溢れさせてしまった。
「あ、あらきたが、ば、バカって言ったぁ!!バカっていう方がバカだもん!ていうか一番のバカはそこにいるもん!うわああああん!」
「むっ、こら苗字。指を差すな、指を」
「尽八、怒るべきはそこじゃねえだろ。バカ呼ばわりされてるぞ、おめさん」
「テメエらもれなく二人ともバカだっつーのォ!つーかバカ共に振り回されて遊ばれてンな、お前も!」
ずびしっ、と音がなりそうなほど勢い良く額に突き立てられた人差し指。ハンドルを力一杯握るため、短く整えられた爪はそれでも肌に刺さって痛かった。必死に言い返す言葉を探す私(ギャン泣き)と、完全に蚊帳の外に置かれて不満顔の新開、東堂(バカ×2)、そして相当おかんむりな荒北(元ヤン)という傍から見れば何ともカオスな状況。なのに、なにぶんツッコミ役が慢性不足状態の我が部である。止めるもののいない言い争いは見る見るうちにヒートアップしていった。
「私はッ、荒北をちゃんとお祝いしたくて!そりゃ普段は文句ばっかだし、ケンカばかりだし、勝手にベプシ飲むし挙句誕生日知らなかったし!!可愛くないのは知ってる!でも...今日くらい、はっ!荒北が喜んでくれたらいいな、って...」
「だァから、それがまずお門違いだっつってんのォ!」
「おっ、お、お門違いィ!?...っ、どぉーせ私がした事は余計なお世話でしたよー!!迷惑かけてばっかりで、こんなんじゃ...こんなんじゃ、荒北に嫌われても仕方ないんだ!!」
「―――ッの、ボケナスッ!」
盛大な舌打ちが聞こえた、と思ったら頭を鷲掴みにされた。瞬時見開いた目に紅潮した荒北の顔が近付く。―――くちびるが、触れる。
「〜〜〜〜!!痛いいいいい!!!」
「ッセ、バァーカ、名前のボケナス」
ハイケイデンスで峠を攻めるように転げ回る展開に、既に大パニック状態の頭が、それでも引き寄せられる一瞬のうちに過去に読んだ少女漫画の『こんなイケナイことを言う口は、お仕置きだ...』なんていうワンシーンを引っ張り出して来たんだけど。残念ながら荒北と私の間にそんな甘い展開はありませんでした。
唇が触れるどころか、噛み付かれた。それも、喰いちぎられるかって、勢いで。
赤く腫れているだろう噛まれた箇所をさすりながら、呆然と噛み付いた張本人を見上げる。吃驚しすぎて尻餅をついた私とは対照的に、仁王立ちのままの荒北の表情は影になっていて伺えない。それでも、纏うオーラが怖すぎた。何これ、なんで私、荒北の過去一番の地雷踏んでんの。もう帰りたい。狼を前にした子兎よろしく震えていたら、一度頭を振った荒北がゆっくりとしゃがんで再び顔が近づいた。先程の噛み付き事件もあって反射的に逃げようとするも、伸びてきた両手が首の後ろに回りそれを許してはくれなかった。ああもう逃げられない。ギラギラとした捕食者の瞳に見据えられて、私の喉からはひゅっと掠れた音が鳴る。
「つーかさァ、名前チャンよォ?そもそもお祝いされたかったら自分から『お祝いしてヨ』くらい言うよネェ?ぶっちゃけ俺も東堂のバカに言われるまで忘れてたし、正直それがどーしたよォ?って感じなんだわ。なのにィ、どっかのおバカちゃんは焦りだすわ、この世の終わりみたいなツラしだすわ、挙句の果てバカ共に良いように遊ばれるわ!余計ムカついただろォが!!」
「ひえっ、あ、あの!荒北さん?ちょっと待って」
「いーや待たないからァ!大体さァ、嫌いになるとかならないとか、どの口が言っちゃった?人がどんだけ苦労して、茶々入れてくるバカ共蹴散らして、やっとの思いで名前チャン落としたと思ってんの?誕生日忘れるくらいには柄にもなく浮かれて、新開や東堂にすら無様に嫉妬するくらいお前が好きだっつっても、同じこと言えんのかこのボケナスゥ!!」
「ごっ、ごめんなさいごめんなさいボケナスでスミマセン!!」
ちょっと待って、いろいろとストップ!何か赤面もののものすごい発言が繰り出されてるような気がするけど、息もつかないマシンガントークのせいで処理能力がついていきません。誰か解説役、もしくは実況を寄越してくれ今すぐに。
いつの間にか涙は止まっていて、顎を伝った最後の雫が荒北の腕にぽつんと落ちた。見るとはなしに涙の行く末を追っていたら、今までの感情任せの怒鳴り声とは打って変わって、消えてしまいそうな呟きが頭の上から降ってくる。
「...んダヨ、俺がいちばん、ダッセェじゃん」
抑えられているのに、聞き間違いかと思うくらい小さな声なのに。その呟きは今まで聞いたどの言葉よりも、荒北の気持ちの丈が込められているような気がしたから。ああなんだ、くすぐったくて、くるしくて、いっぱいいっぱいなのは私だけじゃなかったんだ、って妙に安心してしまった。
「荒北、ごめん」
「...他に言うことあんじゃナァイ?」
「うん、荒北。すき。大好き。お誕生日おめでとう」
「ン、俺もちゃんと、名前チャンのこと好きだからサァ。こんなん柄じゃねーけど、マジで名前チャン居てくれるだけで十分プレゼントなんだわ」
今までにない甘い囁きに真っ赤に染まった頬は、荒北の胸元に押し付けて隠してしまった。ちょっとだけ汗くさいけど、これは荒北が頑張った証拠。いつでもひたむきに、ただひたすらにロードレースに向き合って全力を尽くす。そんな荒北靖友という男に、私は恋におちたんだ。
照れ隠しも相まって、ぐりぐりと頭を押し付けていたら飛び切り優しく大きな手が髪を撫でて、ああもう、心臓が止まりそう。
大団円に収まった安心感に身を委ねて、このまま荒北に甘えていようかな、って邪な考えが脳裏に浮かびかけたとき、今までいないものとされていた第三者の存在をハッと思い出した。
荒北の腕の中で、完全に抱き合ったリア充の最終形態のまま、恐る恐る視線を移せば。
「名前...お前が一番のプレゼントだゼ」
「きゃっ、荒北ったらダイタン...!名前困っちゃう!」
バキュンポーズを決めた新開と、無駄にくねくねして裏声を出す東堂が組んづ解れつしてました。
「...荒北」
「...おう」
きゃっきゃっと私達以上に黄色い声を上げてはしゃいでいる二人に、荒北の腕がピクリと反応した。止めるなヨ、と私にだけ聞こえた囁きに無言で頷く。止めるはずない、好き勝手ひっかきまわしてくれた二人である。お門違いかもしれないけれど、報復するに十分過ぎるほどの理由はある。
荒北が立ち上がる、私は大きな背中を見つめた。
箱根学園男子自転車競技部の部室に、絶叫がこだまするのは僅か数秒後の事だった。
(HAPPY BIRTHDAY 荒北靖友!)