春休みといえど、ハコガク自転車競技部は普段どおりのメニューをこなしていく。先輩達が卒業して、新入部員を迎え入れるまでは人数は少ないままだが、新三年生を中心として選ばれたレギュラー陣の練習量は他の部活、ひいては同じ自転車競技部内の平部員の比ですらない。あの後慌ただしく支度を整え、練習を開始。荒北は福富とペアでアシストの練習も兼ねた長距離メニューに出た。私はいつも通り追加のドリンクを作ったり、記録をつけたりといった細々としたマネージャーの仕事を始め、そして。


「というか何故、苗字は荒北の誕生日を知らないなどという失態を犯したのだ?一応、彼女なのだろう?」
「まー、名前ならやりかねんうっかりだな。でも、毎年それなりの規模で祝ってたんだぜ?おめさん、気付かなかったのか?」

福富から個人練習を言いつけられていた筈のハコガク二大馬鹿コンビは、黙々と仕事をこなす私の両側にピッタリと付きサラウンドでの質問攻撃を繰り返していた。
最初はシカトを決め込んでいたものの、唯でさえ凹んだ私の乙女チックメンタル略してオトメンタルは追い討ちをかけるような悪意なき言葉の暴力に耐えきれなかった。やめて私のライフはもう0よ!


「そんなこと言ったって、毎年4月は皆が1日に馬鹿騒ぎするから...それどころじゃなかったんだもん」
「おいおい、俺たちのせいにするのはよしたまえよ!折角のエイプリルフールなのに、何もせずに終わる方が馬鹿みたいではないか!」
「まー、毎回ちぃっとヤリ過ぎ感は否めんけどな」


そうなのだ。一年で一日だけ、嘘をつくことが大々的に許される日。
イベント事が大好きな日本人がここぞとばかりに普段の真面目で誠実で奥ゆかしい国民性を投げ捨て騙し騙され合う日、なんていえば流石に誇張しすぎだろうと眉をひそめられてしまうかもしれないけれど、変人揃いの我らがハコガク自転車競技部の面々にとっては何の誇張でもない。
3月31日から4月1日に日付が変わった瞬間から戦いの火蓋は切って落とされ、部活ごとにある程度固められて部屋が宛てがわれている寮の一角が頓に騒々しくなるせいで、安眠を妨害された他の寮生の苦情の嵐が比較的常識人―――つまり私とか主将である福富とかに舞い込む訳なのである。半ば部の伝統みたいになっているこの恒例イベントだが、「嘘をついてもいい日」が「相手の裏をかけば何をしてもいい日」に変換されているあたり、彼らの悪ノリの酷さが分かっていただけるだろう。

そんな男(と書いてバカと読む)達の誇りと矜持を掛けた待ったなしの戦いであるが、今年のクライマックスは新2年の泉田のレーパンが宙を舞ったあたりだろう。ちなみに去年は東堂のレーパン池ポチャ事件が勃発した。
レーパン、つまりレーサーパンツとは、コンマ1秒の早さを競い合う自転車競技において、風抵抗を少しでも減らし競技者の負担を減らす目的で開発されたサイクルウェアの一種である。個人の嗜好にもよるが、基本的な着用スタイルは直穿き。つまりレーパンの下にはほとんどの人がおパンツを履かない。
―――そう、お分かりいただけただろうか。
レーパンが宙を舞ったり池にポチャンしてしまったという事は、その間人としての尊厳を守る最後の砦を失った着用者はNO・パンティー故にFULL・チンとなる。一歩間違えば犯罪者、傍から見れば変質者が春休みとはいえ入学式や新勧イベントの準備のためそれなりに生徒がいる校内を駆け回るという恐ろしい光景が繰り広げられてしまった。
東堂は俺たちのせいにするなと憤慨し、新開はちょっとやり過ぎたと殊勝な態度であるが、このレーパンにまつわる珍事件の仕掛け人は何を隠そうハコガク二大馬鹿コンビという肩書きを欲しいままにするこの2人。こいつらの尻拭いに駆け回ったせいで、私が翌日に恋人の誕生日を控えていると知るきっかけを得られなかったとも言えなくもないし、責任の何割かは2人にあるんじゃない?と思う次第なのである。無駄だと知りながら2人をしらーっと冷たい目で見つめ無言の非難をしてみると、案の定ムカつくぐらい爽やかな笑顔で流された。


「もーー、2人のせいだ!馬鹿に関わるとろくな事が無い!どうにか挽回したいけど、今さら何したらいいかなんかわっかんないし......これで荒北に嫌われでもしたら、あんたらの末代の子孫まで恨んでやるーーッ!」
「まあまあ、そう怒んなさんなって。確かにちゃんと教えてやらなかった俺たちにも非はあるんだから、協力くらいするさ。な?尽八」
「いや、普通誕生日くらい知っていると思うだろう!全くもってこの山神に非があるとは思えないのだが」
「いーからいーから。そんな冷たい事言わなさんな。いいかい、名前?今さら敢えて“何かをしよう"とは思わなくていいんだ。普段通りの、いつも通りのおめさんで靖友に接してあげな」
「でも...」


新開お決まりのバキュンポーズと共に告げられた助言めいた言葉がいまいち信じられなくて、私は一瞬の逡巡をした。ただでさえマイナスからのスタートなのに、挽回しなくちゃいけないのに、何もしないでいつも通りだなんて。本当にそれでうまくいくのだろうか。


「ほれ」
「あいたっ!」


知らず知らず皺がよっていた眉間に、突如として走る鋭い痛み。同時にバチンといい音まで鳴った。あまりの痛さに涙目になりつつ何事かと目を向くと、東堂がその長い指を構えた状態でドヤ顔をしていた。つまり何か、私は今こいつにデコピン(しかも手加減なし)をお見舞いされたという訳か。


「何すんのよっ、バカチューシャ!」
「誰がバカチューシャだ、誰が!第一、苗字が誓いを立てた男の言葉を簡単に疑うから悪いのだぞ。お前ほどの者が、新開のあのポーズの意味を知らんとは言わせん」


手で銃の形を作り、相手に向けるポーズの意味。
それは「どんな相手であろうと、必ず仕留める」という誓いと宣戦布告の合図であり、過去に幾度もチームに貢献し勝利をもたらし続けてきたエーススプリンター・新開の絶対の自信を表すものである。
この場合、バキュンされた私を仕留めるというよりは、「靖友をきちんと仕留めて来いよ」という彼なりの激励の意味合いが強いのだろう。
何だかんだ言って、東堂だって同じチームメイトとして、友人として、私達のことを心配してくれているということが伝わってくる。
じんわりと温かくなる心に、この部に入って良い友人達に巡り会えたのかもしれない、なんて思った昼下がりなのでした。