ヒッポカムポスに鎚

なまえと初めて会ったのは子供の頃。
親同士の付き合いがあるからそれなりに挨拶は交わしたものの、子供ながらに一目で嫌いなタイプだと分かった。
危機感も脳みそもなく口角をあげて曖昧な返事をするしか取り柄のない中身がすっからかんな女。付け加えると容姿も身体も飛び抜けて良いわけでもない。
そんな女が平然と親しげに俺に話しかけてくるのも嫌いだったし、人のパーソナルスペースにずけずけと踏み込んで来られれば苛つきさえした。

嫌いだった。
嫌いな、筈だった。


「ねぇイルミ。次の休みドライブ行きたい」

ぐいっと目の前に出されたスマホの画面にはどこかの街の夜景らしき写真が載っている。「どここれ」「隣の隣の隣の街の展望台」「夜にわざわざ?人工の光を見て何が楽しいの?」「だって綺麗じゃん」彼女の言葉に再び画面を見てみるが、やはりそこにある光景はただの電飾としか思えない。これの、何が良いのだろうか。

「俺の部屋の窓から外見るとかじゃだめなの?中庭にいくつか外灯あるけど」
「イルミは分かってないなぁ。大事なのは彼氏とドライブデートで夜景を見に行くっていう行為そのものなの!」

拗ねたように口を尖らせるなまえ。
まぁその夜景を見に行くなんて手間への理解はできないが、彼女からそう言われれば悪い気はしない。
いつもそうだ。なまえはわがままで俺を振り回す。俺も俺で放っておけばいいのだが、そこそこ付き合いも長いし、家族ぐるみの関係だし、一応その内に結婚する相手になるだろうし。今後のメリットと優しさでこうしていつも付き合ってやっている。今回も結局は俺が折れるしかないのだ。未だに画面をスクロールしながらブツブツと抗議の声を漏らすなまえに「いいよ。行こうか」と言えば、たちまち笑顔になってこちらを向く。「いいの?!」「いいよ」「やったー!」ありがとうイルミ!と抱き着いてきた彼女を受け止め、その中身がすっからかんの頭をそっと撫でる。ふわりとウェーブのかかった細くて柔らかい毛は俺のものとは違っていて嫌いじゃなかった。

「あっそうだ!ついでに道中であのダイナーに寄ろうよ!」
「え?どこ?」
「あそこだよ!何年か前に車がエンストして、その時にすぐに修理が来なくて夜通し2人でコーヒー片手にたくさん話した、あのウェイトレスが愛想の無い女で、………あれ?待って、……え、ちょっと、待ってごめんごめん…なんかおかしい、……あの時って……………

一緒にいたのイルミだよね?」

俺を見たなまえの表情は強張っていた。目が泳ぎ、唇が少し震えて、困惑と恐怖がじわりじわりと押し寄せているのが嫌でも分かる顔をしている。

あーあ、困ったなぁ。
なまえはいつも変なタイミングで急に思い出すんだもん。

頭を撫でいていた手を離し、素早く針を打ち込む。なまえ専用の特別なソレを何度かぐちぐち動かせば、悲鳴をあげる暇も無く数秒の間の後に「えっと、なんの話だっけ?」いつも通りのなまえができあがり。

「ドライブ行くんだろ?いいよ。連れてってあげる。ついでたから久々にあそこに行こうか」
「どこ?」
「途中確かあっただろ。前に車が動かなくなって迎えが来るまでの間、コーヒー飲んで過ごしたあそこ」
「あのダイナーね!覚えてる!ウェイトレスが愛想なくてコーヒー薄かったよねぇ…あー懐かしい」

なまえは俺に抱き着く力を更にぎゅっと込め、そして俺を見上げて柔らかく微笑んだ。「イルミだいすき。思い出が沢山増えてくの嬉しい。いつもありがとう」えへへーと顔を赤らめながら平気でそんな恥ずかしい事を言うなまえに「馬鹿じゃないの」と返しながら俺もその小さな体を抱きしめ返す。

嫌いな、筈だったんだ。
それでもなまえの頭の悪そうな笑顔が俺以外に向けられた時、どうしょうもない感情が自分の中に芽生えたのを気付いてしまったのだから仕方がない。
いっそ自分に打ち込もうと思った針を、試しに彼女に向けてみたらこれが正解だったようで、なまえの頭にある特別を全部俺に書き換えてみたら全てが上手くいった。なまえは幸せそうだし、俺の混乱も落ち着いた。これでいい。もっと早くしてもよかったくらいだ。

「なまえ」
「なぁに?」
「ついでだから、どっか宿取って泊まろうか」

行った事の無い所まで行ってみよう、そう言うと彼女は嬉しそうな顔で歓喜の声をあげる。もっと、もっと、上塗りしていかないと。

剥げたらまた塗ればいいのだから。


main * JACKALOPE