白い壁、白い天井、白い掛け布団、床を支えている長机のようなひんやりと冷たいもの。行灯ではないのに部屋を照らす灯り。目にしたすべてが、見慣れないものだった。 ベッドというらしい寝床の上で呆然とする神楽の側に立つのは、一人の美丈夫。彼は閉じた瞼を言葉を失っている神楽に向け、ひんやりと冷たい手を額に触れさせた。 「・・・っ!」 突然触れてきた男に、神楽は強張った表情を浮かべて身を引く。初めて見る、まったく知らない男だ。警戒するなというほうが無理がある。 男は無言の拒絶に暫し動きを止めたが、手を下ろすとゆっくり口を開いた。 「・・・私は、あなたを傷付けるモノではありません。」 「・・・?」 「私の名は、数珠丸恒次。・・・あなたなら、この名を知っているでしょう。」 穏やかな声色で告げられ、神楽は目を見開くと、胸元にしまってあった数珠丸を取りだそうとした。だが刀特有の感触はなく、男が代わりに刀を差し出した。 「・・・あなたの知る形ではありませんが。」 鞘に収まったままのそれは、太刀。数珠丸は短刀程の大きさだったが、と柄を見てみると、そこには紛れもなく数珠丸恒次である証明の紋があり、神楽は刀から男へと目を移した。 「・・・もともと日蓮聖人が佩刀していた時の私は太刀でした。それが時代の移り変わりと共に磨り上げられ、あなたの知る形になった。なぜ今太刀の形か、詳しいことは私には分かりませんが、より五剣に相応しい形を取ったのだろうということでした。」 「でした・・・とは・・・?あの・・・何を、仰っておられるのか・・・わたくしには・・・。」 数珠丸恒次が太刀であったことは知っている。何しろ日蓮聖人の護り刀であったし、五剣とは浅からぬ縁もある。だがそれがこの状況と彼に、どう繋がるのかまったく分からない。 「・・・それに・・・わたくしは、死にました・・・。」 「いいえ、死の淵にあったところを、私を始め、あの場にいた五剣が繋ぎ止めたのです。」 「・・・え・・・?」 死の淵? 死んでいない? 確かにあの時、場には鬼丸国綱以外の五剣のうち四振りが揃っていて、たまたま神楽が数珠丸を懐に入れていた。それは間違いない。 だが自分の命があの時終わったことも、確かなはずだ。 「理解し難い話であることは承知の上ですが、私は天下五剣が一振り、日蓮聖人が佩刀していた数珠丸恒次が顕現した存在。あなたが手にしているのは、私の本体です。」 「けん・・・?え・・・?本体・・・?」 「付喪神を・・・ご存知ですか?」 「・・・は、い・・・。モノが百年壊れずにいると、精霊が宿り・・・妖となる・・・ですよ、ね・・・?」 「そうです。我々刀は、私も含め、ゆうに打たれてから百年を超える存在。私もまた付喪神で、あなたの霊力を受け、こうして受肉し、顕現しています。」 「あなたが・・・数珠丸に宿った・・・付喪神・・・?」 信じがたいこと、ではある。けれど神楽はお役目を与えられてから、霊魂という存在を目にするようになった。所謂幽霊というものが実在すると知っているから、妖の類いがいてもおかしくないと納得は出来た。 それに彼が人外ならば頷ける。人など遠く及ばない美貌、神秘性、浮世離れした雰囲気、そのどれもに神楽は胸を押さえた。 付喪神は神・・・だったろうか、と記憶を掘り起こしてみる。あまり詳しくはないが、神とつくならば神なのでは、と自らの中で決着をつけて、数珠丸を見上げた。 「・・・それで、数珠丸・・・様、は・・・」 「今まで通り数珠丸で構いませんよ、主。」 「主・・・!?あ、あの・・・わたくし御前試合にも出ていませんし・・・将軍様から授かってもいませんが・・・っ」 天下五剣はその秘めた力もあって、容易く使い手が決まらない。毎年開催される剣取り御前試合で優勝し、なおかつ五剣に認められた者だけが使い手となれる、日の本でも稀有な刀。その護衛役をしたり、運んだり、縁はあったが、けして認められたことはない。恐れ多いと首を振ると、手の中の数珠丸が淡く光り、人の姿の数珠丸が鏡を差し出す。そこに映っていた自分の顔に、神楽は息を呑んだ。 「・・・五剣が一振り、私に認められた証です。知らぬわけではないでしょう?」 知っている。 一度、たった一度だが、大典田に認められた知人に証が浮いているのを見たことがあった。 左目、否、左側の顔に浮かぶ青白い光の紋様。紛れもなく、五剣に認められた者の証。 事の展開の早さに、神楽は喉をそっと押さえた。 「・・・なぜ・・・わたくしが・・・?わたくしは・・・天下五剣を得るに相応しくありません・・・。この穢れた・・・罪深い魂が・・・あなたには分からないのですか・・・!?」 「あなたの魂は穢れてもいなければ、罪深くもありません。・・・あなたは日蓮聖人を崇拝し、日蓮宗の敬虔な信者。むしろ私が認めるに値する方であると、私が判断しました。」 「・・・っ、あなたを望む剣豪は数多くいます・・・。わたくしは侍ではありません・・・!ただの・・・っ!」 「あなたが、私の主です。」 「数珠丸・・・様・・・っ」 動揺のあまり呼吸が浅い神楽の傍らに腰を下ろし、小さな手を握って語調を強める。言葉は丁寧だが反論を許さぬ声色に、神楽は悲しげに俯いた。 「・・・上様に・・・合わせる顔がありません・・・。」 「あなたは何も心配する必要はありません。・・・家光公にお会いすることは、二度とありませんから。」 「・・・・・・、・・・え・・・?」 「あなたは、既に亡くなったことになっていますし、何よりここは、我々が存在していた世界でも時代でもないのです。」 「・・・存在していた・・・場所では、な・・・」 繰り返すうちにみるみる青ざめた神楽は、こめかみに震える指を添えた。そして混乱のあまり、周囲を見渡し、指を離したり、添えたりを繰り返す。そしてやがて、数珠丸の胸元をすがるように握った。 「・・・さ、きょう、さん・・・は・・・?」 おそるおそる紡がれた名前を聞くなり、数珠丸のまとう空気が張り詰める。そして、強く神楽の手を握った。 「鷺原殿のことは忘れなさい。」 「・・・っ!」 「・・・あなたを刺し貫いたのは、誰です?彼を忘れることが、あなたのためです。」 冷たい宣告、否、最早命令だ。それに神楽は真っ青な顔で、ふるふると首を振った。 「主、あなたは一度死に瀕してなお、悟りの道を外れようとするのですか?」 「あ・・・、」 「執着は悟りへの見誤せます。・・・敬虔なあなたなら、わかりますね?」 そう、この世に執着するということは、煩悩を捨てきれていないということ。それは日蓮聖人の教えから逸脱する行為。 幼い頃から自らの救いとして信じ続けてきた教えを真っ向から否定することは、自らの人生を否定すると同義。 けれど、恐怖と同じくらい、彼を忘れることを心が必死に拒絶している。 「あなたは生き直すのです、主。今度こそ、家や兄君、お役目から解放され、あなたの幸せのためだけに生きるのです。」 「・・・生き、直す・・・?」 「・・・あんなに憐れな生涯では、あなたの魂が救われません。大丈夫です、私があなたを守ります。」 憐れ? わたくしの生涯が? 「・・・わたくしは・・・憐れ・・・なのですか・・・?」 「・・・?あなたは、御自分の生涯を儚んでいたでしょう?苦痛と悲哀で、胸を痛めていたではありませんか。」 「・・・・・・、・・・・・・。」 ずしり、と‐‐‐ 胸に重石が乗ったように、何かがつっかえた。けれどそれの正体は分からない。 自分の生涯は憐れだったのか、と思うと、全身が冷たく強張る。 けれど彼は付喪神だ。ならば彼の言うことが正しい・・・のだろう。 「・・・とにかく、ここの者に話をしてもらいましょう。私が伝えるよりも良いでしょう。」 そっと頭を撫でられ、神楽はただ頷くしかなかった。 |