何かが追ってくる。 怖い、早く逃げなければ。 あれに捕まってしまったら、もう逃げられない。 助けて、誰か。 左京さん‐‐‐‐ 「・・・主、目が覚めましたか?」 果てが見えない闇の中にあって、はっきりと形が分かる真っ黒の無数の手の残滓。心臓は太鼓のように激しく打ち鳴らしていたが、数珠丸のひんやりとした手が額に乗ると、すうっと身体が落ち着きを取り戻し、呼吸も脈動も楽になった。 「数珠・・・丸・・・。」 「・・・うなされていたので、失礼を承知で入りました。怖い夢でも見ましたか?」 「・・・手、が・・・たくさん・・・、・・・っ!」 「・・・大丈夫です。あなたは私が守ります。」 さらさらと前髪を避けながら微笑む数珠丸はひどく優しい。人の形の彼と出会ってから初めてのことで、神楽はホッと肩から力を抜いた。 「・・・出陣、してから・・・ずっと寒気が、して・・・。」 「ええ、知っています。・・・怖がらせてはと思い黙っていたのですが・・・。」 躊躇うように言葉を切った数珠丸に、身を起こしながら「・・・え・・・?」と問う。閉じられた瞼が向けられると、神楽の胸はまた不安に騒ぎだした。 「・・・昔から、視えていたでしょう?」 「・・・っ!」 「人ならざるものの姿が、あなたには視えていたはずです。」 「・・・・・・、・・・はい・・・。」 昔から、そう家督を継いで初めてのお役目を終えた瞬間から、まるで目を取り替えたかのように世界が変わった。どこを見ても、既に存在しないはずのものの姿が映る。最初は頭がおかしくなったかとも思ったが、神通力を扱える僧正がそれは死んだはずの魂であると告げた。自身の心が耐え難いほどの衝撃を受けたために、そういった能力に目覚めたのだろうと言われ、言葉を失った。 ここに来てからはまるっきり視えなくなっていたから、やはり神がいる場所は違うと思っていたのに。 「はっきりと霊力に目覚め、彼等にとってより良い存在になってしまったのです。戦場は魂が集う場所ですから・・・。」 「・・・っ、」 「大丈夫です、主。これからは私と共に眠りましょう。」 「・・・え・・・!?」 微笑みすら浮かべて言う数珠丸に、神楽は唖然とするばかりだった。如何に日蓮聖人の護り刀であった数珠丸といえど、彼は立派な成人男性の肉体をしている。些か・・・いやかなり華奢ではあるのだが。 どんなに純粋で無垢であっても、未婚の娘が許嫁でも夫でもない男と共寝をするなどいけないことと知っている。言葉も出ずにいると、数珠丸はくすりと笑みを深めた。 「・・・どうしました?まさか私が、あなたに何かするとでも?」 「な、何か・・・?」 「まさかあなたに男として触れるとでも?」 「じゅ、数珠丸・・・?」 「・・・私はあなたの刀です。あなたを守りはしても、傷つけはしません。私は日蓮聖人の刀であり五剣。人ならざるものからあなたを守るには、とりあえず私が適任ということです。」 「は、はい・・・。」 「・・・私の兄弟刀が来れば、彼も力になってくれるでしょう。」 「数珠丸の・・・?」 「ええ。にっかり青江です。彼も顕現の対象ですから。」 刀も刀工が同じなら兄弟刀となる。数珠丸の顔を見れば、どこか柔らかく、青江に対して他と違う感情があるのは明らかだ。 人のように血が繋がっていなくても‐‐‐、否、そんなものがなくても彼等は人よりずっと純粋に繋がっていると言えるだろう。 「・・・主?」 「・・・ぁ・・・、」 「・・・会いたいのですか?兄・・・。」 「違います・・・!」 数珠丸が言わんとしていることが分かった神楽は、俯いたまま語気を強める。拳を強く握りすぎて震える身体を暫く見つめていたが、やがて数珠丸はそっと神楽の頭を引き寄せた。 「ええ・・・、あなたは新たな人生を歩むのですから・・・。」 「・・・・・・。」 数珠丸の声は優しい。包み込むような音に涙腺が緩んだが、顔を上げず声が漏れないよう唇を引き結んだ。 新たな人生と数珠丸は言うが、それならいっそ記憶を奪って欲しかった。そうすれば数珠丸のことを疑わず、恐れることも、反発心を覚えることもなかっただろう。審神者としてだけを考えて生きていけたはずだ。今までを忘れ、なかったことにして、まっさらな人生を歩もうなんてあまりに身勝手だ。 だがそんなことを彼に言ったところで意味があるとも思えなかった。 「・・・数珠丸は・・・わたくしにどう生きてほしいのですか・・・?」 「どう・・・とは?」 「あなたが思う・・・わたくしの正しい生き方が・・・あるのでしょう・・・?」 出逢ってからずっと、彼は一挙一動を見ている。夕食の献立ですら左京を思い出させるのも許せないようだった。 新たな人生。それを与えたのは数珠丸だ。多少自由にしたいと思うのは仕方がないとも思える。 どうせ役目に従事して生きるのみだった一生。命じる相手が変わるだけだ。 「・・・私はただ、あなたに幸せになってもらいたいだけですよ。」 「・・・幸せ・・・?」 「あなたは若くして日蓮聖人の教えに共感し、悟りの道に近付こうとしていました。・・・俗世の者に関わりすぎたために、今は混乱しているようですが、私は今度こそあなたに憂いなく、仏道の探求をしていただきたいのです。」 「・・・憂い、なく・・・。」 「雑事に心を煩わされることもありません。人の世であったことなど忘れ、一心に仏の救いを学び、悟りに至りなさい。」 彼の言っていることが、神楽には違う世界の言葉に聞こえた。 理解したくなかった。 散々心を悩ませたこと、喜んだこと、悲しかったこと。それはすべて雑事で、花嫁道中を共にした皆は俗世の、ただ惑わす者。悟りへの道を阻むだけの者だと彼は言っているのだ。 救われたことも、優しくされたことも、笑ってくれたことも、信じてくれたことも、すべてが、取るに足りないのだと。 ひどく寂しかった。 色のない世界を、たった一瞬でも彩ってくれた人達を、時間を、無駄と切り捨てられたようで。 無駄なものに精一杯心を傾け、命を燃やした自分は、確かに彼から見ればただ憐れだったのだろう。 彼は神だ。 そして自分は数十年の単位でしか物事を考えられない、矮小な存在。見ているものが違う。 ならば当然、矮小で憐れな自分が、間違えているのだろう。 如何に彼の否定が悲しく、腹に据えかねるものであろうとも。 正しいのは、人よりも、神であり仏。 「・・・主?眠くなったのですか?」 返事をしたら涙が零れそうで、こくりと頷く。すると数珠丸は優しく横たえ、そっと頭を撫でた。 だがその温度は、冷たい。 「・・・おやすみなさい、主。良い夢を。」 夢などいらない。 いっそ眠りから覚めなくていい。 あの短い時間を、彼等を、そして愛した彼を、忘れなければならないのなら、もう目覚めたくはない。 やはりあの時、死んだほうが良かった。 そう、数珠丸に言えたらどんなに気が晴れるだろう。 だが彼は救ってくれたのだ。取るに足りないこの命を、素晴らしい力を使ってまで。 深く布団に潜り込む。 一刻も早い眠りを求めて、神楽は固く目を閉じ、必死に涙を堪えた。 猛毒ラプソディー |