伍ノ壱

小狐丸が殴った、というこんのすけは、出陣前とはまるで様子が違った。はきはきと明るく、お茶目に冗談を言い、ころころとよく笑う。別物かと思ったが、小狐丸が「私の気を入れました。」と答えた。


「ぬし様の式神であるはずが、何者かの霊力を入れられていたため、おかしいとは思っていたのです。」

「では今は・・・小狐丸様の式神になるのですか・・・?」

「ええ。これでぬし様に仕えるに相応しい狐になったと言えましょう。」


ずいぶん乱暴だが、出陣前のままではいずれ大きな衝突となっただろう。小狐丸は身体は大きく、どちらかと言えば強面だが、気は優しいし、全面的に味方である。この方が安心だろうという結論に達した。


「本来ですと審神者様には鍛刀をお願いするのですが、本日は既に二振り新たに顕現しておりますから、明日に致しましょう。」

「はい、わかりました。」

「本日はまことにお疲れ様でございました。」


ぺこりと頭を下げると、瞬きの間に姿を消す。こんのすけがいなくなると、神楽は小さく息を吐いた。

「主君、お疲れですか?」

「・・・いえ、大丈夫です。そろそろ夕餉の刻限ですし、準備をします。」

「おお!主の飯は美味であると信春は常々口にしていたな。楽しみだ。」

「あ・・・、その前に湯殿の用意を致しますね。皆様・・・お腹は空いていらっしゃいますか?」

「湯殿の用意ならば、私達がしましょう。いずれ食事も手伝えるように・・・。」

「何をすればいい?あんたが割り振ってくれ。」


人数は神楽を抜かして六。湯殿はまず掃除をしなければならないから、と三日月、数珠丸に頼み、薪を小狐丸と山姥切に頼む。食事の支度は何となく手先が器用そうだったため、鳴狐と前田に頼んだ。

出陣している間に、こんのすけから教わって残っていた面々が食材を頼んでくれていたらしい。それらを確かめた神楽は、前田と鳴狐に指示を出しながら食事の支度を進めた。


「いやはや見事なお手並み!主殿はいつでも嫁に行けますな!」

「・・・恐縮です。」

「狐さんの言う通りです。この香の物と鯉の甘露煮は特に絶品ですし。」

「好物だったので・・・。」

「ほう、主殿の好物ですか。なるほど、他と味が違うわけです。」

「いえ、わたくしでは・・・。」

「ではどなたの好物なんですか?」

「‐‐‐‐、」


純粋な興味から尋ねた前田だったが、その問いに神楽は目を丸め‐‐指の端で菜箸を落とす。そしてすっと手元が狂い、人差し指に一文字の傷が走った。


「・・・っ!」

「主君!」

「主殿!指を切ったのですか!?」

「・・・大丈夫です。大した傷では・・・。」

「手当てするものがないか見てきます!」

「わたくしも参りましょう!鳴狐、主殿を頼みましたよ!」

「あ・・・っ、大丈夫・・・なん、ですが・・・。」


ぷくりと血の粒ができ、指を伝うが、刀傷に比べればなんということはない。だが心配してくれている、というのは有り難く、神楽は目を伏せた。すると鳴狐の手が、神楽の手を持ち上げる。「・・・下げないで。」と心臓より高い位置に指を上げさせた。


「・・・・・・、・・・痛い?」

「い、いえ・・・かすり傷にも劣るくらいで・・・。」


流れた血が、指の股から鳴狐の親指の付け根に落ちる。汚してしまった、と謝ろうとした口だったが、彼がその血を口覆いの隙間から舐めたのを見て、あんぐりとさらに開いて言葉を失った。
味を確かめるように舌を一度しまった鳴狐は、さらに驚いたことに口覆いを外し、神楽の指先に唇を近付ける。生暖かい舌が傷に触れ、軽く吸い上げていく。ちり、と微かな痛みが走り、肩を揺らしたが鳴き狐は血が流れた後を舌で辿り、指の股までぬるりと這わせる。頬は一瞬にして熱を持ち、下腹部が脈打つ。首筋を羽で擽られるようにざわめき、叫びたいほどの羞恥だったが、喉は緊張でしまり、喘ぐような声が漏れた。

「な、鳴狐、さ、ま・・・っ!?」

「・・・聞かれたく、ない?」

「え・・・?」

「誰の好物か。」

「・・・!」

「・・・分かった。」


短く呟くと、鳴狐は口覆いを戻す。それと同時に前田がバタバタと戻り、「主君、絆創膏というものが良いようです!」と二枚の紙のようなものを剥いた。


「・・・あれ?主君・・・血が止まっていますね。」

「ぁ・・・っ」

「良かったです。一応貼っておきますね。」


にっこりと微笑む前田に、神楽は何も言えなかった。人とあまり関わってこなかったために、鳴狐の行為が行き過ぎたものかどうかが分からなかったし、第一に恥ずかしくて口にするのも憚られた。鳴狐は一生懸命きゅうりを切っていて、まるで気にした様子がない。・・・本当によく分からない、と複雑な気持ちを抱えながら、調理を続けた。


「・・・鯉の甘露煮に、香の物、ですか・・・。」


いざ食事となりそれぞれ膳の前に座ると数珠丸が静かに口にした。声色は平坦なのに、そこに咎めの色があるような気がして、ぎくりと心臓が縮まる。指が震えて箸を持てずにいると、三日月が「なんとも美味だなぁ。」と輝く笑顔で言った。


「うむ、こちらのだし巻きも、汁ものも美味い。信春めはいつもこれを食していたのか。舌が肥えるはずだ。」

「・・・宗近・・・。」

「最初の食事だから張りきってくれたのだろう?ふふ、だが明日からも欲張りになりそうだ。」

「ぬし様は愛らしいだけでなく戦も出来、料理もお上手なのですね。」

「ほっぺたが落ちそうです・・・!ねえ、山姥切さん。」

「・・・・・・、・・・美味い。」

「・・・あ・・・ありがとう、ございます・・・。」


ぎゅう、と膝の上で拳を固めたのは、緊張感から解き放たれて緩んだ涙腺を引き締めるためだ。三日月がああして雰囲気を変えてしまったら、彼等の初めての食事が辛気臭くなってしまうところだった。


「・・・主、冷める。」

「は、はい・・・そうですね・・・。」


慌てて箸を取る。指の震えは収まったが、神楽は極力数珠丸を視界に入れないよう、膳だけを眺めた。
食事が終わり、女の神楽に男が使った残り湯を使わせるなど言語道断と力一杯否定した小狐丸と前田の言に従い、一番風呂に押し込む。ぬし様のためならばと片付けを買って出た小狐丸と鳴狐は洗い物の最中。三日月は風呂まで時間を潰そうと酒を片手に月を見上げていた。


「・・・三日月殿。」

「おお、数珠丸殿。貴殿もどうだ?」

「なぜ私の邪魔をするのですか。」


三日月の言葉を無視し、やや棘がある物言いをする数珠丸に、杯を揺らしながら目を伏せる。


「・・・邪魔、とは何のことだ?」

「主は一刻も早く鷺原左京を忘れるべきです。それが主の救い。あなたは故意にそれを阻んでいる。」

「・・・・・・。」

「あなたも主を憐れみ、幸福を願ったからこそ私に力を貸したのでは?」

「・・・数珠丸殿、左京を忘れたいと神楽が言ったのか?」

「・・・どういう意味です。」

「ままならぬが心。その中でも思い通りにならぬが恋。忘れるかどうかは神楽が決めることだ。忘れるにしても、どれだけの時を必要とするか、貴殿が決めることではないだろう?」

「・・・主は幼い。人と関わらず生きてきた主には、相手の良し悪しの区別がつけられないのです。」

「だから導く・・・と?」


ふ、と笑った三日月は、杯の湖面に浮かぶ月を眺めた。


「・・・数珠丸殿は、神楽で人形遊びでもする気か?」

「・・・何が言いたいのです。」

「間違えてもらっては困る。俺は神楽を『生かす』ために力を貸したのだ。貴殿の人形にし、死んだように生かすためではない。」


湖面から外れた視線が数珠丸を捉える。鷹搖とした彼らしくもなく、今は刀そのものの鋭い眼差しをしていた。


「たとえ左京への未練を捨てきれず、心から血を流そうとも、それが『生きる』ということだ。神楽の想いを無視し思い通りにしようとする貴殿のやりようを、俺は一度たりとも認めてはいない。」


きっぱりと数珠丸を否定した三日月は、酒を手に立ち上がる。


「・・・仏が示す救いがそれほど無情か、今一度貴殿は考えるべきだろう。」


名刀の中の名刀に数えられる二振りの眼差しが激しく交わる。火花が散りそうな緊張感を、やがて飽きたのか三日月が外し、去って行った。


「・・・貴殿こそ、分かっていない。」


生温い風が、数珠丸の長い髪を拐う。


「・・・新しき世界が始まったのは、彼女も同じ。生きるなど・・・、出来はしない。」


人の道からも輪廻からも外れた彼女に、今さら『人のような生き方』を強いる彼のほうがよほど残酷だ。


「真の救いは・・・私しか与えられない・・・。」


低い呟きが風に乗って消えていく。さわさわと木々の葉が、数珠丸に答えるように音を立てた。