僕が昔住んでいた所は、治安が悪かった。
下から数えた方が早い地区。そんな場所で、人の心が豊かな筈がない。
お金なんて勿論持ってなくて、飲み水を強欲商人から奪い取ったり、顔も知らない人から食べ物を盗んだり…取り敢えず、生きる為なら何だってした。
今なら判る。あの時の僕は、人の形をした獣だったのだろうと
《──────我等の名は藤凍月》
ある日、夢で銀色の狐と赤茶色の狐と話をした。
奇妙な夢だと思いつつ目が覚めると、僕の手には水色の鞘と柄の日本刀。理由は判らない。
けれど、これはあの狐達だと直感で判断した。
そして悟った
─────僕は、力を得たのだ、と
その時から手にした刀で、人も沢山傷付けた。生きる為には仕方がない。そう割り切って、刀を振るった。何度も何度も、人に向けて振るった。
当時、良心の呵責なんて無かった。
獣同然であった僕が、誰かを慮る事なんて勿論ない。
そしてそんな獣の思考に、少なからず浮かぶ筈の疑念も沸きやしない
魂魄は、本来なら食欲から解放されている存在だ。
けれど、この時僕は、空腹になる事を疑問視した事はなかった。
刀を持つという意味を、知ろうともしなかった
暫くして流れ着いた別の地区で、ある老夫婦に拾われた。
その二人に、無闇に人を傷付けない事を約束させられた。
──────どうでも良い。
二人と約束した時、胸を過ったのはそんな言葉だった。
そもそも奴等が生きる事を邪魔するから、僕は斬っていたのだ。刀を振らずとも生きられるのなら、それで良い。
その方が体力も温存出来て、楽だし。
…その頃の僕には、人らしさというものはあまりなかった。
あの地区で必要だったのは情けや人間味ではなく、飢えを凌ぐ為の力だったから。
力こそが全て。心は判断を狂わせる、命を危険に晒す邪魔なものだと。そう、考えていた。
やはり僕は、獣だったのだ
故に、僕は無知でもあった。
虚の事も死神の事も斬魄刀も……何故魂魄であるこの身が空腹を覚えるのかも、知らなかった。
否─────知ろうともしなかった。
ある日僕は、流魂街から少し離れた森に向かっていた。目的は薬草。傷に効く薬草の生息地が、近くにはこの森の他にないからだ。
お爺ちゃんとお婆ちゃんには少々大変な道の為、僕が薬草摘みの係を担っている。
『よいしょ』
空っぽの籠を背負い、すたすたと進むのは鬱蒼とした緑の道。どうやら此処は薬草の宝庫の様で、様々な効能のある植物が生息していた。
その所為で月に一回は必ずこの森を訪れていて、獣道ばかりの道筋も、今ではしっかり頭に叩き込まれてしまった。
足早に進みつつ、季節毎に姿を変える緑を楽しむ。昔はこんな事、思いもしなかった。
『…食べられないものには、目も向けなかったな』
お爺ちゃんとお婆ちゃんに拾われて、人らしくなってきた様だと自嘲する。
軈て細い一本道の先が拓け、木漏れ日の射す空間に出た。美しい光景に目を細め、それから早速お目当てのものを見付ける。
それを手早く籠に放り込み、胃痛や炎症に効く薬草も掴み取った。
似た見た目でも猛毒のものもあるから、しっかりと観察して摘み取る。もし迷ったら、それは放置だ。
無闇に自信を持って二人に毒を盛るなんて、目も当てられない。
恩を仇で返すなんて、本意ではないのだ。
『ふぅ………』
暫く経ってから、座り込んで作業していた手を止めた。そしてこんもりと籠の中に積まれた薬草を見る。
取り敢えず沢山摘んだ。
『…こんだけあれば…大丈夫、でしょ…』
立ち上がり、ぐっと伸びをする。長らく同じ姿勢で固められていた節々が鈍い音を立てたが、凝り固まった筋肉が伸びて気持ち良い。
十分に伸びをして、それから僕は空を見た。そこにあるのは夕焼け空。日は既に沈みかけている。
…あれ、僕が此処に来たの真っ昼間だったんだけど。少々夢中になり過ぎたかと頭を掻いて、僕は籠に手を伸ばした。
二人を心配させたくないし、早く帰ろう。
そう考え、籠を持ち上げた、その時
─────────オオオオオオオオ!!
『っ!!』
びりびりと空気を震わせて、何かが森に響いた。
今まで生きてきた中で一度も聞いた事のない音は、それでも人の本能を揺さぶるには十分なものだった。
初めて耳にした音に、腰が抜ける。
ぺたんと籠を背負ったまま座り込んだ僕の背後で、再びそれは空を揺らした
────────オオオオオオオオ!!
かたかたと脚が震えている。
理解、してしまった。
─────これは、声だ。雄叫びだ。
獲物を見付けたと咆哮する獣の声だ。
『、』
背後で声を上げる獣が何を指して吼えているかなんて、判りきっていた。
僕は首を捻り─────佇む獣を目に映す
『…………っ』
それは一言で言ってしまえば、異形だった。
二本足で立つ、魚の頭蓋骨を持った薄緑の化物。鱗を纏った尾は長く、蜥蜴のそれにも似て見えた。
そんな動物を組み合わせたかの様な異形は、ぽっかりと空いた眼窩の向こうから、黄色い目を爛々と光らせてみせた
『……化け…もの………』
酷く掠れた自分の声が、遠く聞こえる。
見開いた目は、異形から外す事も出来なくなった。
─────目を逸らせば、死ぬ。
強迫観念にも似た焦燥に従い、目は決して逸らさない。たとえ身体が震えていようと、手足に力が入らなくても、それだけは絶対に止めないと決めた。
冷や汗が頬を伝う。
一歩、異形が恐竜の様に鋭い爪の付いた足を前に進めた。
手足だけじゃなく、胸までさあっと冷たくなる様な、嫌な感覚。
空気が上から押し潰してくるかの様に、重く感じる。
動けない。でも、目を逸らすのだけは絶対に駄目だ。
冷えきった手足を投げ出し精一杯睨む僕を、異形は蔑む様に、頭蓋骨の奥で黄色い目を細めた。
ひたすらに化物を睨み付けたまま、震える手を使い、後退ろうとする。
だが力の入らない手は草の上を引っ掻くだけで、意味なんて成さなかった。
『っ…!』
ぐわり、と異形が大きな口を開けた。
そこには肉食獣の様に尖った歯がずらりと並んでいて、白いエナメルの表面を唾液がてらてらと伝う。
ぶわりと総毛立ち、全身の毛穴から汗が噴き出した様な嫌な感覚に、僕の視界は涙で滲んだ。
『っあかいろ、ぎんいろ…!!』
口から飛び出したのは、頼れる双狐の名。
二匹は僕の前に現れたかと思うと、銀色が僕の襟を咥え駆け出した。
見る間に遠ざかる化物と、赤茶色の狐。
僕は震える手でなんとか銀の毛並みにしがみ付きつつ、声を上げた
『ぎんいろっ…あかいろが……っ』
《奴なら問題ない!逃げるぞ独月、今の私達ではお前を護れん!》
『あ…うぅ……』
ぴしゃりと反論を封じられ、僕は唇を噛んだ。
赤色が心配だ。意地悪な事ばかり言う奴だけど、何だかんだ僕なんかに構ってくれるのだから、きっと根は良い奴なんだ。
それなのに、あんな化物の目の前に置いて逃げるなんて。
─────あれでは、食べて下さいと言っている様なものじゃないか
─────ギャアアアアアアアア!!!
突然森中に響いたのは、身の毛のよだつ様な悲鳴だった。声は赤色のものではなく、恐らくあの化物のもの。
その声が恐ろしくて、現状から逃げ出したくて、僕は力の入らない手で駆ける銀色にしがみ付いた。
『あ……あかいろ…っ』
《案ずるな、奴はあの程度の虚では殺せん》
何が起こっているのか判らないという事が、こんなにも恐ろしいなんて知らなかった。
あの化物はどうなったのか。
赤色は怪我をしていないだろうか。
あの悲鳴は何だったのか。
ぐるぐると不安だけが心の中で増幅し、恐怖となって襲い掛かる。
今にもあの化物が目を爛々と光らせて現れるんじゃないかと思うと、怖くて。
何も見たくなくて、銀色の毛並みに顔を埋めた。
その瞬間─────獣の脚が、地から離れた
『え…』
《ぐっ……ッ》
凄まじい衝撃が身体を襲い、視界が揺れ動く。
次に身体を襲ったのは、地面に叩き付けられる痛みだった。
─────化物のあの大きな腕で銀色ごと薙ぎ払われたのだと気付いたのは、全身を痛みが駆け巡ってからだ
『う……』
あまりの痛さに涙が滲む。
こんな痛みは久々だ。お爺ちゃんとお婆ちゃんに拾われる前の事を思い出す。
あの頃は大変だったなぁと軽く現実逃避して、それからゆっくりと顔を上げた。
─────目の前に、あの化物が立っていた
『………っ』
赤色がやったのだろうか、化物の腕には深い傷が刻まれていた。傷が痛むのか荒い息を吐く異形を視野に収めつつ、辺りを見渡す。
銀色は身を起こして威嚇の体勢を取っていた。
…赤色は無事だろうか。
一人残った赤茶色の狐の身を案じた時、目の前の空間がぐにゃりと歪んだ。
現れたのは、たった今身を案じた赤色だ
『あかいろ……』
《無事か、独月》
横目で此方を見た赤色に、怪我は見当たらない。
そこで安堵の息を吐き、痛む身体をなんとか起こした。
擦りむけた肌が痛い。ひりひりする擦り傷に眉を寄せていれば、銀色が低く唸った
《独月、逃げろ。奴は私と赤色で引き付ける》
『や、やだっ…あかいろとぎんいろも、いっしょに……』
《言っただろう。今の俺達では貴様を護りきれん》
『でも…ッ』
《─────判らんか?足手纏いになると言っているのだ》
紡ごうとした言葉は、赤色の鋭い一言に潰された。
銀色は化物に注意を払ったまま、気遣わしげに此方を見ている。
けれど、普段は穏やかな銀色も、赤色の言葉に異を唱える事はなかった。
…そうだ。僕は邪魔者だ。
判っている。
今此処に僕が居る事で、二匹に負担を掛けている事も。たとえ僕が背中の刀を抜いた所で、二匹の手助けにはならないであろう事も。
震える手足を叱咤して、僕は何とか立ち上がった。
殺気を漲らせる異形を威嚇する二匹に、精一杯の感謝と激励を贈った
『…しなないで…っ』
《ふん、貴様に心配されるなど、俺も落ちたものだな》
《行け、独月。私達も直ぐに追い付く》
呆れた様に溜息を吐く赤色と、静かな瞳で此方を見る銀色。
あまりにも何時も通りの二匹に、思わず肩の力が抜けた。
大丈夫。赤色と銀色が死ぬ訳ない。
何の根拠のない安心感。
僕は視界を歪ませる涙を乱暴に拭い去り、走り出した。
走って、走って、走って、走って。
あちこちを枝や小石で切りながら、それでも走り続けた。
遠くで化物の声がする。大きくて冷たいナニカが、此方に向かってくるのを感じる。
赤色と銀色はどうなったのだろう。無事なのか。ちゃんとあいつから逃げ切れたのか。
『う、ぁ……っ!』
考え事をしていたのが仇となったのか、露出した木の根に躓いた。
剥き出しの地面に倒れ込み、強かに打ち付けた全身が痛みを主張する。
『うぅ…』
痛い。泣きたい。怖い。何で僕が。
取り留めのない言葉が頭の中を飛び交って、己の運のなさを嘆いた。
滲む涙を拭いながら、血の滲む足で立ち上がる。
そしてその瞬間─────身体が宙に投げ出された。
『─────、』
だんっ、と大きな木の幹に叩き付けられた。
そう理解出来たのは、逞しい脚が目に入ったからだ。
ずるりと崩れ落ちる僕を、長い爪の付いた手が掴み上げる。
無造作に首を掴み、ぐっと異形の顔の前まで持ち上げられた。
頭ががんがんする。
ぼやける視界に映る仮面の化物は、心底嬉しそうにその目を光らせていた。
『…………っ』
ぎりぎりと首に鋭い爪が食い込む。
ぶつりと皮膚の裂ける嫌な音と共に新たな痛みが上書きされて、意味もなく呻いた。
がりがりと化物の手に爪を立てる。だが貧弱な上に、意識の遠退き掛けている現状では、その行為は草食動物のちっぽけな抵抗と変わらなかった。
『………』
どんどん身体から力が抜けていく。
息が苦しい。
頭は割れそうな程痛くて、まるで頭全体が心臓になったみたいに、どくどくと脈打つ。
耳鳴りがする。吐き気もする。視界が端から黒く塗り潰されていく
『……………ごめ、ん…』
息も絶え絶えの中、空気か声かも判らない声量で紡いだのは、謝罪だった。
赤色、銀色、折角逃がしてくれたのに、逃げ切れなくてごめん。
お爺ちゃん、お婆ちゃん、拾ってくれたのにろくに恩を返せなくて、ごめん。
最後まで抗っていた手が、落ちる。
ゆっくりと狭まっていく視界を閉ざそうとして─────
「─────破道の三十三・蒼火墜!!!」
目の前が、一気に蒼く染まった。
地面に転がった僕。悲鳴を上げる化物。化物に巻き付く、蒼い炎。
何が起きたかなんて、当然理解出来なかった。ただ今まで締め上げられていた気道が解放されて、雪崩れ込む空気に噎せる。
第三者の介入を認識したのは、呼吸が安定してからだった
『……………?』
気付けば目の前に青い着物の男の人が立っていた。
ひゅうひゅうと可笑しな呼吸を繰り返しながら無言で見上げる僕に、その人は肩越しに振り向いた。
「良し、生きてるな?なら今の内に逃げるぞ」
『え……』
身体に力の入らない僕の前で、男の人はしゃがみ込んだ。此方に手を伸ばしてきたかと思えば、ぐっと身体が引き上げられる。
『…………え?』
そのまま僕を抱き上げ走り出したその人に、僕は混乱した。
何で僕を抱えて走る?
そもそも何で僕を助けた?
浮かんだのは純粋な疑問であり、恐怖である。
何故助けるのかが理解出来ない。判らないものは、恐ろしい。
先程痛い程思い知った教訓が、正しくこの人に当て嵌まる。
怖い、怖い、怖い。
赤色と銀色は、何処だろう。
身を強張らせる僕に気付いたのか、男の人が視線を此方に向けた
「安心しろ、お前を虚に喰わせたりしねぇよ」
『………』
ほろうって何だ。
それと、思っていたよりずっと目付きが悪い。
いや、僕が見てきた中で飛び抜けて綺麗な顔だけど、目が凶器だ。尖り過ぎて刺さりそう。
抱えて走って貰っているだけで余裕が出てきたのか、そんな下らない事まで思い浮かんだ。
森を駆ける彼の後ろから、木々を薙ぎ倒す様な音がする。
その音に首を竦める僕に、男の人は微笑んだ
「絶対にお前を護る。だから、安心しろ」
『ぁ……』
─────何でそんな風に笑えるんだろう。
その目は怖がっている目だ。
何度も見た事がある、今まで僕が向けられてきた目だ。
それなのに、何故立ち向かおうとしているのか
「…此処でじっとしててくれ。俺が良いって言うまで出てくるなよ」
男の人は足を止め、僕を大きな木の影に隠した。
そのまま立ち上がり、来た道を引き返そうとする彼の袖を慌てて掴む。
振り向いた彼に、僕は全力で首を横に振った
「……お前、話せないのか?」
『……だめ…ばけもの、くる…』
話せないのではなく、口下手だから話したくないのだ。
何故か心配そうな顔をされてしまったので仕方無く声を出せば、彼は安堵した様に目許を和らげた
「ああ、話せるのか。…あれは虚って言ってな、魂魄を喰う化物だ。奴はきっと倒さねぇと逃げ切れねぇ。
…あいつは俺が引き付ける。その間にお前は逃げろ、良いな?」
倒す、なんて。
あんな化物を倒せる筈がない。
だって赤色と銀色も奴を倒せなかった。そんな奴に、人が敵う筈がない。
何が目的かは知らないが、彼が死ぬのも見たくはない。
「…斬魄刀、借りるぞ」
不意に彼の手が僕の背負う刀に伸びた。
ざんぱくとうと言うらしい刀を鞘から引き抜いて、男の人はそれを構えた。
『だめ……あいつ、危ない、から…っ』
「判ってるよ。けど」
─────生きてぇなら、戦わねぇと。
そう言って微笑んだその人は、僕の頭を一度撫でた。
そしてその手でそっと、袖を掴む僕の手を剥がす。
静かに立ち上がり、彼は化物の居る方角に足を向けた。
歩き始めた彼が振り向く事はなく、その歩幅が狂う事もない。
「此方だ、魚モドキ!」
彼は大きな声を出して異形の注意を引くと、そのまま森の奥へと走り出してしまった。
化物はおぞましい声を上げながら、青い背を追い掛ける。
のしのしと大きな足音が完全に聞こえなくなると、そこで漸く状況がじわじわと理解出来る様になってきた。
─────彼は、今の内に逃げろと言った。
遠くから微かに、何かが爆発する様な音がする。
金属を叩き付ける様な音もする。
音は遠い。きっと彼は此処から遠ざかろうとしている。
…そうだ、今なら逃げられる。
此処で逃げれば、きっと生き延びられる。
静かに山を抜ける道を見つめ、唾を飲む。ゆっくりと、酷く重い身体を持ち上げようとして、一つの言葉が動きを止めた
─────本当に、良いの?
あの人は僕を助ける為に、一人で異形に立ち向かった。
そんな人を置いて逃げて良いの?でもあの人の許に行っても、僕なんかじゃ何の役にも立ちやしない。
だからと言って、あの人を置いて逃げるのは…
逡巡する間にも時間は過ぎていく。
どうする?
どうしよう?
どうしたい?
何が最善?
それで良いの?
………本当に?
何度も何度も考えて、悩んで、そして僕が出した答えは─────
『っ………おにいさん…!!』
藪を突っ切る際に身体は傷だらけになる。それでも痛みなどに気を割いている余裕などなかった。
もしかしたら、間に合わないかも知れない。今この時、あの人は死んでしまうかも知れない。
勿論僕が行った所で何か出来る訳じゃない。
それでも、一人で逃げるなんて出来なかった。
僕の為に誰かが死ぬなんて嫌だ。死ぬのなら、僕が死ねば良いと思う。
たとえ─────これが、偽善でも。
『…っはぁ、はぁ…』
木の根に足を取られながら駆け、やがて鬱蒼とした景色が拓けた。
彼は大分離れた場所まで化物を誘導していたらしい。それなりの距離を走った所為で、喉がヒリヒリする。
軽く噎せつつ前を見た僕の目に映ったのは─────
「ぐっ…!」
木の幹に叩き付けられた、男の人だった。
骨が折れたんじゃないかと思う程の凄まじい音に、さっと血の気が引く音が聞こえた気がした。
『おにいさん…!』
慌てて駆け寄れば、男の人はぎょっとした様に目を見開いた。
それはそうだろう、僕は彼の行動を無駄にしたのだから。
「お前、何で戻ってきた!!」
怒鳴られて、思わず首を竦める。けれど唇は、怖じ気づかずに責を果たした
『っ……にげる、のは…ちがう』
「は…?」
理解出来ないと言わんばかりに眉を潜めるお兄さんに答えず、僕は手を伸ばした。
握るのは、彼の手に貸し出されていた藤凍月。
水色の柄の刀を握り、僕は目を見張る男の人に笑みを向けた。
『……ぼくは、護ってもらえるような…にんげんじゃ、ない』
「え…?」
『……おにいさん、逃げて』
最後にそれだけを告げて、僕は一歩踏み出した。
化物は襲い掛かってくる訳でもなく、笑む様に黄色い眼光を弓形にして此方を見ている。
「逃げろ!戻ってこい!」
男の人が慌てて立ち上がる音がする。
その声に、僕は振り向かない
《良いのか?》
《貴様、このまま行けば死ぬぞ》
ちき、と刀が手の中で音を立てた。
銀色と赤色の問いに、僕は掌に力を込める事で答える。
本当は凄く怖い。今直ぐにでも此処から逃げ出したい。
でもそうすれば、きっとあの人は死んでしまう。
僕なんかを逃がそうとして、化物に向かっていくんだろう。
それでは駄目だ、僕は、誰かを犠牲にしてまで生きたくはない。
「止めろ!頼む、逃げてくれ…!」
今まで沢山の人を傷付けてきた。お爺ちゃんとお婆ちゃんに出会うまで、僕はヒトの形をした獣だった。
でもそんな僕でも、きっと今なら人の役に立てる。
この命も、無駄になる事はない
「止めろ…止めろおおおおおおおお!!!」
怖いのに、怖くない。
それはきっと、あの人が僕なんかの為に叫んでくれているからだ。
ぐっと、足に力を込める。
迷いはない。未練はあれど、躊躇はしない。
浅く息を吐く。そして全力で、異形の獣に飛び掛かった
『やあああああああああああっ!!』
ありがとう、名前も知らない親切な人。
僕は初めて、誰かの為に刀を振るった。
─────グオオオオオオオオオオ!!!
咆哮。列泊。衝突。
そして─────鮮血が、宙を舞った。
愛を知らぬ獣
下から数えた方が早い地区。そんな場所で、人の心が豊かな筈がない。
お金なんて勿論持ってなくて、飲み水を強欲商人から奪い取ったり、顔も知らない人から食べ物を盗んだり…取り敢えず、生きる為なら何だってした。
今なら判る。あの時の僕は、人の形をした獣だったのだろうと
《──────我等の名は藤凍月》
ある日、夢で銀色の狐と赤茶色の狐と話をした。
奇妙な夢だと思いつつ目が覚めると、僕の手には水色の鞘と柄の日本刀。理由は判らない。
けれど、これはあの狐達だと直感で判断した。
そして悟った
─────僕は、力を得たのだ、と
その時から手にした刀で、人も沢山傷付けた。生きる為には仕方がない。そう割り切って、刀を振るった。何度も何度も、人に向けて振るった。
当時、良心の呵責なんて無かった。
獣同然であった僕が、誰かを慮る事なんて勿論ない。
そしてそんな獣の思考に、少なからず浮かぶ筈の疑念も沸きやしない
魂魄は、本来なら食欲から解放されている存在だ。
けれど、この時僕は、空腹になる事を疑問視した事はなかった。
刀を持つという意味を、知ろうともしなかった
暫くして流れ着いた別の地区で、ある老夫婦に拾われた。
その二人に、無闇に人を傷付けない事を約束させられた。
──────どうでも良い。
二人と約束した時、胸を過ったのはそんな言葉だった。
そもそも奴等が生きる事を邪魔するから、僕は斬っていたのだ。刀を振らずとも生きられるのなら、それで良い。
その方が体力も温存出来て、楽だし。
…その頃の僕には、人らしさというものはあまりなかった。
あの地区で必要だったのは情けや人間味ではなく、飢えを凌ぐ為の力だったから。
力こそが全て。心は判断を狂わせる、命を危険に晒す邪魔なものだと。そう、考えていた。
やはり僕は、獣だったのだ
故に、僕は無知でもあった。
虚の事も死神の事も斬魄刀も……何故魂魄であるこの身が空腹を覚えるのかも、知らなかった。
否─────知ろうともしなかった。
ある日僕は、流魂街から少し離れた森に向かっていた。目的は薬草。傷に効く薬草の生息地が、近くにはこの森の他にないからだ。
お爺ちゃんとお婆ちゃんには少々大変な道の為、僕が薬草摘みの係を担っている。
『よいしょ』
空っぽの籠を背負い、すたすたと進むのは鬱蒼とした緑の道。どうやら此処は薬草の宝庫の様で、様々な効能のある植物が生息していた。
その所為で月に一回は必ずこの森を訪れていて、獣道ばかりの道筋も、今ではしっかり頭に叩き込まれてしまった。
足早に進みつつ、季節毎に姿を変える緑を楽しむ。昔はこんな事、思いもしなかった。
『…食べられないものには、目も向けなかったな』
お爺ちゃんとお婆ちゃんに拾われて、人らしくなってきた様だと自嘲する。
軈て細い一本道の先が拓け、木漏れ日の射す空間に出た。美しい光景に目を細め、それから早速お目当てのものを見付ける。
それを手早く籠に放り込み、胃痛や炎症に効く薬草も掴み取った。
似た見た目でも猛毒のものもあるから、しっかりと観察して摘み取る。もし迷ったら、それは放置だ。
無闇に自信を持って二人に毒を盛るなんて、目も当てられない。
恩を仇で返すなんて、本意ではないのだ。
『ふぅ………』
暫く経ってから、座り込んで作業していた手を止めた。そしてこんもりと籠の中に積まれた薬草を見る。
取り敢えず沢山摘んだ。
『…こんだけあれば…大丈夫、でしょ…』
立ち上がり、ぐっと伸びをする。長らく同じ姿勢で固められていた節々が鈍い音を立てたが、凝り固まった筋肉が伸びて気持ち良い。
十分に伸びをして、それから僕は空を見た。そこにあるのは夕焼け空。日は既に沈みかけている。
…あれ、僕が此処に来たの真っ昼間だったんだけど。少々夢中になり過ぎたかと頭を掻いて、僕は籠に手を伸ばした。
二人を心配させたくないし、早く帰ろう。
そう考え、籠を持ち上げた、その時
─────────オオオオオオオオ!!
『っ!!』
びりびりと空気を震わせて、何かが森に響いた。
今まで生きてきた中で一度も聞いた事のない音は、それでも人の本能を揺さぶるには十分なものだった。
初めて耳にした音に、腰が抜ける。
ぺたんと籠を背負ったまま座り込んだ僕の背後で、再びそれは空を揺らした
────────オオオオオオオオ!!
かたかたと脚が震えている。
理解、してしまった。
─────これは、声だ。雄叫びだ。
獲物を見付けたと咆哮する獣の声だ。
『、』
背後で声を上げる獣が何を指して吼えているかなんて、判りきっていた。
僕は首を捻り─────佇む獣を目に映す
『…………っ』
それは一言で言ってしまえば、異形だった。
二本足で立つ、魚の頭蓋骨を持った薄緑の化物。鱗を纏った尾は長く、蜥蜴のそれにも似て見えた。
そんな動物を組み合わせたかの様な異形は、ぽっかりと空いた眼窩の向こうから、黄色い目を爛々と光らせてみせた
『……化け…もの………』
酷く掠れた自分の声が、遠く聞こえる。
見開いた目は、異形から外す事も出来なくなった。
─────目を逸らせば、死ぬ。
強迫観念にも似た焦燥に従い、目は決して逸らさない。たとえ身体が震えていようと、手足に力が入らなくても、それだけは絶対に止めないと決めた。
冷や汗が頬を伝う。
一歩、異形が恐竜の様に鋭い爪の付いた足を前に進めた。
手足だけじゃなく、胸までさあっと冷たくなる様な、嫌な感覚。
空気が上から押し潰してくるかの様に、重く感じる。
動けない。でも、目を逸らすのだけは絶対に駄目だ。
冷えきった手足を投げ出し精一杯睨む僕を、異形は蔑む様に、頭蓋骨の奥で黄色い目を細めた。
ひたすらに化物を睨み付けたまま、震える手を使い、後退ろうとする。
だが力の入らない手は草の上を引っ掻くだけで、意味なんて成さなかった。
『っ…!』
ぐわり、と異形が大きな口を開けた。
そこには肉食獣の様に尖った歯がずらりと並んでいて、白いエナメルの表面を唾液がてらてらと伝う。
ぶわりと総毛立ち、全身の毛穴から汗が噴き出した様な嫌な感覚に、僕の視界は涙で滲んだ。
『っあかいろ、ぎんいろ…!!』
口から飛び出したのは、頼れる双狐の名。
二匹は僕の前に現れたかと思うと、銀色が僕の襟を咥え駆け出した。
見る間に遠ざかる化物と、赤茶色の狐。
僕は震える手でなんとか銀の毛並みにしがみ付きつつ、声を上げた
『ぎんいろっ…あかいろが……っ』
《奴なら問題ない!逃げるぞ独月、今の私達ではお前を護れん!》
『あ…うぅ……』
ぴしゃりと反論を封じられ、僕は唇を噛んだ。
赤色が心配だ。意地悪な事ばかり言う奴だけど、何だかんだ僕なんかに構ってくれるのだから、きっと根は良い奴なんだ。
それなのに、あんな化物の目の前に置いて逃げるなんて。
─────あれでは、食べて下さいと言っている様なものじゃないか
─────ギャアアアアアアアア!!!
突然森中に響いたのは、身の毛のよだつ様な悲鳴だった。声は赤色のものではなく、恐らくあの化物のもの。
その声が恐ろしくて、現状から逃げ出したくて、僕は力の入らない手で駆ける銀色にしがみ付いた。
『あ……あかいろ…っ』
《案ずるな、奴はあの程度の虚では殺せん》
何が起こっているのか判らないという事が、こんなにも恐ろしいなんて知らなかった。
あの化物はどうなったのか。
赤色は怪我をしていないだろうか。
あの悲鳴は何だったのか。
ぐるぐると不安だけが心の中で増幅し、恐怖となって襲い掛かる。
今にもあの化物が目を爛々と光らせて現れるんじゃないかと思うと、怖くて。
何も見たくなくて、銀色の毛並みに顔を埋めた。
その瞬間─────獣の脚が、地から離れた
『え…』
《ぐっ……ッ》
凄まじい衝撃が身体を襲い、視界が揺れ動く。
次に身体を襲ったのは、地面に叩き付けられる痛みだった。
─────化物のあの大きな腕で銀色ごと薙ぎ払われたのだと気付いたのは、全身を痛みが駆け巡ってからだ
『う……』
あまりの痛さに涙が滲む。
こんな痛みは久々だ。お爺ちゃんとお婆ちゃんに拾われる前の事を思い出す。
あの頃は大変だったなぁと軽く現実逃避して、それからゆっくりと顔を上げた。
─────目の前に、あの化物が立っていた
『………っ』
赤色がやったのだろうか、化物の腕には深い傷が刻まれていた。傷が痛むのか荒い息を吐く異形を視野に収めつつ、辺りを見渡す。
銀色は身を起こして威嚇の体勢を取っていた。
…赤色は無事だろうか。
一人残った赤茶色の狐の身を案じた時、目の前の空間がぐにゃりと歪んだ。
現れたのは、たった今身を案じた赤色だ
『あかいろ……』
《無事か、独月》
横目で此方を見た赤色に、怪我は見当たらない。
そこで安堵の息を吐き、痛む身体をなんとか起こした。
擦りむけた肌が痛い。ひりひりする擦り傷に眉を寄せていれば、銀色が低く唸った
《独月、逃げろ。奴は私と赤色で引き付ける》
『や、やだっ…あかいろとぎんいろも、いっしょに……』
《言っただろう。今の俺達では貴様を護りきれん》
『でも…ッ』
《─────判らんか?足手纏いになると言っているのだ》
紡ごうとした言葉は、赤色の鋭い一言に潰された。
銀色は化物に注意を払ったまま、気遣わしげに此方を見ている。
けれど、普段は穏やかな銀色も、赤色の言葉に異を唱える事はなかった。
…そうだ。僕は邪魔者だ。
判っている。
今此処に僕が居る事で、二匹に負担を掛けている事も。たとえ僕が背中の刀を抜いた所で、二匹の手助けにはならないであろう事も。
震える手足を叱咤して、僕は何とか立ち上がった。
殺気を漲らせる異形を威嚇する二匹に、精一杯の感謝と激励を贈った
『…しなないで…っ』
《ふん、貴様に心配されるなど、俺も落ちたものだな》
《行け、独月。私達も直ぐに追い付く》
呆れた様に溜息を吐く赤色と、静かな瞳で此方を見る銀色。
あまりにも何時も通りの二匹に、思わず肩の力が抜けた。
大丈夫。赤色と銀色が死ぬ訳ない。
何の根拠のない安心感。
僕は視界を歪ませる涙を乱暴に拭い去り、走り出した。
走って、走って、走って、走って。
あちこちを枝や小石で切りながら、それでも走り続けた。
遠くで化物の声がする。大きくて冷たいナニカが、此方に向かってくるのを感じる。
赤色と銀色はどうなったのだろう。無事なのか。ちゃんとあいつから逃げ切れたのか。
『う、ぁ……っ!』
考え事をしていたのが仇となったのか、露出した木の根に躓いた。
剥き出しの地面に倒れ込み、強かに打ち付けた全身が痛みを主張する。
『うぅ…』
痛い。泣きたい。怖い。何で僕が。
取り留めのない言葉が頭の中を飛び交って、己の運のなさを嘆いた。
滲む涙を拭いながら、血の滲む足で立ち上がる。
そしてその瞬間─────身体が宙に投げ出された。
『─────、』
だんっ、と大きな木の幹に叩き付けられた。
そう理解出来たのは、逞しい脚が目に入ったからだ。
ずるりと崩れ落ちる僕を、長い爪の付いた手が掴み上げる。
無造作に首を掴み、ぐっと異形の顔の前まで持ち上げられた。
頭ががんがんする。
ぼやける視界に映る仮面の化物は、心底嬉しそうにその目を光らせていた。
『…………っ』
ぎりぎりと首に鋭い爪が食い込む。
ぶつりと皮膚の裂ける嫌な音と共に新たな痛みが上書きされて、意味もなく呻いた。
がりがりと化物の手に爪を立てる。だが貧弱な上に、意識の遠退き掛けている現状では、その行為は草食動物のちっぽけな抵抗と変わらなかった。
『………』
どんどん身体から力が抜けていく。
息が苦しい。
頭は割れそうな程痛くて、まるで頭全体が心臓になったみたいに、どくどくと脈打つ。
耳鳴りがする。吐き気もする。視界が端から黒く塗り潰されていく
『……………ごめ、ん…』
息も絶え絶えの中、空気か声かも判らない声量で紡いだのは、謝罪だった。
赤色、銀色、折角逃がしてくれたのに、逃げ切れなくてごめん。
お爺ちゃん、お婆ちゃん、拾ってくれたのにろくに恩を返せなくて、ごめん。
最後まで抗っていた手が、落ちる。
ゆっくりと狭まっていく視界を閉ざそうとして─────
「─────破道の三十三・蒼火墜!!!」
目の前が、一気に蒼く染まった。
地面に転がった僕。悲鳴を上げる化物。化物に巻き付く、蒼い炎。
何が起きたかなんて、当然理解出来なかった。ただ今まで締め上げられていた気道が解放されて、雪崩れ込む空気に噎せる。
第三者の介入を認識したのは、呼吸が安定してからだった
『……………?』
気付けば目の前に青い着物の男の人が立っていた。
ひゅうひゅうと可笑しな呼吸を繰り返しながら無言で見上げる僕に、その人は肩越しに振り向いた。
「良し、生きてるな?なら今の内に逃げるぞ」
『え……』
身体に力の入らない僕の前で、男の人はしゃがみ込んだ。此方に手を伸ばしてきたかと思えば、ぐっと身体が引き上げられる。
『…………え?』
そのまま僕を抱き上げ走り出したその人に、僕は混乱した。
何で僕を抱えて走る?
そもそも何で僕を助けた?
浮かんだのは純粋な疑問であり、恐怖である。
何故助けるのかが理解出来ない。判らないものは、恐ろしい。
先程痛い程思い知った教訓が、正しくこの人に当て嵌まる。
怖い、怖い、怖い。
赤色と銀色は、何処だろう。
身を強張らせる僕に気付いたのか、男の人が視線を此方に向けた
「安心しろ、お前を虚に喰わせたりしねぇよ」
『………』
ほろうって何だ。
それと、思っていたよりずっと目付きが悪い。
いや、僕が見てきた中で飛び抜けて綺麗な顔だけど、目が凶器だ。尖り過ぎて刺さりそう。
抱えて走って貰っているだけで余裕が出てきたのか、そんな下らない事まで思い浮かんだ。
森を駆ける彼の後ろから、木々を薙ぎ倒す様な音がする。
その音に首を竦める僕に、男の人は微笑んだ
「絶対にお前を護る。だから、安心しろ」
『ぁ……』
─────何でそんな風に笑えるんだろう。
その目は怖がっている目だ。
何度も見た事がある、今まで僕が向けられてきた目だ。
それなのに、何故立ち向かおうとしているのか
「…此処でじっとしててくれ。俺が良いって言うまで出てくるなよ」
男の人は足を止め、僕を大きな木の影に隠した。
そのまま立ち上がり、来た道を引き返そうとする彼の袖を慌てて掴む。
振り向いた彼に、僕は全力で首を横に振った
「……お前、話せないのか?」
『……だめ…ばけもの、くる…』
話せないのではなく、口下手だから話したくないのだ。
何故か心配そうな顔をされてしまったので仕方無く声を出せば、彼は安堵した様に目許を和らげた
「ああ、話せるのか。…あれは虚って言ってな、魂魄を喰う化物だ。奴はきっと倒さねぇと逃げ切れねぇ。
…あいつは俺が引き付ける。その間にお前は逃げろ、良いな?」
倒す、なんて。
あんな化物を倒せる筈がない。
だって赤色と銀色も奴を倒せなかった。そんな奴に、人が敵う筈がない。
何が目的かは知らないが、彼が死ぬのも見たくはない。
「…斬魄刀、借りるぞ」
不意に彼の手が僕の背負う刀に伸びた。
ざんぱくとうと言うらしい刀を鞘から引き抜いて、男の人はそれを構えた。
『だめ……あいつ、危ない、から…っ』
「判ってるよ。けど」
─────生きてぇなら、戦わねぇと。
そう言って微笑んだその人は、僕の頭を一度撫でた。
そしてその手でそっと、袖を掴む僕の手を剥がす。
静かに立ち上がり、彼は化物の居る方角に足を向けた。
歩き始めた彼が振り向く事はなく、その歩幅が狂う事もない。
「此方だ、魚モドキ!」
彼は大きな声を出して異形の注意を引くと、そのまま森の奥へと走り出してしまった。
化物はおぞましい声を上げながら、青い背を追い掛ける。
のしのしと大きな足音が完全に聞こえなくなると、そこで漸く状況がじわじわと理解出来る様になってきた。
─────彼は、今の内に逃げろと言った。
遠くから微かに、何かが爆発する様な音がする。
金属を叩き付ける様な音もする。
音は遠い。きっと彼は此処から遠ざかろうとしている。
…そうだ、今なら逃げられる。
此処で逃げれば、きっと生き延びられる。
静かに山を抜ける道を見つめ、唾を飲む。ゆっくりと、酷く重い身体を持ち上げようとして、一つの言葉が動きを止めた
─────本当に、良いの?
あの人は僕を助ける為に、一人で異形に立ち向かった。
そんな人を置いて逃げて良いの?でもあの人の許に行っても、僕なんかじゃ何の役にも立ちやしない。
だからと言って、あの人を置いて逃げるのは…
逡巡する間にも時間は過ぎていく。
どうする?
どうしよう?
どうしたい?
何が最善?
それで良いの?
………本当に?
何度も何度も考えて、悩んで、そして僕が出した答えは─────
『っ………おにいさん…!!』
藪を突っ切る際に身体は傷だらけになる。それでも痛みなどに気を割いている余裕などなかった。
もしかしたら、間に合わないかも知れない。今この時、あの人は死んでしまうかも知れない。
勿論僕が行った所で何か出来る訳じゃない。
それでも、一人で逃げるなんて出来なかった。
僕の為に誰かが死ぬなんて嫌だ。死ぬのなら、僕が死ねば良いと思う。
たとえ─────これが、偽善でも。
『…っはぁ、はぁ…』
木の根に足を取られながら駆け、やがて鬱蒼とした景色が拓けた。
彼は大分離れた場所まで化物を誘導していたらしい。それなりの距離を走った所為で、喉がヒリヒリする。
軽く噎せつつ前を見た僕の目に映ったのは─────
「ぐっ…!」
木の幹に叩き付けられた、男の人だった。
骨が折れたんじゃないかと思う程の凄まじい音に、さっと血の気が引く音が聞こえた気がした。
『おにいさん…!』
慌てて駆け寄れば、男の人はぎょっとした様に目を見開いた。
それはそうだろう、僕は彼の行動を無駄にしたのだから。
「お前、何で戻ってきた!!」
怒鳴られて、思わず首を竦める。けれど唇は、怖じ気づかずに責を果たした
『っ……にげる、のは…ちがう』
「は…?」
理解出来ないと言わんばかりに眉を潜めるお兄さんに答えず、僕は手を伸ばした。
握るのは、彼の手に貸し出されていた藤凍月。
水色の柄の刀を握り、僕は目を見張る男の人に笑みを向けた。
『……ぼくは、護ってもらえるような…にんげんじゃ、ない』
「え…?」
『……おにいさん、逃げて』
最後にそれだけを告げて、僕は一歩踏み出した。
化物は襲い掛かってくる訳でもなく、笑む様に黄色い眼光を弓形にして此方を見ている。
「逃げろ!戻ってこい!」
男の人が慌てて立ち上がる音がする。
その声に、僕は振り向かない
《良いのか?》
《貴様、このまま行けば死ぬぞ》
ちき、と刀が手の中で音を立てた。
銀色と赤色の問いに、僕は掌に力を込める事で答える。
本当は凄く怖い。今直ぐにでも此処から逃げ出したい。
でもそうすれば、きっとあの人は死んでしまう。
僕なんかを逃がそうとして、化物に向かっていくんだろう。
それでは駄目だ、僕は、誰かを犠牲にしてまで生きたくはない。
「止めろ!頼む、逃げてくれ…!」
今まで沢山の人を傷付けてきた。お爺ちゃんとお婆ちゃんに出会うまで、僕はヒトの形をした獣だった。
でもそんな僕でも、きっと今なら人の役に立てる。
この命も、無駄になる事はない
「止めろ…止めろおおおおおおおお!!!」
怖いのに、怖くない。
それはきっと、あの人が僕なんかの為に叫んでくれているからだ。
ぐっと、足に力を込める。
迷いはない。未練はあれど、躊躇はしない。
浅く息を吐く。そして全力で、異形の獣に飛び掛かった
『やあああああああああああっ!!』
ありがとう、名前も知らない親切な人。
僕は初めて、誰かの為に刀を振るった。
─────グオオオオオオオオオオ!!!
咆哮。列泊。衝突。
そして─────鮮血が、宙を舞った。
愛を知らぬ獣