然れど進まず

とん、とん、とん。


優しい震動が全身を通過する。
一定の間隔でもたらされるそれに、目を開けず微睡む僕はまた眠くなる。
何だか暖かいし、もう一度眠りたい。
ふわふわして、融けていく…


…あれ、そういえば僕は何時の間に眠ったんだろう。


意識を手離しかけた所で一つの疑問が浮かんだ。
そうだ、僕は確か山に薬草を摘みに行って、気付いたら日が暮れてて……異形の獣に、会った。
そこで急速に微睡んでいた意識が覚醒する。


あの化物は?


白い仮面の様な顔の異形の事を思い出し、僕はがばっと身を起こした。
同時に、その反動で身体がぐらりと後ろに傾く


「うおっ!?」


突然聞こえてきたのは低い声だった。
誰だ、とか何処かで聞いた様な、とか考えている間に、身体を嫌な浮遊感が襲う。
目が捉えるのは星の瞬く空。それが、どんどん遠くなる


─────倒れる。


何も判らないままそう判断し、ぎゅっと目を瞑る。
衝撃に備えた瞬間、背中に勢い良く何かがぶつかった


『!?』


だんっと前に押され、身体は力に従い動く。
つんのめった僕の身体がこれまた何かに勢い良くぶつかり、そこで止まった。というか、挟まれた。
落下はしなかった様だが、痛い。驚きに目を丸くして硬直する僕を、低い声が怒鳴った


「…っぶねぇな馬鹿野郎!怪我増やしてぇのかてめぇは!!!」


『!?……っ!!?』


え、何?誰?怖いんだけど誰!?
意味が判らず、また怒鳴る声が恐ろしく、瞬く間に目の前が滲んだ。
ぽろりと目から零れ落ちたものが何か気付いた時、思ったより近くで振り返ったその人が、切れ長の目を見開いた。
……思い出した。この人、あの化物から僕を助けようとしてくれた人だ。


「…あー…済まん。急に怒鳴っちまって」


『ぇ、あ……』


何で居るの。
疑問はその一言に尽きる。
今更だが、僕は彼に背負われている様だ。背中に感じる大きなものはお兄さんの手だった様で、どうやら彼は、僕の背を叩いて落下を防いだ様だった。


「背中、痛くねぇか?つい強く叩いちまった」


『……だい、じょうぶ……です』


「いや、涙目じゃ説得力ねぇんだけど」


苦笑したお兄さんは僕を背負い直し、ゆっくりと歩き始めた。
僕は目許を拭い、その手にずきりとした痛みが走った事に目を瞬かせた。
見れば左手には血の滲んだ包帯が巻いてあった。意識した途端に痛みが主張を始め、顔を顰めた。
腕には小さな擦り傷が沢山出来ていた。左だけじゃない、右手もだ。包帯が巻かれているのが、着物の裾からちらりと見えた。
傷からは、微かに薬草の匂いがする。
…もしかしなくても、この人は僕なんかの手当をしてくれたんだろうか


「腕はどうだ?痛みは?」


『……へいき、です』


「そうか。取り敢えず山は降りたが、お前何処から来た?」


『……あっち、です』


「敬語は要らねぇ。彼方って事は、潤林安の近くか…って、そういや名乗ってなかったな」


はっとして指差せば、彼は小さく笑い声を溢した。
その声に僕はすっと目を眇めた。


何故、この人は僕を助けたんだろう。


あの時僕を見捨てて逃げれば良かったのだ。化物を前に情けなく震える子供なんて、見なかった事にして山を降りれば。
ちらりと包帯が覗く彼の首許を見る。
そうすれば、彼は怪我なんてしなくて済んだ筈だ。怖い思いもしなくて済んだ筈なのだ。


「俺は檜佐木修兵。お前は?」


『………桜花、独月』


─────理解出来ない。
僕なんかに笑顔で名乗るこの人が。
理解出来ないものは恐ろしい。そんな事、本当はとっくの昔に知っていた。
……そうじゃなきゃ、背中の刀は血を浴びてなんかない


『…………降ろして、ください』


「あ?目ぇ覚めたばっかの怪我人を歩かせられるかよ。此処結構険しいの、知ってるだろ?」


怪訝そうな声を返されて、眉を寄せる。
そんな事は勿論知っている。小石や岩が所々に転がっている、まだ目が覚めたばかりの僕では歩くのは大変だろうという事も。
けれど今はこの人から早く離れたかった。
一刻も早く、理解出来ない恐ろしいものから離れたかった。


『……もう…あるける』


「だから…」


『降ろして。はやく』


口から出たのは、思っていたよりもずっと感情の籠らない声だった。
ぴたりと止まった彼…檜佐木さんから素早く飛び降りる。…着地の衝撃で左腕に叫びたくなる様な痛みが走ったが、耐える。
右手で背負った藤凍月の柄を撫で、それから目を丸くする檜佐木さんに頭を下げた


『……たすけて、くれて…ありがとう……ござい、ました』


理解出来ない貴方は怖い。だからもう、今直ぐ逃げ出したい。
最低限の礼だけを伝えて、僕は身体の向きを変える。
一気に走って、そのまま家に帰ろう。流石に追い掛けては来ないだろうから。
駆け出そうとした、その瞬間─────頭を、がしっと何かが捕まえた


『……………え』


……いや、何だこれ。
必死にそれを引き剥がそうとするが、外せない。
というか更に力が込もって痛い痛い痛い…


「霊圧上げて威嚇するわ勝手に飛び降りるわ走って逃げようとしやがるわ、てめーは野良猫か」


恐ろしくドスの効いた声がして思わず肩が跳ねた。
未だがしっと頭を捕まえるそれは、僕の頭をしっかりと掴んでいる。
…認めたくない。認めたくないが、檜佐木さんの手が僕の頭を鷲掴んでいるというのが現状だった


「ったく、強がってんじゃねぇ。腕痛ぇんだろ」


『うぁ…!?』


ぱっと頭を解放されたかと思えば、今度は身体を浮遊感が襲う。
先程よりも地面が近くて、腰に何かが巻き付いている体勢。…つまり檜佐木さんに小脇に抱えられてしまった


『は、なせ…!』


「暴れんな、傷開くぞ。安心しろ、ちゃんと家に届けてやっから」


頼んでない。依頼したいのはあんた自身の撤収だ。
ばたばたと全力で手足を振り回し、抵抗の意思を示す。だがこの変人は僕の意見に耳を貸す気はないらしい。


「さて行くぞ。家はこのまま真っ直ぐだな?」


『自分でかえる…!』


「へーへー可愛くねぇガキだな。黙って運ばれてろ」


意味が判らない。こいつ頭可笑しい。お爺ちゃんお婆ちゃん助けて!
何故か僕を送り届ける気満々の変人に、僕は抵抗し続けた。













「よぉ、野良猫娘」


『……げ』


あれから数日、潤林安で奴に遭遇した。
長めの黒髪に鋭い目付き、頬の刺青に低い声。
良く判らない人間、檜佐木修兵だ


「買い物か?」


『………ん』


じりじりと後退しつつ、小さく頷く。
今日はついてない。買い物に行かなくてはならないし、この変人にも出会ってしまった。
こうなったら走って逃げてしまおうか。ちらりと周囲に視線を向けた時、がしりと手首を掴まれた。


「良し、じゃあ行くか」


『え…』


引き攣った声が出てしまったのは仕方がない。
大きな手は僕の手首をすっぽりと覆ってしまっているし、何よりこの温もりが落ち着かない。
お爺ちゃんとお婆ちゃんとは違う、体温。


『………………』


何故この人は僕に触れるのか。
周りの奴等は決して僕に触れようとしなかった。触れたとしても、拳か足。お爺ちゃんとお婆ちゃん以外に、こんな風に触れてきた人は居なかった。


「お琴さんに何頼まれたんだ?」


『………お米と…醤油』


「ふぅん。怪我人には重いだろ、手伝ってやるよ」


いえ、結構です。
そう言いたくとも手が振り解けない。ずるずると引き摺られる様にして連行されるのは、酷く不愉快である。
引き摺られて歩く途中、此方を見ている男の人二人と目が合った。
彼等は檜佐木さんを見て、それから引き摺られる僕に目を丸くする。互いに顔を見合わせてから、そそくさと奥に引っ込んでいった。


『………』


そうだ、これが僕への反応だ。
此方が何もしていなくても、勝手に周りは僕を避ける。僕を避け、遠巻きにして、こそこそと隠れて噂を流す。
…気に入らないのならば、近付かなければ良いのに。
そう思いながら足許に目を向けると、くん、と手を引かれた。


「なぁ、独月。お前ちゃんと飯食ってるか?」


『………ん』


さらっと名前を呼ばれた事が気になったが、敢えて言及せずにおいた。
ゆっくりと歩く檜佐木さんに手を引かれながら、僕は口を開いた。


何で僕に触れるのか。
何で、僕を避けないのか。


だが言葉は口から出てこずに、開いた口を閉ざした。


「お前、女の子…だよな?」


『………………そう、ですけど』


色々聞こうとしていた丁度その時に降ってきた言葉に、声が平淡なものになったのは悪くないと思う。だってこいつ、今疑問符付けた。僕は何処からどう見ても女の子だろう、髪だって括ってるし。


「あとアレか?何時も怒ってるのか?それとも表情筋が死んでんのか?」


こいつ、失礼な事しか口に出来ない呪いにでも掛かってるんだろうか。
有らん限りに藍色の背中を睨み付ける。転べ。どっかの角で頭を打て。箪笥の角に小指をぶつけて悶絶しろ。
呪詛を背中に刻み込んでいれば、肩越しに振り向いた失礼な男は目を丸くして、それから笑った


「何だ、ちゃんと怒った顔も出来るんじゃねぇか。キレても無表情なのかと思ったぜ」


『………』


何を言ってもムカつく男だ。
笑っても悪い目付きに鼻を鳴らし、僕は大股で檜佐木さんを追い抜いた


『……早く』


とっとと歩けデカブツ。
睨み付ける僕をそれはそれは楽しそうに、檜佐木さんは見下ろした。


「おー。焦んなよ野良猫。米屋は逃げねぇって」


『おそい…!』


なにこいつ、何で僕が引き摺らなきゃいけないんだ!
大きな手をがっしり掴み、懸命に引っ張る。足に力を込めてにやにやしている男をぶん殴りたくなったが、それは何とか我慢した。
そのままずるずると引っ張っていたその時─────がんっと何かが頭にぶつかった。


「やーい、バケモノ!」


「独月!」


ぐらり、と視界が揺れる。
その場でしゃがみ込んで、ああ、何時もの奴等かと溜息が出た。
商店区画に来る度に受ける嫌がらせ。そうだ、今日に限ってそれを忘れていた。どうして気を抜いていたのか、奴等はこの辺りで毎回嫌がらせをしてくるというのに。
たらりとこめかみを伝う血を袖で拭き、ゆっくりと立ち上がる。
足許に転がる小石を一瞥して、さっさと買い物を済ませようと足を踏み出した、その時


「最低だな、てめぇら。女一人に影から石投げ付けるたぁ、それでも男か?」


─────背後から、恐ろしくドスの効いた声がした。
あれ、この声最近聞いた事あるぞ。肩が震えた僕を、大きな手が引き寄せた。
とん、と広い胸に受け止められて、更に身体が震える。
肌を刺す様なそれは、紛れもなく怒りだ。
……怖い。この人何で、こんなに怒ってるんだろう


「…次こいつにこんな事してみろ、タダじゃ済まさねぇからな」


「ひっ…逃げろぉ!」


「うわあああああああ!!」


ドスの効いた脅しは悪餓鬼共には効果覿面だった様で、奴等は蜘蛛の子を散らすかの如く逃げ出した。
それを軽く何人か視線だけで殺せそうな目付きで見送った檜佐木さんは、直ぐに此方に目を向けた。


「悪い、直ぐに治してやるからな」


その目に先程までの苛烈な怒りはない。困惑する僕には構わず、彼は歩き出した。
近くにあった日陰に着くと、僕を低い塀に座らせる。そして血の流れる額の前で大きな手を翳した


「回道は最近始めたばっかなんだ、治りが遅くても文句言うなよ」


『…………』


良く判らない事を口走った彼の手が柔らかな光を纏う。ポカンとしたままで治療を受ける僕は、掠れた声で問い掛けた。


『……なんで』


「あ?」


『………なんで……治す?』


僕に敵意のある目を向ける者は居ても、そんな風に心配そうな目を向けるのはお爺ちゃんとお婆ちゃんしか居なかった。
二人だけが特別だった。二人だけが、こんな僕を案じてくれる人だった。
それなのに、この人の目は二人と被る。
嘘だろう、これじゃあこの人も二人と同じという事になってしまう。
…僕を心配してくれるなんて、きっと何かの間違いだ


「何でって、この状況で治さねぇ方が可笑しいだろ」


『………』


何言ってるんだお前はとありありと書かれた顔を向けられて言葉に詰まる。
いや、それがそもそも可笑しいんだって。僕に近付く人間なんて、居ないのに


「あのなぁ、一つ言っとくぞ」


呆れた様な声音に俯く。膝の上の手を見つめていれば、低い声が降ってきた


「困ってる奴が居たら助ける。怪我した奴が居るなら治療する。そんなの普通の事だ」


『…………いみ、わかんない』


困ってる人間は放置、怪我した人間は背後から仕留めるのが彼方での常だった。
此処ではどちらであっても僕は無視するし、されているが。
檜佐木さんの普通が理解出来ずに眉を寄せれば、彼は困った様に笑う。


「んー、教えんのも難しいな…まぁ、普通はそんなもんだって覚えとけ」


ぽんと頭を叩かれて、再び手を掴まれる。
どうやら治療は終わったらしい。檜佐木さんはゆっくりと歩き始めた


「お前はアレだな、俺が思ってたよりずっと野良猫だな」


『……………』


軽い調子で放られた言葉に視線を落とした。
僕は思う。
きっと、この人の言葉を理解出来ない。
─────同時にこの人も、僕の事は理解出来ないんだろう、と。






氷は未だ溶けず






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