君は誰よりも綺麗なことり


朝起きたら零くんがお皿洗いをしていた。

「...なにしてるの?」
「起きて第一声がそれか。」

ギロリ、とこちらを睨んでくる彼に気も留めず、彼の隣に立つ。

「おはよ。」
「おはよう。」

零くんは挨拶とかちゃんとしないと起こる。幼い頃からの習慣なのだと思う。こういうちょっとしたことから、彼を成り立たせる過去に触れる度愛しさが募る。零くんのそういう律儀なところ好きだなぁ、とふんわり顔を緩める私に零くんから小言が飛んでくる。

「洗い物はちゃんとしろって言っただろ。せめて茶碗は水につけろ。」
「え〜?おかしいな、つけてなかった?」
「つけてなかった。」

憮然とした表情で答える零くんの顔をまじまじ見つめる。少し不機嫌そうだけど、そこに暗い憂いの色は見えない。心の中で安堵したのを気付かれないように気をつけながら、零くんに態とゆるゆるの顔を向ける。

「お礼に朝食振舞ったげる。」
「メニューは?」
「んー...。トースト?」

笑う私に呆れたように目を眇めている零くんに家に残っていた食材を思い返し、唯一出来そうなものを答える。零くんはそれに軽く溜息をつきいい、と返してきた。

「よくそれで朝食を作ると言ったな。」
「確かにトースト焼くだけだし、作るのはトースターだね。」

キッチンに背中を凭れかけながら、トースターを思い浮かべる。見た目に一目惚れして買ったポップアップ式だ。パンしか焼けないので殆ど使われず棚に仕舞われている。買った直後は零くんにひどく呆れられた。どうせ使わなくなる、と言われたその通りにひと月も経たずにトースターは使われなくなっていった。もともとパンよりご飯派なのだ、私も零くんも。食パンだって零くんがサンドイッチにしてくれるからトーストあんまりしないし。

「そういう事じゃない。」

1人で考え込んでいた私のおでこを零くんの水に濡れた手がぺちん、と叩く。痛くはないけれど零くんの手の冷たさにびくり、と震える。全く、すぐ手が出るんだから。

すすす、と隣から彼の背後にまわり、後ろから抱きつく。これならもう私の頭は狙えないだろうと得意げな気持ちになる。零くん敗れたり。しめしめと思いながら零くんの背中にぺたりと頬をつけるとそこから温もりと鼓動が伝わってきて眠気が襲ってくる。なんで人の体温ってこんなに安心するんだろ、と思いながら徒に彼のお腹に回した手をさわさわと動かす。

「やめろ。」
「なんでー、いいじゃん。けちけちしないでよー...。」

眠くなってきて呂律が回らなくなっている。これは体が二度寝コースに突入してるな、と思いながらゆるゆると頭を零くんの背中に擦り付ける。

「寝るなよ。」

鋭い声が飛んでくる。零くんには何でもお見通しらしい。それにうーん、とどっちつかずな言葉で応える。起きようという意志とは裏腹に体が眠りモードに入ってるので保証はしかねますね...。重くなる瞼に逆らわず、そのまま考えているとピーピー、と音が鳴る。驚き一度肩が跳ねる。そして零くんの背中から頭を離す。

「なに?なにごと?」
「米が炊けたな。」
「え?うちお米あった?」

さっきの音は炊飯器の通知音であったらしい。しかし、おかしい。うちには今賞味期限ギリギリのパンと調味料くらいしかなかったはずだ。

「買ってきた。」
「え、朝一で?わざわざ?」
「あぁ。」
「えぇ...、ありがとう。後でお金払うね。」

そう言う私を無視して零くんは炊飯器の蓋を開けてご飯を杓文字で掻き混ぜる。それから私を背中にくっつけたまま冷蔵庫から魚と豆腐を取り出し、魚を焼きはじめる。零くん誤魔化し方がいつもに増して雑だなぁ。お金受け取らないつもりだね?絶対押し付けるから!というか私零くんが起きたのだけでなく、出ていったのにも気付かなかったのか...。疲れていて零くんの温度に安心していつもより寝つきがよかったにしても爆睡しすぎなのでは...??そうこう考えているうちに零くんはさっさと豆腐を手の上で切り分け、乾燥わかめを棚から取り出して味噌汁を作りはじめていた。隙のない動きに脱帽するばかりである。

「ほら、早く顔洗ってこい。ご飯できあがるぞ。」
「ん。...零くんも一緒に食べる?」
「あぁ。今日は昼までいるよ。」

いつも忙しい零くんも今日は少し長く一緒にいられるらしい。嬉しくなって早く顔を洗うべく急いで洗面所に向かう。転ぶなよ、と呆れたような、でも少し優しい温かい声が背後から聞こえ大丈夫ー、と返す。洗面台にあるヘアバンドで髪をあげ、冷たい水でぱしゃぱしゃと顔を洗い、うがいをする。それが終わると濡れた顔をタオルに押し付ける。キッチンからは優しい味噌の香りと魚の香ばしい香りが漂っている。きっと今日が終われば零くんにはまた数週間は会えないだろう。でも、彼がここに戻ってきてくれるのならそれでいい。彼がここに帰ってきて一息つき、偶にこうやって一緒にご飯を食べる。それだけで私は構わない。だからちゃんと生きて帰ってきて。彼にそれを告げることは出来ないけれど。誰より愛しいあの人はきっと自身を顧みない。だからせめて彼の裾を少し引くそんな存在でありたい。この時間を空間を惜しむような、死んでしまうのが少しでも惜しくなれるような帰りたいと思える、彼の羽休めができる場所であってほしい。

「おい、出来たぞ!」
「はーい!いまいくー!」

キッチンから呼び掛ける声に返事をしてタオルから顔を上げる。取り敢えず今は彼と一緒に朝食を取ろう。彼と一緒にご飯を食べて、少しだけソファでゆっくり過ごす。幸せな朝を思い描き、ふふ、と笑う。これが彼にとっても幸せな情景であれ、と思いながらタオルをかけ直し彼の待つキッチンへ向かった。