昨日のパノラマ

昨日のパノラマ/降谷零

例えば、桜の乗った暖かな風が吹き抜ける時。例えば、夕暮れの遮断機の前で。ふと、彼女を思い出す。長い黒髪が風にそよぐ後ろ姿が好きだった。僕に気付いて嬉しそうに笑う彼女が好きだった。


彼女と出会ったのは高校生の時。名前はみょうじ なまえ。何処にでも居る女性だった。美人ではないが、笑った顔は可愛い。大人しい性格でグループの中心にいる訳では無いが何処にでも馴染めるタイプ。特に話したこともなかったが、たまたま押し付けられたクラス委員で同じになったことで少しずつ距離を縮めていった。なまえの傍は心地が良い。放課後仕事を行いながら僕がくだらないを話しても穏やかに相槌をうち、時に疑問を投げかける。彼女の声はよく僕の耳に馴染み、彼女の声が聞きたくて僕はよく彼女と話した。内容はさまざまだ。この間読んだ本の感想。そのトリックについて。他にも明日の課題や天気など。最初に惹かれたのは僕の方。後から話せば彼女は絶対嘘だ、と柔らかく笑っていたけれどこれだけは間違いない。彼女にアプローチをして風のように躱されたことが山ほどある。だから、そういって笑う彼女に少し腹が立ってぺし、とおでこを叩いたのになまえはあいた、といってやっぱり笑っていた。それに気が抜けて俺も一緒になって笑った。


なまえは、俺の緊張を解すのがとても上手だった。彼女の傍は息がしやすくて肩の力が抜ける。俺にとってなくてはならないものになっていくのに時間はかからなかった。

「零くんは猫より犬っぽいね。」
「は?なんだよ急に。」
「うーん、なんとなく思った。チワワだね、チワワ。きゃんきゃん吠える感じ。」
「なんだ、喧嘩を売ってるのか?」
「違うよ、零くん可愛い顔してるし大型犬より小型犬っぽいじゃん。それに昨日出先であった松田くんと萩原くんに喧嘩を売ってたのは零くんじゃん」
「あれはあいつらが...。」
「はいはい。」

くだらないことで言い合って、怒って笑って泣いた。ふとした瞬間に思い出すのはなまえの事。嬉しい時悲しい時にふと頭によぎるのは彼女の穏やかな顔。優しい顔で僕の話を聞いて頷いてくれる彼女の姿。

「へぇ!凄い。零くんはやっぱり物知りだね。」

「あ、それ私が買ったアイス!零くんは要らないっていったじゃん!」

「だって、初めてなんだもん...。」

驚く彼女に鼻高々にいろんな雑学をはなしたのを覚えている。帰り道に些細なことで喧嘩して頬を膨らます姿を覚えている。初めて彼女とキスした時の彼女の林檎のように真っ赤になった頬を覚えている。どれも大切で思い出す度に愛しくなる。僕はきっとこの記憶を一生忘れられないだろう。






雲ひとつない快晴だ。今日という日ほど祝い事に向いた日はないだろう。さんさんと降り注ぐ太陽の光は彼女のように優しく僕の身体を温めてくれる。風は優しく花々を揺らした。今日、彼女は結婚する。僕ではない誰かと幸せを誓う。望んだ結末だ。僕が手放した幸せだ。悲しむなんてお門違い。それでも僕は顔に作り笑いも浮かべることが出来ない。未練がましい男だと、君は嗤うだろうか。いや、お前が捨てたのだと詰ってくるかもしれない。なんて。有り得ない。なまえはそんなこと言わない。きっと、ただ悲しそうに笑うのだろう。



警察官になって彼女と会える日は前よりもぐんと減った。その頃から僕は彼女を幸せに出来るのだろうかと不安だった。僕の選んだ道に後悔はないけれどこのまま彼女といれば彼女の道を、幸せを僕が踏み躙っているのか、それだけが気がかりだった。それでもそれに目を背け彼女に愛を囁き続けた。僕は彼女を手放す勇気を持てなかったから。

けれど、その日は訪れる。僕が潜入捜査官になることを命じられたあの日。僕は彼女に別れを告げた。僕にとってゆかりが傍にいてくれることが幸せだったが、それだけのために彼女の幸せを奪いたくはなかった。誰よりも愛しい恋人。幸せになってほしかった。幸せにしたかった。けれど僕の進む道では無理だから。彼女が隣で笑ってくれる未来を望むなどきっと僕には過ぎた願いだったのだ。だから僕はせめて君の生きる世界が幸せであるよう手を尽くそう。そう決めて僕は彼女と別れた。あの日のこともまた忘れることはないだろう。ゆかりは酷く泣いていて、漏れる嗚咽に肩を抱きたくなる腕を必死に抑えた。噛み締めた唇を気付かれないよう深く俯く。それから、泣き崩れた彼女をそのままに彼女の家の合鍵を置いてその場を後にした。彼女が決して僕を引き摺らないように。あいつは酷い男だったのだと罵れるように。実際別れを告げる前から殆ど会えずデートも出来ていなかったような酷い男だ。早く忘れて、次の誰かを探してくれと思ったことを覚えている。本当はなまえが僕以外に笑いかける姿など考えたくもなかったけれど。




久方ぶりに見た彼女は白いドレスに身を包み、まるで天使のようだと思った。彼女はやはり、穏やかに笑っている。彼女の結婚相手はお見合いで決まったらしい。結局、僕と別れても次の恋人など出来ず、親からせっつかれてお見合いをしたようだ。穏やかで優しい好青年だ。後暗いことも、悪い噂もない。きっと周囲から見れば穏やかな気性どうしでお似合いの夫婦だろう。確かに彼ならば彼女を幸せに出来ると思う。毎日家に帰ってきて言葉を交わし、隣で眠る。子供が出来れば2人で悩みながら名前を考えて。ああ、これは俺が望んだ結末だ。それなのに。こんなにも胸が痛い。幸せそうな彼女が見れて嬉しい。けれど、それ以上の嫉妬がこの胸を灼く。攫ってしまえればどんなにいいか。勿論、そんなことするつもりはない。彼女はこれから幸せになる。それをこの身に刻み付けるために僕はここに来たのだから。

わっ、と周りから歓声が上がる。見やればどうやらブーケトスが行われるようだ。楽しそうに笑うその顔に見惚れる。その時。彼女の視線と僕の視線が交わった。瞬間その目は見開かれ、次の瞬間には泣き出しそうに歪んだ。あぁ、駄目だ。君は花嫁なんだから。そんな顔をしてはいけない。そっと身体を隠す。ちゃんと変装をしていたつもりだったが見抜かれてしまったか。隠れて彼女をもう一度見ると彼女がブーケを投げていた。高く放り投げられたブーケが弧を描く。そのブーケは小さな女の子の胸に収まった。嬉しそうにブーケを抱きしめた少女はたっ、と母親らしき女性の元へ駆けて行った。そして、アナウンスが流れる。どうやらこの後は披露宴らしい。もう十分だ。彼女にも見つかったてしまったし、帰ろう。



そっと人の少ないところから出ていく。まさか見つかるとは思わなかった。あんな表情、させるつもりはなかった。まぁ、確かにあんな別れをした元彼が結婚式に来てたら嫌だよな、と思い自嘲する。兎に角、グダグダ言っても仕方がない。スーパーにでもよってお酒を買って帰るかと行き先を決める。その直後、腕を掴まれる。驚き、即座に後ろを振り向くと、そこには息を切らしたなまえがいた。

「なんで...。」
「零くんが帰るから...。」
「披露宴なんだろ!?」
「お色直しだから今は花嫁いなくても大丈夫...。」

そういう問題じゃない。花嫁が元彼追いかけて結婚式飛び出すなんて外聞も悪かろう。しかし、二度と触ることも出来ないと思っていたなまえの手が自身を掴んでいることに、僕を追いかけてきてくれたことに喜びを感じる自分もいた。

「零くん。」

息を整え、まっすぐの瞳でなまえが僕を見る。少し潤んだその瞳に僕もつられそうになる。

「私、幸せになるよ。」

彼女は震える声で言い募る。

「私零くんのことが好き。今でも大好き。」

僕は何も言えなかった。驚きと嬉しさといろんな感情が絡まりあって声が出なかったのだ。ぽろり、と彼女の瞳から涙が落ちる。声が震えるのを堪えるように1度、なまえは唇を噛んだ。そして、無理やり作ったような顔で笑う。

「だけど、私幸せになるから。彼、私がまだ零くんのこと好きなの知ってるの。...それでも一緒にいたいと言ってくれた。私、きっと彼のことが好きになるよ。零くんより好きになる。」

言い切った彼女は今度はちゃんと笑った。作り物でもない優しい顔で。その顔が、その声が僕の胸にすとん、と落ちてくる。そうか、彼女は幸せになるのか。自然と口角が上がった。

「なまえ。」
「何?」
「綺麗だよ。世界で1番綺麗だ。...結婚おめでとう。」
「...うん。ありがとう。」

きっとお互い下手くそな笑顔だった。ちゃんと笑っているのに泣きそうな、悲しそうな顔。過去との決別を惜しむような、喜ぶような、そんな顔。もう、言葉は要らなかった。なまえはくるりと僕に背を向け歩き出す。そしてそれを見て僕は彼女に背を向けて歩き出した。あぁ、今日は本当にいい天気だ。



例えば、雲のない青空を見た時。例えば、白いドレスを見た時。僕は彼女を思い出す。僕が誰より幸せになって欲しい人。これから先も僕は彼女以上の存在に出会うことは無いだろう。そして、彼女との思い出を拾っては大切に胸にしまい込む。それでいい。それだけで僕はこれからも自分の職務を忘れずにいられる。さよなら、僕の恋しい人。どうかいつまでも幸せで。