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これの続き)
中原の視界に覗くのは、部屋の一角を占拠するクマである。成人一人分はゆうにある黒クマのぬいぐるみである。クマはいつのまにか其処に居り、太々しい顔をして鎮座している。同じく太々しい顔をした部下がプレゼントとして貰ったものだと云う。送り主はおそらく一等感性の鈍い阿呆だ。
「職場に私物を持ち込むんじゃねェ!」
中原は云うが、困ったことに部下の心には全く届かない。
中原自身も感じていたが、最近部下からの信頼が薄い気がする。蔑ろにされている気がする。というのにも、中原は心当たりがあった。例の鬼ごっこである。これが如何やら「五大幹部の中原が女の尻を追いかけてビルヂング中を駆け回っている」という噂となった。あながち間違ってはいないがこれはない。
噂は爆発的な勢力を持って光の速さで社内中を駆け巡る。中原のそんな面白い噂話を何倍にも装飾して吹聴して回る太宰の居ない今、誰がそんな良心に掛ける浮評を! 中原は考える。いや待て。居る。居るぞ。面白おかしく尾鰭に背鰭に腹鰭とおまけに髭まで付けるだけでは事足りず、誇大に強調してから色まで付けて吹聴するであろう人間が数名選定できた。選定した人物を脳内で列挙したからといって、だから如何ということもないが、社内に敵がいるのは思いやられる。思い切りブン殴れるぶん太宰のほうが真面かもな。中原はため息を吐いた。
「おや中原さん。そのため息はもしや、プレゼントを渡せなでいる己の勇気が欠如している様を恥じたため息でしょうか」
ひょっこり顔を出したのはクマの持ち主の部下であった。部下は中原に缶入り珈琲と領収書を渡すと、そのクマにドスンと飛び乗った。
「五月蠅え。手前のその腹の下のでけえクマをどうしてくれようか悩んでるため息だ阿呆」
それから珈琲如きでいちいち領収書を切るんじゃねえ。態々購うな。給湯室で煎れろ。中原はぶちぶちと小言を続けた。
「とある人から頂いたクマです。中原さんに勝手にされるのは困ります」
「この部屋を勝手に手前の物置にされちゃあこっちも困るんだよ」
「もっとお困りのものがあるでしょう」
部下はクマから飛び跳ね、回転しながら愉快に書類棚の一番高い引き出しに手をかけた。
「手前……」中原はその引き出しに心当たりがあった。
「中原さんの背丈にこの引き出しは間際です。無理しないでもう少し下段の利用を推奨します」
「ぶっ殺すぞ」
「いいんですか。此奴が人質ですけど」
部下の手に見えたのは小さな包装箱であった。中原の身長の間際の引き出しから取り出されたものである。返せと拳を振り上げる。
「推測するにそこそこ値の張る服飾品の類だとは思います。銘柄と包装紙の色からして自分用、或いは贈り人が男性ということはないでしょうし、この度合の服飾品を贈る相手なんて家族か恋人くらいしか考えられません。前者の可能性は我々のような仕事をしていると先ず薄いので恋人と仮定して話を進めたいのですが、確認したいことが」
饒舌な部下の見事な推理に中原はただただ圧倒され、拳を振り下ろすことを忘れていた。
その包装箱の中身は部下が言い当てた通り、有名銘柄のそこそこ値の張る女性用の装飾品である。そこまでぴたりと云い当てられては、部下の云う“確認したいこと”に厭な予感がして脂汗が浮かんだ。
「中原さんは現在お付き合いしている女性が居るのですか」
ほら! ほら! ほら!
中原は思った通りの問いに矢張りなと脂汗をいっそう濃く浮かべた。
「まさか渦中の追いかけたお尻の女ではありませんよね? 相当嫌われているようですし」
「尻の女って云うな!」
「命中ですか」部下はあははと笑う。笑い乍ら包装箱をぽーんと放り投げて再びクマに倒れ込む。中原は排球選手顔負けの見事な飛び込みで包装箱を衝撃から救済した。
包装箱を手にし、中原は滑り込んだ床の上で眉を寄せる。このままではこの部下を始め、噂を吹聴したかもしれぬと脳内で選定した面々が、次々と刺客となり自分を揶揄いに来るのではないか。決着は早くつけるべきだ。中原は心に炎を燈した。
黒蜥蜴はけっしてポートマフィアの便利屋ではない。
黒蜥蜴に所属する苗字名前は一本の電話により、給湯室でお湯を沸かしていた。煎茶、梅昆布茶、珈琲。茶葉を並べ睨み付ける。せめて同じ飲み物にしてくれ。一杯だけの為に捨てられる茶葉がどうにも勿体無く感じるのだ。
何故苗字がお湯を沸かしているのかといえば、数刻前に遡る。それは一本の電話であった。
黒蜥蜴の半数は任務のため出払っていた。居残り組で運悪くも電話番を押し付けられたのが苗字であった。
任務完了報告。抗争での負傷者の報告。医療班の手配。輸送車の手配。死亡者の報告。掃除屋の手配。取引終了。了解。各持ち場の連絡を一手に担わなければいけないので電話番も楽ではない。武器の調整のほうが何倍も楽だ。苗字は貧乏くじを引いてしまったとひとりごちた。
再び呼び出し音が響く。
電話番ではない構成員は聞いて聞かないふりをする。電話だってひとつしかないわけじゃないのに。苗字は心無い同僚たちを睨み付けてから受話器を取る。
「此方黒蜥蜴。苗字が要件を承りま、え…………はい?」
苗字の不穏な声音に、今まで沈黙を守っていた同僚たちが顔を上げた。
「此方黒蜥蜴。苗字が要件を承りま」
「広津さんお茶をいつも通りよろしく頼みたいんだけど」
「え…………はい?」
「あれ? 広津さんじゃないの?」
「広津は現在任務で横須賀に」
「そう。それで、君は?」
「黒蜥蜴の苗字です。苗字名前。この通り電話番をしております」
「ああ、君が! 成程。噂はかねがね」
「噂……」
「まぁそんなことは如何でもいいんだけど、大至急煎茶と昆布茶と珈琲を一杯ずつ頼むね」
「えっそんな、困ります。黒蜥蜴は秘書課ではないんですよ」
「そんな堅苦しいこと云わないでよ。首領命令」
「ボ、首領ッ!?」
「じゃあ会議室までよろしく頼むね」
苗字は首領と名乗る男の云いつけ通り、煎茶、梅昆布茶、珈琲を準備して指定の会議室へと参上した。煎茶、梅昆布茶、珈琲に加え、オレンジジュースと高級菓子も携えての参上である。それというのも、真逆首領からお茶汲みの命が下るなんて思いもよらず、苗字は上司である広津に確認を取った。
「首領と名乗る男から煎茶と梅昆布茶と珈琲を会議室へ運ぶように命じられたのですが、本物の首領でしょうか」
広津は本物で間違いないと返事をした。いつものことでいつもの注文である。間違いない。会議室に急ぐべし。それから給湯室の隠し棚に高級菓子を忍ばせてあるので、オレンジジュースと一緒に持って往くべし。すらすらと言葉を紡ぐ広津に成程いつもの事なのだと感心する反面、広津も大変だなあと心の中で労わった。
「此れから突入準備に入るので切るが、くれぐれも気を付けるように」
「了解しました。広津さんもどうか気を付けて」
くれぐれも気を付けるように。広津の真意は苗字がその扉を開くまで判らない。扉を開く前の苗字は精々首領の前で粗相をしないように程度に受け取っていた。
人払いとして立っていた立原が広津の代わりはお前かと苗字を見る。煎茶、梅昆布茶、珈琲、オレンジジュースに高級菓子。いつもの顔ぶれだなと立原の審査を潜り抜け、会議室の扉は開かれた。
「失礼致します。お茶をお持ちしました」
苗字が一礼すると、騒々しい音が居室内に響く。顔を上げれば幹部の中原が椅子ごとひっくり返っていた。
「やあ。先ほどは如何も。ついいつもの事と名乗らずにすまなかったね」森は椅子ごとひっくり返った中原なんか気に留めないとでもいうように、手招きをしながら云う。
「否。此方こそ首領とは知らずの無礼をどうかお許しください」
苗字は森の手に招かれるまま足を進め、飲み物と高級菓子を並べる。
「名前、久しいのう。元気にしておったか」尾崎に尋ねられ苗字は頷いた。
「その説はお世話になりました。この通り元気に仕事をしております」
「ならば善い。しかして、中也。いつまでそうやって床にひっくり返っておる心算じゃ」
尾崎に云われ、中原は漸くよろよろと立ち上がった。
「電話をしてからどうもふたりの機嫌がよくなったと思いましたよ」
中原は部下に続く刺客はこのふたりかと気を重くした。このふたりは手強いぞ。中原は胸に手を当てる。どうも最近、胃がキリキリと痛むのだ。これは屹度心労に違いない。そうに違いない。中原は、胃の痛みが引くと肩に掛けている外套の衣嚢に手を当てる。衣嚢に忍ばせている包装箱の形を確認するように撫で、決戦の火蓋を落とした。
「遅えな……」
真逆粗相を起こして首を跳ねられているんじゃあるまいな。立原は扉の向こうからなかなか出てこない同僚を心配していた。然し立原の心配を余所に、渦中の尻の女、苗字は金髪碧眼の美少女エリスに捕まっていた。
「五大幹部の中原が女の尻を追いかけてビルヂング中を駆け回っている」
噂の中原と尻を追いかけられた苗字が眼前に居るのだ。森と尾崎は花が咲き綻ぶような満開の笑顔を向ける。その笑顔に中原と苗字は胸やけを起こしそうであった。そんな中、「リンタロウ気持ち悪い」と云い「オレンジジュースおかわり」と駄々をこね「もう飽きたんだけど」と奔放に振舞うエリスだけが中原と苗字の救いであった。ふたりは後にエリスを救世主と讃え崇め祭るかも判らん。
そんなエリスの要望もあって切り上げられた会議の後、森と尾崎の最後の攻撃と云わんばかりに中原と苗字は半ば無理やり、ふたり昇降機の中に詰め込んだ。
気まずい。
沈黙が流れる。どうせお互い持ち場の階に移動するには昇降機を使わねばならないのだ。しょうがない。不満といえば、この昇降機内の個室にふたりきりということと、拠点が高層過ぎる、つまり移動時間が長いということだ。
「苗字、何階だ?」中原が聞けば苗字は肩を揺らし20階の釦を押す。
「すみません。中原さんにお手数を掛けさせて」
苗字は床を見つめながら話す。
「……この前も云ったけどそんな気を使うな……云ってもなかなか難しいか」
中原も床を見つめながら返す。ゴウンゴウンと巻上機の動く音が矢鱈大きく聞こえた。中原の手は肩に掛けている外套の衣嚢に触れた。中には包装箱がある。心臓が跳ねた。神の啓示か。もしかして、今が好機というものなのでは。大丈夫。今までの詫びだと渡せば済む話だ。十秒で終わる。男を見せろ中原中也。
「あのな、」
中原が決心し、言葉を発したそのときだった。巻上機の音が一際大きくなったかと思いきや、次の瞬間、降機内は大きく揺れ電気が落ち巻上機の音が止んだ。暗闇と静寂に包まれる。
「おい苗字! 無事か!」
「はい。大丈夫です」
中原はジッポーを取り出し火を点ける。
「直ぐに予備電源で動き出すと思うので、警報機が鳴りますよ」
「いや、こりゃあ暫く動かねえよ」
中原は確信していた。脳裏には森と尾崎の胸焼けするほどの満面の笑顔。無理やり押し込まれた昇降機。突然の停電。これはふたりが仕組んだに違いない。
「……まあ如何にか出来ねえワケじゃねえんだけどな」
苗字の不安そうな表情が僅かな炎に揺らぐと、早くこの状況から救ってやりたいと思う。おもうのだが。
「こうなったのも何かの縁だと思って、少し話さねえか」
何かの縁と云えば森と尾崎の陰謀であることを知っておきながら中原はいけしゃあしゃあと云う。苗字はあからさまに厭そうな顔をしてみせた。中原はその苗字の表情でさえも可愛いと思うのだ。
「きちんと謝りてえと思ってな」
「それは、もう充分です」
「そうか」
会話が途切れる。ジッポーが揺らぐ。
「今日の珈琲、美味かった」
「それは、よかったです」
中原が会話を続けようとしていることをは判ってはいるのだが、これ以上口を開けば苗字は余計なことまで口にしてしまいそうで閉口する他なかった。
ただの給湯室にあった粉を溶かしただけの珈琲ですからと云えば、次に中原が返答に困るのは目に見えていた。それから万が一口をついて今まで散々虐め抜きやがって、なんて口に出したら、尾崎に取り持って貰った関係が泡沫に消えてしまう。
崩壊は簡単だ。然し、数年の確執はふたりの底に蟠り、不安定な基盤はそう易々と安寧を善しとしなかった。
「……油も勿体無えし、出るか」
二度目の沈黙に、中原は今日はこんなもんかと切り上げることに決めた。
中原がジッポーを仕舞うと昇降機内は再び暗闇に包まれる。ぐらりと大きく揺れる。苗字にはよく判らないが、如何やら昇降機は動いているらしい。
この辺か、と中原が呟けばゆっくりと光が差し込んできた。中原の力によって無理やり扉をこじ開けられた昇降機の外は、確かに昇降機の出入り口であった。
「俺の異能で昇降機を出入り口まで動かした。あとは扉をこじ開けるだけだ」
立てるか、と差し出された中原の手を、苗字はじっと見つめる。それから中原の顔を確認すると、顔はそっぽを向き、視線は明後日の方で、耳は真っ赤に染まっていた。
苗字は中原に虐められていた散々だった過去を思い出す。ブスだと罵られ、空気を吸うなと云われ、突き飛ばされた日々。
それでも今は、目の前で真っ赤に震えているこの男が、なんだか無性に可哀想になってしまって、苗字は思わず手を取った。
「中也君、ありがとう」
瞬間、中原は宇宙に居た。
――中也君、ありがとう。中也君、ありがとう。中也君、ありがとう。中也君――。
宇宙空間に居る中原の脳裏に木霊するのは苗字の声である。中原の立つ宇宙の幾千の星は全て苗字の顔をしていた。
苗字との初対面。あれから幾年過ぎただろうか。それっきり呼ばれることの無かった自分の名前を、嗚呼、苗字がその声で呼んだのだ!
中原は静かに涙を流した。
そんな光景を静かに見守る者たちがいることを中原も苗字も知らない。
中原の衣嚢に忍ばせている包装箱は未だ其処にいる。
20161024
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「
好きなのにブスと言ってしまう中原さんの短編の続き」
リクエストありがとうございました!