中島敦が苗字名前と出逢ったのは、彼女が敦の勤める武装探偵社に持ち込んだ、或る事件が切っ掛けであった。

「猫探し、ですか」
 国木田の声に怒りの色が浮かんだのが判ると、武装探偵社内の空気が急に重くなった。
 誰だ、武装探偵社の宣伝をしようと言い出したのは。テレビコマーシャルやビラ配りによる宣伝で集客を増やそうと言い出したのは。危惧していたが、実際にこんな冷やかしのような輩が出て来てしまう始末だ。どう責任を取ってくれる心算だッ……! 猫探しなんてやらん、やらんぞ俺は! 国木田の怒りは沸々と膨れ上がる。然し国木田とて立派な社会人である。目の前の依頼人(仮)にその矛先を向けるべきではないことは重々承知していた。
「只今担当の者をお呼び致します。――敦!」
 あからさまに機嫌の悪い国木田に呼ばれ敦は飛び上がる。隣の太宰はこれも新入社員の務めだねえなんて他人事のように笑っていた。国木田の刺さるような視線が痛い。眼力だけで早くしろ訴えている。
 国木田は席を立ち、敦とすれ違う一瞬で、低く一言「適当に追い返せ」と云った。敦の背には一筋の汗が伝った。

「たっ、担当の中島です! 僕がお話をお伺いさせていただきますね」
 敦は愛玩動物捜索の担当になった覚えも、ましてや冷やかしで来訪した輩を追い返す業務の担当になった覚えもないが、国木田が云うのだから自分がこの件の担当になったことは確かなのだ。上司と顧客との板挟みは辛い。敦は厭だなあと思い乍ら顔を上げると、依頼人の女は切羽詰まったような顔をしていた。
「急ぎなんです。どうかこの猫を、出来るだけ早く捜索していただきたいのです」
 依頼人(仮)が差し出してきたのは一枚の写真。そこには端正な顔をした猫が写っていた。毛並みも申し分なく、こんなに綺麗に手入れをしていたのであれば、さぞ可愛がっていたのだろうと推測できた。敦は、国木田には申し訳ないがどうにかこの猫を依頼人(仮)の元に返してやりたい気がしてきた。
「綺麗な猫ですね。名前はなんというんですか?」
「名前、ですか……。わたしはこの猫を適合者と呼んでいます」
「適合者?」
「それよりも、この依頼を受けていただけるのでしょうか! 急ぎなんです!」
 依頼人(仮)が声を荒げると、敦の背には再び国木田からの刺さるような視線が無数の針になって攻撃してきた。
「そ、それがですねえ――」
 敦の目には涙が浮かんでいた。

 依頼人は苗字名前と名乗った。
 これが中島敦と苗字名前の出逢いである。







 苗字は「もし、この猫を見かけたらわたしに連絡してください。けっしてこの猫を素手で捕まえようだなんて思わないでください」と敦に云いつけ、猫の写真を一枚と、小さな遮光瓶を置いて帰った。

「随分切羽詰まっていたようで、断るのに心が痛みました」敦は云う。突き刺さる国木田の視線に背中も痛んだ。
「美人な猫さんですね」賢治は写真の中の猫の耳と顎下をカリカリと撫でる。
 猫の写真に夢中な社員を余所に、太宰と乱歩は小さな遮光瓶に夢中だった。
「おい、いい加減業務に戻れ!」
 国木田は猫の写真を取り上げ、眉を吊り上げながら叫んだ。
「貴様もだぞ、太宰!」
 国木田が太宰に向いて指をさすと、太宰はいつものようなにやけ顔ではなく真面目腐った顔をしていた。それを国木田が茶化せなかったのは、探偵社の頭脳である乱歩も妙に神妙な面持ちをしていたからである。ふたりが覗いている遮光瓶。そこに何があるっていうんだ。国木田もふたりに倣って遮光瓶に顔を寄せると、乱歩が急に振り返るものだから、国木田は驚いてよろめく。
「これは随分厄介な事件になりそうだね」
 乱歩はゆっくり目を開きながら云った。
「……その遮光瓶には何が入っているんですか」
 国木田の問いに乱歩も太宰も答えなかった。
「これは依頼人である苗字女史に詳しく聞く必要があるな。二手に分かれて依頼人と猫を探せ!」
 乱歩が珍しく執った指揮に、探偵社員は背筋をしゃんとして頷いた。







 横浜の街をどれだけ走り回っただろうか。
 苗字は時間がない中、力になってくれるかもしれないと訪ねた武装探偵社の対応に気を落とした。
 たかが猫探し、そんな顔をしていた調査員の顔を思い出す。話も聞かずに追い出すような人にこの件は話せない。苗字は拳を握り直し、再び猫の捜索を始めた。彼等よりも早く見つけ出さなければ。
「あ、名前さん見つけた」
 心臓が大きく跳ねた。苗字は不意に呼ばれた自分の名前に振り返る。
「……さっきの、探偵社の」
「中島敦です」
「どうしてここが判ったの?」
 苗字は猫を同じく追う彼等じゃないと判って一旦は胸を撫で下ろしたものの、どうして自分の居場所が判ったのだろうと敦を警戒した。
「僕は人よりも目も鼻も、耳も良いんです」
 苗字は敦の云うことを信用できず、ゆっくりと距離を開ける。警戒している。このままでは苗字は逃げ出すだろう。無理やりとっ捕まえることもできるが、乱歩は苗字に話を聞きたいと云っていた。なるべく怖がらせずに探偵社に連れて帰りたい。何より敦が苗字を傷つけたくないと、そう思ったのだ。
「まぁ、云うだけじゃ信じられないですよね」
 敦は出来るだけ安心してもらえるように、人懐こい笑顔を浮かべながら自分の腕を獣化して見せた。
「僕、こういう異能力――個性みたいなものなんですけど、虎になれるんです。あっ、名前さんを襲うとかそういう心算はないですからね!?」
 敦は自分で説明すればするほど言い訳がましくなっているような気がして、最後には怖くない、恐くないですからねと獣化した腕をブンブン振り回し始めた。
「遺伝子操作?」
「え?」
「手品じゃないわよね。確かに虎の骨格だわ。自分の感覚で変化させられるの?」
 敦の思惑とは違うがどうやら苗字は警戒を解いてくれたどころか興味を持ってくれたように思う。それが敦自身ではなく、敦の異能でなければ心の底から喜べたのだが。敦は肩を落とし乍ら、まあ何でもいいかと自分の下心を有耶無耶にした。
「武装探偵社は名前さんの依頼を受諾しました。今、総員で猫の捜索をしています」
 苗字は顔を上げた。瞳には希望の色が宿る。敦はその済んだ瞳に息を飲んだ。
「本当? 信じてもいいのね」
「はい。ですから、名前さんには詳細をお伺いしたいんです」


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