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これの続き)
「ミッシングリンクはご存知ですか。失われた環。生物の進化過程においての空白部分のことです。
例えばウマ。各進化段階で多くの化石が発見されているので、ミッシングリンクがないものとなります。進化過程がはっきりと判っている善い例です。
古くから生息しているもの、亦新しい種でも規格外の形状であると進化過程の化石の発見は難しく、ミッシングリンクが生じやすくなります。
人類はおよそ500万年から600万年前の間にチンパンジーの祖先から分岐した可能性が示唆されているものの、分岐の直後についての化石情報は乏しく、ミッシングリンクとされています。
こういった自然淘汰による進化とは別に、ウイルスに感染したことで進化が起こったという説もあります。ウイルスによって運ばれた遺伝子が生物の中に入り込むことで変化を起こし進化するというものです。
キリンの首が何故長いのかご存知でしょうか。元来キリンとは首の短い生き物であったのです。それが短期間で進化し、首が長くなったのだと云われています。これは先程説明しましたが、首の短いキリンと首の長いキリンの化石が発見されたことから証明されました。然し、肝心の中間の首の長さの化石が発見されていないのです。そのため短期間で進化した要因はウイルスが齎した作用ではという説があります。――まあ、キリンのように生息域が狭く、餌環境のめまぐるしい変化が伴った場合はミッシングリンクを否定する根拠にはならないとも云われていますが。
わたしが大学で研究しているのはこの進化とウイルスの関係性です。ウイルスによる進化がなかったとしても、ウイルスでミッシングリンクが解明できるんじゃないかと思い、研究を続けています。
わたしが研究を進めているウイルスは未だ完成しておらず、マウスでの実験ではウイルスは全身に病理変化が行われてから意識が失われ、一時は驚異的な能力を身に付けますが、耐えられなくなった細胞が破壊され肉体が腐敗します。然し、あの猫は違います。わたしが研究した生物を急激な進化へと導くウイルスの適合者なんです! 偶然が偶然の奇跡を呼び、この猫はマウスでは得られなかった研究結果を齎しくれました。従って、わたしはこの猫を愛を込めて適合者と呼んでいます! あの猫を元に研究すればわたしのウイルスは間もなく完成することでしょう!」
狂科学者苗字名前の多弁に、敦は意味が判らず頭を抱えた。乱歩と太宰は別の意味で頭を抱えた。
目的の猫は、敦の能力と乱歩の頭脳で間もなく見つかった。
「触らずに捕まえるってどういうことですか!」
谷崎は叫ぶ。
商店街の路地を抜け、行き止まりで猫を追い詰めたまでは善かった。谷崎が目標を確認しました、と乱歩に報告を入れれば「絶対に触るな! 万が一にも噛みつかれるなよ! 怪我もさせるな! 誤っても体液を撒き散らすんじゃないぞ! その猫は異能力者と思って戦え!」と助言される。そんな無茶な!
谷崎は猫と対峙し、乱歩の言葉を思い出し、気を遠くした。国木田さん、早く来てください。谷崎は頼りになる上司の異能力を思い出し、念を送った。
間もなく敦を始め、屈強な探偵社調査員が一堂に路地裏に集結した。実に異様な光景である。然し、谷崎が想いを馳せた国木田は未だ現れない。「国木田クゥンはこんな時に迷子なのぉ」と太宰は茶化す様に云う。国木田が聞いていたら「誰が迷子ジャーッ!」と拳が飛んだだろう。
「誰が迷子ジャーッ!」
一同の脳裏に過った国木田の声はまさに現実のものとなり、路地一角に響き渡った。相違するものがあるとすれば、飛んできたものは拳ではなく簀巻きにされた男が三人ばかりであった。
「何ですか、この男たちは?」
「フンッ! 猫を探している間にへっぴり腰で銃を構えていた不審者だ」
国木田が云えば、苗字はぴょこんと跳ねた。
「ありがとうございます! これはわたしの研究を盗もうとしていた同じ研究室のやつらです」
苗字が足で簀巻きにしている男を転がしながら云った。
「違うッ!」
簀巻きにされていた男が叫ぶ。
「確かにお前の研究と頭脳は認めなければならない。お前の研究と頭脳の結晶がその猫だ。然しッ! 矢張りそのウイルスの危険性は無視できないものがある! ウイルスの処分が我々の目的であり願いだ!」
ウイルス? 研究? 乱歩と太宰以外の面々は、簀巻きにされている男が一体何を訴えているのか判らなかった。簀巻きの男がいくら声を張り上げ訴えても、依頼人苗字の言葉と、簀巻きの男から国木田が取り上げたという拳銃を見比べると、信じるべきは苗字であるような気がした。
「国木田、銃を」
乱歩に云われるが儘に国木田は彼に銃を渡した。乱歩は銃口をゆっくりと動かし標的を定める。苗字は慌てて走る。
「ニャア」
猫が退屈そうに欠伸をするのを合図に引き金は引かれた。猫に向けられて放たれた弾丸は苗字の跳躍の甲斐あって見事に回避された。
「外れちゃったか」
「何をするんですか、乱歩さん!」
簀巻きにされた男たちは安堵の表情を浮かべ、探偵社の調査員は驚いた。苗字に助けられた猫は発砲音に興奮し、その腕の中で暴れ始めた。
「不味いな」
乱歩は再び照準を合わせるが、苗字の腕が暴れる猫を庇うように伸びているのでなかなか引き金を引けない。事情を飲み込めない探偵社員の制止の声も邪魔だ。然し説明している暇もない。
「クソッ!」
狂科学者苗字がこの研究――ウイルスに並々ならぬ執着を抱いているのは確かであった。先程の反応から、苗字がこの弾丸がどういったものであるのか理解しているのは確かだ。猫を離せと云っても離さないだろう。
「ナァアアアァ」猫が徒ならぬ呻き声を上げると、辺りの街灯や窓のガラスが破裂した。
「ひっ! 怪奇現象!?」谷崎が怯える。「僕の村でも似たようなことがよくありました」賢治は笑っていた。
「怪奇現象ではない。生物を急激に進化させるウイルスの作用だ。こんなの、ほんの一端でしかない」簀巻きの男が云った。
猫の呻き声に続いたのは苗字の悲鳴だった。苗字の顔、首、腕には猫にやられたであろう引っ掻き傷と、歯形が残っていた。
「ウイルスの潜伏期間はどれくらいだ」乱歩は問う。
「血液循環と大体同速と聞いている」簀巻きの男が答える。
「これは人間にも打撃っていいやつだよな?」
乱歩は云い終わる前に引き金を引いた。二発の銃声が響いた。
騒ぎを聞きつけた近隣の住民が通報したため、簀巻きにされた男たちと乱歩は、事情聴取で駆けつけた箕浦たちに連行された。
「乱歩さんが撃ったあの弾丸は一体……?」
敦は全てを知っているふうな太宰に訪ねた。
「ワクチンだよ」
「ワクチン?」
「研究者というものはね、ウイルスを作るときにワクチンも一緒に作るそうだよ。彼女が事務所で我々に渡したあの遮光瓶もワクチンだったってわけ。差し詰め、あの簀巻きにされた男たちは名前ちゃんの研究の記録からワクチンを作り出し、対猫用にワクチン銃を制作したのだろうね」
敦は気を失った苗字を見る。猫の歯型から血管が肥大し皮膚を押し上げていた。酷い内出血を起こし赤黒く変色している。ワクチンでウイルスの進行は止まったのだろうが、この傷は綺麗になるのだろうか。
「名前ちゃん……だったかい? 瀕死状態にしてから妾が治してやろうか」
敦の心を読み取ったように、与謝野医師が楽しそうに笑んだ。
「とうとう明日は退院ですね」
敦は病院の一室を訪れていた。手には白い虎のぬいぐるみが抱かれている。
「欠かさず見舞いに来てくれてありがとう、敦君」
白いベッドに沈んだまま、苗字は云った。未だ、至る所に包帯が巻かれているが、瞳はしっかりと敦を捉えている。病院に運ばれた時のことを思えば、表情も柔らかくなり、随分と元気になったようだった。
「適合者は元気?」
「ええ。探偵社で猫好きの事務員さんがいて、彼女がムゥちゃんと名付けて可愛がっています」
「そう。善い名前ね」
敦は曖昧に微笑む。彼女はあの猫を本当に研究対象としてしか見ていなかったのだろうか。先日苗字に尋ねたが「動物は全部マウスにしか見れないの」と云っていた。どうもその目が悲しそうで、敦はそれ以上追及できなかった。
「名前さん、大学には――」
「今までずっと研究研究だったから、少し休もうと思ってるの。この三週間の入院生活は退屈なようで、今まで学べなかったことを学べだり、考えたりできたから」
「僕には学が無いから、ひとつしか変わらない名前さんがしてきた勉強も、研究も、凄いと思います」
敦が云うと、苗字は窓の外に視線を移した。
「あ! そうだ、これ。退院祝いです」
敦は腕に収まっていた白い虎のぬいぐるみを渡す。
「退院祝いってよく判らなくて……調べてみたんですけど、あんまり高価なものも購えなくて……すみません。この虎を僕だと思って可愛がってあげてください」
敦が布団の上に白い虎のぬいぐるみを置くと苗字はぐるぐるに包帯が巻かれた腕でそれを蹴散らした。「厭」と無邪気に笑う病人に敦は悲しい衝撃を受けた。籠に入った果物や金一封を渡すことはできないが、それはあんまりじゃないか! 床で静かに一回弾んだ虎を見て、敦は自分の心も一片欠けてしまったような気がした。
「退院したらあんなぬいぐるみに敦君を重ねさせて、はいさようならって、随分じゃない?」
「さようならなんて云ってないじゃないですか!」敦は抗議した。
「そういう口ぶりだったもん!」
「大体僕と名前さんは探偵者と元依頼人という関係ですし!」
「じゃあ期待させるようなことしないでよ!」
苗字の言葉に敦は先程までの勢いを無くし「へっ?」と間抜けな声を漏らした。
「名前さん……期待、していたんですか……?」
敦の頬には次第に朱が差し、心臓はゆっくりと鼓動を上げた。そんな敦の売り言葉を苗字は買うことなく「してないですけど!」と鼻息荒く苦情を入れた。
「じゃあ何なんですか!」跳ねた胸のときめきを返せとは云わないが、本心が知りたいのだ。敦は外交販売士のように粘った。何と云ったって「察してよ莫迦ぁ!」と云う苗字の表情に、粘らずにはいられないのだ。
「……名前さん。僕は頭が悪いので、ちゃんと云ってくれないと判りません」
「探偵社調査員としてどうなのそれ……」
苗字はひとつため息を吐き、観念したように口を開いた。
「毎日毎日お見舞いに来てくれるなんて、期待するにきまってるじゃない……」
云い終わらずにジワジワと赤くなる皮膚はまるで熟れた果実のようで、狂科学者なんかには見えず、年相応の過渡期の女だった。敦も釣られたように赤くなり、心臓はもう駄目だった。
「期待、してください」
敦は床に転がった白い虎のぬいぐるみを拾い上げ、苗字の口元に押し付ける。
「次は、そのぬいぐるみじゃなくて、僕がしますからね」
20161107
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「中島敦くんが1つ年上の彼女と恋人になるまでのお話」
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