初めて求めた家族


 誰かの泣き声と呻き声がそこら中から途絶えず聞こえ、横たわったまま動かない体がそのあたりにいくつも転がる。
 この国の中に僅かに存在する食料を巡って争いが起き、昨日生きていた人間が、次の日路上で横たわっていることはよくあった。
 ニューゲートが育った場所は、そういう国だった。
 世界政府に天上金を払えない国は、海軍からの管轄から外れ、海賊や人攫いが横行し、治安は最悪になる。
 金も食料もなく、孤児が増え、何人もの子どもが人攫いの手によって奴隷に落ちる。
 ニューゲートが今もこの国で生きていけるのは、この恵まれた体格と力があったからだ。
 しかし、それもいつまで続くかなんて分からない。
 同年代に比べ、背丈も力もあったって、所詮は子どもであることに変わりはないのだから。
 だからこそ、早く海に出たかった。
 苦痛しか思い出のないこの国から、早く抜け出したかった。

 国を出るには船がいる。
 もちろん、商船なんてほとんど来ず、来たところで乗せてもらえるとも思えない。
 誰かの船を奪わなければならない。
 すでに誰かの食料を奪い、生きてきた。今さらその対象が増えたところで痛くもかゆくもない。
 どこかやりたくないと叫ぶ心を、生きるためだと押し殺し、ニューゲートはひたすら機を待った。
 そして、ある日、一人の人物に眼をつけた。
 長いマントを纏い、フードで顔は見えない。しかし、マント越しにも華奢な体格なのは見て分かった。
(あいつにしよう・・・・・・)
 身なりが綺麗だ。この国の人間じゃない。
 外から来た人間だということは、船を持っているはず。
 しかも争いごとに強いようにも見えないし、なにより一人だ。
 周囲を見渡しながら歩くその人物を、コソコソと後をつける。こんな国に長居するはずがない。
 すぐに港に行くはずだと思っていたが、なぜかその人物はうずくまる子どもに声をかけ、羽織を一枚やった。
 次は倒れた子どもの怪我の手当。その次は生き倒れている老人。
 動けなくなっているものには、まず目線を合わせて声をかけ、死んでいれば手を合わせ、生きていれば水を恵み、食べ物と衣服を与えた。
(なにしてるんだ・・・・・・あいつ)
 この国で、他者に手を伸ばすヤツなどはいない。自分のことすらままならないのに、どうして他者に手を差し出せるのか。
 見ていて腹が立ってきた。金持ちの道楽かと思えてきたのだ。
 その一時だけ弱者に施してやり、優越感に浸っている偽善者。
 今、この者に一瞬だけ救われたって、この中の何人が一年後も生きているだろうか。
 いっそ、船と共に金品やら全てを奪ってこの国に置き去りにしてやろうか。
 そう思い、手元の薙刀を持つ手に力を込めた。次に隙を見せたら襲いかかろう。
 そうしてじっと観察を続けていれば、男は再び横たわる子どもの前にしゃがみ込んだ。
 背中は無防備。今だ――!
 飛び出そうとしたときだ。
 廃墟の影から飛び出しかけたニューゲートの足が、すんでのところで止まる。
 振りかぶりかけた薙刀は、そのままゆっくりと下ろしてしまった。ただ、眼の前の姿から視線をそらせない。
 ――ぽたりぽたり。
 白いフードの下から、きらきらと光るなにかが落ち、地面を濡らす。
 細く、白い綺麗な指が、倒れた子どもの遺体に触れた。多分、そう時間が経っていないのだろう。遺体はまだ腐っているようにも見えず、汚れてはいるものの綺麗だった。
 明らかに栄養の足りない肉と骨だけの体。ガサガサの肌ときしんだ髪の毛。頬に張り付いた子どもの赤毛を払い、丸みのない顔を、男は涙をこぼしながら撫でていた。
(・・・・・・どうして、お前が泣く?)
 他者のために泣いている人間を初めて見た。ここは、住んでいるだけで心が汚れていく。
 生きていくためには薄汚い手段に手を染めるしかなく、優しい人間ほど早く死ぬ。きっとこの子どもは、他者から奪うことが出来なかった者だ。
 途端に、ニューゲートは自分の手がひどく汚れている気分になった。
 薙刀を、こんなに重く思ったのは初めてだった。
 男は、すぐ背後にいるニューゲートのことにも気づかず、その少女の亡骸に手を伸ばした。男の向けられた手のひらから、ぼんやりと光が発現する。
 それを浴びた少女は、どこか身なりが綺麗になり、安らかな顔つきになった気がする。
 宥めるように、男の手はなんども少女の頭を撫でた。
 遺体に触れるなんてバカだと、吐き捨て、薙刀を向けられればよかった。ニューゲートには、それが出来なかった。
(いいなぁ、お前・・・・・・最後にそんなふうに撫でてもらえて)
 この国の子どもなんて、どうせ親から捨てられ愛情なんて知らずに生きてきた者だから。
 傷つける以外で人に触れたこともなければ、大人から温かな熱を分け与えられたこともない。
 あんなふうに、優しく撫でられた記憶なんて、あるわけがない。
 無性に泣きたくなった。
 羨ましいからか、それとも自身の境遇のひどさを改めて実感したからかは分からない。
 そうやってニューゲートが呆然と眺めているうちに、男は立ち上がり踵を返す。そのとき、背後にいたニューゲートに息を飲むように驚いていた。
 見下ろしてくる男は、美しい顔をしていた。
 垣間見える銀の髪と、海のように深い青が、ニューゲートを見下ろしている。
 逃げる気にはならなかった。
 ただ、男のその美しさに目を奪われ、
「お前、船を持ってるか・・・・・・?」
 と、ただ一言、そう言っていた。

 ◇◇◇

 男の美貌に眼を奪われ、呆然と言葉を発してしまったニューゲートだったが、すぐに我に返り、男の荷物を奪い去った。
 本来ならここで逃走するところだが、今回の目的はあくまで船だ。
 さほど荷物の入っていない鞄を手に、「俺を船に乗せろ」とじっと睨めつけ、男に言う。
 ニューゲートの言葉に、男はきょとりと眼をしばたたかせ、そうして「小舟だけれど・・・・・・」と、窺うように口を開いた。
「この国から出られればなんでもいい。とにかく他の島に行きたい」
「・・・・・・乗せるのはいいけれど、きみ、親御さんは?」
 もし、いるのならその人に話を通してからじゃないと、なんてあまりにも真っ当なことを言うので、ニューゲートはおかしくて笑ってしまった。
「この国で、親に愛されてるガキなんかいるわけねえ」
 キッパリと言い切ったニューゲートに、男は痛ましげに瞳を細め、「そう・・・・・・」と眼を伏せる。
 さきほどから転がる遺体への態度に、わずかな荷物すら恵んでしまう様子。どう生きれば、こんなにまで他者に心を砕けるようになるのだとうか、と疑問に思う。
「船に乗せてくれるなら荷物は返す」
「どこまで行きたいの?」
「・・・・・・とりあえず、次の島まで乗せてくれりゃいい」
 そんなもの、考えたことがなかった。
 ただ、ここから飛び出したい。海に出たい。それだけを思っていたから。
「いいよ。船はこっち」
 いとも簡単に頷き、男はニューゲートに背を向けた。
 慌てて追いかけて少し行くと、たしかに海岸の隅に、岩陰に隠すように小舟が停泊していた。
 海を渡るには、あまりにもおそまつだ。
 本当にこれでこの国までやって来たのか、と疑いの眼差しを向けたが、嘘をついているようには見えない。
「どうする? すぐに出る?」
「・・・・・・お前に合わせる」
 乗せてもらう側だ。あまり注文をつける気にはならなかった。
「なにか持っていくものは?」
 持ち物・・・・・・。
 いつだってこの手製の薙刀だけを持って、金を奪い、食料を奪ってきた。金を貯めたってこんな場所じゃ使い道もないし、いつ奪われるかもしれない。基本的に溜め込むこともない。
 困ったときのためにと残してある、わずかな貯蓄はいつだって身につけている。
「とくにない」
「そう・・・・・・なら、夜が明けたら出発しようか?  もう陽が沈んでしまうし・・・・・・」
 男の言葉にニューゲートは頷いた。出航するのは夜明けだが、船の上で一晩過ごすことになった。
 かすかに揺れる船の上での睡眠は慣れず、他人の気配があるのも落ち着かない。
 とっぷりと日が暮れて月が真上に来た頃。ニューゲートは、そろりと頭を起こした。
「……っ」
 晴れた夜空には月光を遮るものはない。海面に白い光がきらきらと波を作っている。
 ふいに振り返って、同じように寝ているはずの男を見て、ニューゲートは息をのんだ。
 男は静かに小舟の船尾に座っていた。
 たゆたう波の流れをひたすらに追うように、ぼんやりと見つめる姿はひどく幻想的で美しかった。
 月光によって浮かび上がる淡い銀の輝き、光を吸い込んで淡く輝く藍色の瞳。
 いつだって土と血に汚れた人間しか見たことのなかったニューゲートにとって、触れることさえ戸惑うような美しい生き物というのは初めてだった。
 昼の陽の下で見た男も眼を奪われる美貌をしていたが、今は異なる世界を生きる遠いものにさえ思える。
 息も止めて見入っていれば、男がニューゲートに気づいた。
 ドキリ、と藍色に見つめられると心臓が跳ねた。
「起きちゃった……?」
 首を傾げ、男が問う。ニューゲートは、男に見惚れていたことを知られたくなくて、眼をそらして口を紡ぐ。
 すると、そのまま男は勝手に解釈したらしい。
「……もう、揺れないから大丈夫だよ。気づかなくてごめんね」
 一瞬、意味を図りかねた。しかし、すぐに自身の体の動きが変わったことに気づく。
(船が……止まった?)
 さっきまで海岸に寄せる波でゆるく上下に揺らされていたのに、今じゃ陸地で腰掛けているようにピクリとも動かない。
(こいつが、なにかしたのか?)
 一体どうやって船をとめているのか。男は、変わらず船尾で行儀良く足を揃えて座っているだけだ。
「……なにをしたんだ?」
 ニューゲートの問いに、男はわずかに逡巡をみせた。しかし、そろりと細い指を一本口元に立て、「秘密……」と唱える。
 その途端、なんだか聞く気も失せてしまって、ニューゲートは再び丸まることにした。
 男が起きているなか寝ることに抵抗もあったが、昼間の子どもを撫でる手つきや涙が思い出され、とてもニューゲートを害するとは思えなかった。自分でも驚くほどに早く寝に入ってしまった。
 次に目が覚めたのは明け方近くの、空が白み始めた頃だ。
 ふるりと冷えた体に意識が覚醒する。無意識のうちになにかに縋るように顔をうずめ、はて? と首を傾げた。
(俺はなにに包まっているんだ?)
 ニューゲートの荷物は薙刀とわずかな金だけ。服は着ていたものしか持っていない。
 眠気の中、うっすらを眼を開けてみれば、白い柔らかな布に包まれていることに気づいた。
(……あの男の、)
 あの美しい男の羽織っていたマントだとわかり、ゆっくりと眼を映す。同じように船尾に腰掛けているのかと思ったが、丸まったニューゲートの横に座っているものだから、驚いて眼が開く。
 男はまたも海に眼を向けているから、ニューゲートが起きたことには気づいていない。
 まさか金が目的か、と薙刀に手を伸ばそうとしたが、急に男のしなやかな指が降ってきて、ニューゲートの肩に触れるものだから驚いて硬直してしまう。
 そのまま男の手は、とんとんと規則正しいリズムでニューゲートの肩をほとんど力の入っていない手で叩く。
(なんだ? なにをしてるんだ?)
 行動の意図が分からない。金や武器を奪うでもなく、マントをかけ触れる理由はなんだ?
 混乱しているうちに、男の手はニューゲートの頭に登ってきて、今度はそっと撫でるように触れてくる。まるで昼に見た光景のようだ。
 海を眺める男が、小さくなにかを口ずさむ。
(……うた?)
 ゆったりとした旋律は、ニューゲートには理解できない言葉で紡がれていた。しかし、どこまでも穏やかで温かな色をもつその歌が、どういう用途で使うものか、容易に察したがつく。
(見ず知らずのガキに子守歌か……)
 本当に、この男のことが分からない。今まで見てきた人間と――大人となにもかもが違いすぎる。
 しかし、不思議と嫌な気分にはなかった。ひたすらに胸に切ない痛みが走り、それなのに体は温かい。
 眼球がじんと痛んだので、ニューゲートは眼を瞑った。そうしないと、なにかが零れそうだった。

 
 ニューゲートは眼を覚ました。
 瞬きを繰り返し、明瞭になった視界には、薄暗いけれど見慣れたモビーに自室であることが分かる。
 ずいぶんと懐かしい夢を見た。
 子どもの頃から何度も見てきた夢だ。そして、日が経つごとに曖昧になっていく記憶だった。
 美しかった男の姿もはっきりとは思い出せず、夜の海を見る度に、あの瞳の色だけは忘れずにいられた。
 しかし、今日はずいぶんとくっきり男の姿をみることが出来た。一番初めに記憶から遠のいた声さえ、昨日のことのように耳の奥に蘇ったのだ。
 忘れないうちに月を見たかった。あの頃の情感を抱えたまま、セーラを思わせる月を見たかった。
 そうして身を起こそうとして、自身の体にわずかな重みを感じた。
「……ん?」
 視線を流すと、そこには薄暗闇でも分かる白銀の髪が流れている。
(ああ、そういや……見つけたんだったな……)
 己の横で、細い肢体を丸めて眠るセーラの姿に、ニューゲートはゆっくりと息を吐いた。
 マリンフォードでの戦争を終え、島に辿り着いたのは明け方のこと。一日中、息子の弔いに過ごしていた。
 エースは森へと姿を消し、その兄弟も各々迎えが来たことで島を去った。
 自分の息子を追いかけようとしたセーラを引き留めたのは、ニューゲートだ。一人の時間をくれてやれと、そう言えば心配そうな顔を隠しもせずにセーラは頷いた。
 外で寝るというので、ニューゲートがむりくり引っ張るように部屋に引き連れてきたのだ。
 最初は同じベッドに寝ることを遠慮していたセーラだったが、ニューゲートが言葉を重ねればしずしずとベッドに乗り上げてきた。
 昔のことを引き合いに出し、セーラの優しさにつけ込むような言い方をした自覚はあるが、こうも素直に来られると、いささか警戒心のなさに心配になる。
 ニューゲートに気を遣っているのか、端の方にちょこんと横になっていたセーラも、寝ている今ではニューゲートに寄りかかるようにして体を丸めている。
 きゅっとニューゲートの服の裾をもつ手は、記憶にあるものよりうんと細く小さい。
(あの頃は、随分とでかく見えたんだがな……)
 子どもながらに体格が良かった自覚はあるが、あの頃はまだセーラの方が背が高かった。
 この小さな手で、頭を撫でられたことを思い出す。
 昼間、ニューゲートが起きているときは決して触れようとはしないのに、寝ているときは子ども扱いしてくるのだ。
 それが、自分がうなされているからだと気づいたのは、二人での小舟の旅が始まってそう経たない頃だ。
 子どもも大人もとわない死体の山。家とも呼べないような辛うじて雨風のしのげる場所。
 夢で見るのは、いつだって故郷の記憶だ。
 寝苦しさに意識がだんだんと覚醒していく。しかし、どこからか柔らかななにかに触れられ、温かな音が耳に届く。
 そうすると、ふっと体が軽くなって呼吸が出来るのだ。
 わざと寝たふりをして、セーラの姿を盗み見るようになったのは、その頃からだった。
 最初に行き着いた島は無人島だった。次の島まで、という約束だったが、セーラは当然のようにニューゲートをそこに置いていく気はなかった。
 その島で、二人だけで少しだけ生活した。
 その間に文字や計算……生きていく上での必要なことを教えられた。
(お前がいなきゃ、どこかで野垂れ死んでたかもな……)
 しみじみと、ニューゲートはそう思う。
 そろりと、腕を動かす。指先を動かして、セーラの銀糸に触れた。
 さらさらと肌を撫でて落ちていく。細い肢体を肩で抱くように引き寄せた。
 寄り添う体は温かい。かすかに聞こえる吐息が、心地よかった。
(……お前が、子どもであることを教えてくれたんだ)
 ずっとニューゲートは一人で生きていた。
 人に寄りかかることを教えたのはセーラだ。気遣われることのこそばゆさも、心配される気恥ずかしさも、大人の温もりをニューゲートに教えたのはセーラだ。
 そして、ニューゲートが家族が欲しいと思うきっかけになった人。
 ニューゲートに愛情というものを教えた人。
 大人と子ども。二人だけの、ほんのわずかな旅の記憶。
 その頃の記憶が、心の奥で今も繰り返し蘇る。
(もう二度と会えないだろうと思ってたが……)
 それなのに、まさかこうして自分の腕の中にいるだなんて、どんなによく出来た夢だろうか。
 そろりと抱きしめてみる。
 セーラは起きる気配はない。腕を通してセーラの温もりが伝わってくる。
 トクトクと、鼓動がなる。自分のものかセーラのものか、分からない。
(家族になってくれって言ったら、お前はどうする)
 別れは突然だった。ある島に辿り着いたとき、様子が変わったセーラ。
 姿を隠すようにフードをかぶり、人混みを利用して屈み、ニューゲートに顔を近づけた。
 昼間――起きているときにセーラに触れられたのはあの時だけだった。
 そっと優しい腕に引き寄せられ、「どうか無事で」と祈りの言葉が聞こえた。
 セーラは荷物も金も、ニューゲートに託して姿を消した。
 瞬きのような、一瞬の出来事だった。
 セーラが追われているのだと知ったのは、その時だ。
 子どもだから、置いて行かれた。一緒にいれば、ニューゲートに危害が及ぶと分かっていたから。
 力がないことが悔しかった。守られる対象でしかないのが悔しかった。
(今なら、守ってやれる……)
 ずいぶんと長い時間離れていたんだ。家族になってくれなくても、船に乗ってくれなくても。
 少しの間ぐらい、こうして一緒にいることは許されるだろう。