幸せの匂い


 エースには母が二人いる。
 一人は自身の命をかけてエースを産み落としてくれた血縁上での母。そして、育ての親であるセーラだ。
 母というと、セーラは微妙そうな顔をするが、一心に愛情を向けて柔らかく包み込んでくる様は父と言うよりも母を彷彿とさせた。そのためエースは母親枠に認定している。
 セーラとしても、母と呼ばれることが嫌というよりも性別が男なのに何故母? と疑問に思っているだけなので、特に問題はない。
 育ての親であるセーラ美しい人だった。エースが生まれてこの方セーラ以上に美しい人を見たことがない。
 セーラが何者なのかエースは詳しく知らない。
 ただ、その存在を村の外の人間にバレたら一緒に居られなくなる、ということだけ知っている。
 ガープから嫌という程言い聞かせられたからだ。
 エースとしてもセーラと離れることは断固として拒否したいし、ガープの珍しくも真剣な眼差しにその約束が破られた時、セーラに危険が迫るということは幼いエースにも容易に想像できた。
 魔法、という不思議な力を使うセーラ。
 ダダンや村の人とも違うその力、そして人と似たようでいて異なる容姿。
 陽光を集めて輝く銀の髪は眩しく、夜の海のような深い藍色の瞳はいつだってエースを見て慈しみの色を宿していた。
 日に晒されたことのないような白磁の肌、エースとは違って僅かに尖った耳。
 節々で感じられるエースたち人間との違いは、セーラが人とは違う種族なのだと感じさせるには十分だった。
 そして、その存在が故に危険にさらされてきたのだということも。

 ダダンとガープは特にセーラに対して過保護だ。
 エースのことは平気で猛獣のうろつく山に置き去りにするし、すぐに拳骨落として叱責を与えるが、セーラに対してはまるで雲に触れるような力の入っていない繊細な手つきで触れる。
 エースとしてもそれに対して不満はない。
 だってセーラは上背こそそれなりにあるのだが、あまりにも華奢すぎるのだ。
 きっとガープなんかに握られたら簡単に折れてしまうだろう。
 それを言えば、当の本人はカラカラと笑って「私の身体はすぐに治るから大丈夫だよ」と、的外れな答えを返す。そんなところがガープやダダンたちの過保護さを助長させている。
 否定しないのか、とショックを受けたエースは、しばらくの間はガープがセーラの近くに寄るたびに間に入って牽制していたのは記憶に新しい。
 ガープやダダンたちが、エースが言葉を分かるようになって早々に言ったのは、セーラのことは村の外では一切話すなと言うものだった。
 ようやく歩き始め、言葉を交わすようになった幼児相手に、大の大人――しかも顔の厳つい二人が何度も繰り返し言いつける様は傍から見たら異常だろう。
 普段はそんなダダンたちの様子に苦笑して遠くから宥める声を送るドグラやマグラたちだって、その時は当然とでも言うような顔で見ているのだ。
 セーラだけが、「そんなに言い聞かせなくても」と困った顔で笑っている。
 自分の親であるセーラを誇りに思っていたエースは、それが不満だった。ぶすくれた顔をしつつもガープやダダンの手前頷いて見せた。

 エースは時折、セーラに連れられて山を下り、フーシャ村に顔を出す。
 あまりにもガープたちがしつこすぎたというのもあって、その時に不満を語ったのだ。
 すると、いつもは優しい笑みを浮かべているマキノたちが、揃って神妙な顔で「駄目よ、エース」と諭してきた。
 その時だろう。脅しとして用いられていた「一緒にいられなくなる」が、事実だと悟ったのは。
「セーラさんは、人間のせいで長い間苦しんできたの。だから、私たちはあの人の平穏を守らなきゃいけないのよ。エース」
 ――セーラさんが傷つくのはエースも嫌でしょう?
 マキノの言葉に、エースは頷いた。
 一緒にいられないことは嫌だ。だが、自分のせいで大好きな人が傷つくのはもっと嫌だ。

 セーラは愛情表現が豊かだ。基本的に家から出ないセーラは、ダダンたちが外に出るときは必ずその身体を抱きしめて「気をつけて」と零す。ガープなんかは帰ってくる度にその帰還を喜ばれて抱きしめられ、また海に出るときも同じように無事を願って抱擁を与えられている。
 そして、それがより顕著なのがエースに対してだ。
 おはようのキスから始まり、手伝いをすれば頭を撫でられ、調理中はこっそり呼ばれて味見をさせてくれる。
 あの細く白い指で髪を洗われ、寝るときは同じベッドで髪を梳かれて子守歌で寝に入る。
 ほとんど眠りに入った意識の中、おやすみのキスが落とされていることをエースは知っていた。
 大好きだと、愛していると、セーラは惜しみなくエースに伝えてくる。
「エースは幸せの匂いがするね」
 その華奢な身体よりも更に小さい幼いエースの身体を抱きしめ、セーラは度々そう口にした。
「幸せの匂いってなんだよ」
「胸がぽかぽかする匂いだよ。小っちゃいエースを抱きしめられるのも、少しの間だけなんだなって思うと寂しいけど幸せなんだよ」
「寂しいのに幸せなのか?」
「寂しいから幸せなんだよ」
 ――ほら、もう寝よう。
 頬を撫でられ、エースはぐりぐりとセーラに頭をすり寄せて目を閉じた。
(なんで、寂しいのに幸せなんだ?)
 当時のエースには理解できなかったけれど、「幸せの匂いがする」と言うセーラの声が、しみじみと感じ入るように微かに震えていたのは気づいていた。

 ◇◇◇

「忘れ物ない?」
「大丈夫だって」
 眉を垂れ下げて心配だと隠しもしない表情に、エースは思わず笑みがこぼれた。
 それを、これから向かう先への短慮なものと捉えたのかセーラはその白い両手でエースの頬を包んで言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「海を舐めちゃ駄目だからね? 本当に危険なんだから」
「わかってるさ、セーラ」
「本当かな〜?」
 セーラは未だにエースたちを幼い子供だと思っている節がある。
 今じゃセーラと変わらない背丈であるし、身体の厚みだってエースの方がある。間違っても彼の腕の中にすっぽり覆えるような子供ではない。
 いつまで経っても変わらない子供扱いへのちょっとした意趣返しに、エースは腕をセーラの腰に回して強く引き寄せた。
「わっ」
 エースが少し力を入れただけで簡単によろめく身体。それを正面から受け止め、エースはその銀糸に埋めるように顔を伏せた。
「ちゃんとわかってるって。母さん」
「それならいいけど・・・・・・」
 そろりとエースの背にもセーラの腕が回る。ふわりと微かな甘い花の香りが鼻に触れた。
 これは洗濯に使っている洗剤の香りだ。エースが子供の時から変わらない、セーラの匂い。
(これも、もう最後か・・・・・・)
 そう思うと、途端に寂しさが胸を襲い、次いで溢れるように今まで感じていたセーラや兄弟たちとの記憶と愛情が蘇る。
 ――ああ、これか。
 と、エースはいつか言っていたセーラの言葉を思い出した。
 寂しいから幸せ。
 これから訪れる寂しさを思うとき、今の幸せがより大きく深く感じられるのだ。
 きっと、セーラはそう言いたかったのだと思う。
「海には危ない人もたくさんいるから、あんまり信用しすぎないんだよ?」
「ああ」
「ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝て、元気でいてね」
「ああ」
「たまにでいいから顔見せてね」
「ああ」
「食事中に目が覚めても、ご飯粒つけたまま食べ始めちゃ駄目だからね? もう私が取ってあげないんだから」
 ああ、と同じように返事をしようとして別のものが迫り上がってきそうでぐっと堪えた。
 海に出るのはずっと前から決めていたことだ。その決定を覆すつもりもない。
 ただ、この人とは離れがたいと思ってしまった。
 自分に力があったら連れて行っただろうか。
 いや、セーラは今の穏やかな生活を何より尊び愛していた。きっと笑ってエースの側にいてくれるだろうが、この人には荒くれた船の上よりも同じ地で長く過ごす方が似合う。
 それに、もしエースが連れて出たとなれば、過保護筆頭のガープやダダン、そしてエースと同じようにセーラを慕うサボやルフィに何を言われるかわかったもんじゃない。
 まず、恨まれることは確定だ。
「じゃあ行ってくる!」
「気をつけてね!」
 背後から届いたふり絞った声に、エースは手を振って返した。
 花の香りが遠ざかる。
 それは石けんの匂いの時もあれば、肉の美味い匂いを漂わせているときもある。
 全部、セーラの、母の匂いだ。
(俺にとっての幸せの匂いは、全部セーラ・・・・・・アンタだった)

 フーシャ村の船着き場の片隅で、海を渡るには心許ないいかだに飛び乗り、村のものや兄弟たちに手を振って別れた。
 遠く映るコルボ山に目を向ければ、緑色で覆われた木々の隙間からキラリと銀の輝きが見えた。
 そこにいるだろう彼を思って、エースは一度大きく手を振った。きっとセーラも気づいたはずだ。
 鼻の奥に、あの花の香りがした気がした。
 しかし、すぐに潮風に流されてしまう。エースは胸に沸いた気持ちを振り切るように、島に背を向け、大海原へと目を向けた。


 これから約三年後――まさか自分を救うために公衆の面前に養母が現れるとは知らなかった、そんな男の船出の日。