いつか来る日

 
 フーシャ村の子供たちが物心がつくと、まず大人たちから言い聞かせられることがある。
「セーラのことは、何があっても外で話してはダメよ」
 セーラとは、美しい銀の髪をもつ、これまた美しい青年だ。
 大人になったマキノよりも細くみえるしなやかな手足。日焼けを知らない肌は昔と変わらず光沢を持ち、海の色をした瞳は、子供たちを見ると柔らかく垂れて笑む。
 フーシャ村で生まれたものは、誰だってセーラのことを自分の家族の一員だと思っているし、母が二人いるような感覚に陥るものは多いだろう。
 かく言うマキノだって、セーラのことを第二の母のように思っている。
 仕事が忙しい父や母に代わり、一緒に遊んでくれたのも、髪を結ってくれたのも、絵本を読み聞かせてキスをしてくれたのもセーラだった。
 父と母がマキノを愛してなかったわけじゃない。
 ただ、両親が仕事におわれていたせいでセーラとの思い出の方が多いだけなのだ。
 特にマキノは、寝る前にランプの明かりだけで照らされた室内で絵本を読んでもらうのが好きだった。
 夜特有の静かで涼やかな空気の中、隣に座るセーラの腰に抱きついて暖かな布団にくるまる。
 頭上からはセーラの落ち着いた声が降り注ぎ、それがゆっくりとマキノの身体に沁みて気づけば夢の世界に飛び立っている。
 完全に眠りに落ちる前、夢うつつな中で朧気に聞くセーラの声とその温もりで、自分の輪郭が分からなくなるような暖かい空気に包まれる瞬間が、マキノをたまらなく幸せにさせた。
 年を重ねて家の手伝いに駆り出されるようになると自然とセーラと二人で過ごす時間も少なくなり、絵本の読み聞かせなんてめっきり無くなった。
 それでも時々、お店の手伝いに来てくれるセーラが隣に並ぶ時、その白い指の先を追い掛けるとかさりと乾いた音とともにページをめくってくれるような錯覚がするのだ。

 大人になると、子供の時には見えてこなかったものが見えてくる。
 まだマキノが小さかったとき、隣に住む一人の老婆がなくなった。実の祖母のように慕っていた人だった。
 年のせいか少しずつ衰弱していき、ついにはベッドから起き上がれなくなってしまった。マキノが外で遊んでいると、家の前の椅子に座って微笑ましそうに見守って、声をかけてくれる人だった。
 いつも顔をしわくちゃにして笑っていて、穏やかな人だった。
 マキノはもちろん毎日のように見舞いに行った。子供ながらにもうすぐ会えなくなることが分かっていた。セーラも、毎日のようにその人のベッド脇で手を握っていた。
 色の抜けた髪を白い指で梳き、乾いた肌を撫で、その人の名前を呼んでいた。
 入ってはいけない。
 反射的に察したマキノが家に飛んで帰ると母が不思議そうにしていたが、隣家に視線を飛ばしてから合点がいったように頷いていた。
「ああ、セーラね」
 きっとその時のマキノの心情は、母にも覚えのある感情だったのだと思う。
 それから一週間もせず、隣の家は空き家になった。
 最後のとき、村の人が狭い部屋に集まる中、マキノは小さい身体で扉の所に立ち尽くしていた。
 瞼を開けることすら一苦労なその人の様子に、マキノはただ泣くことしか出来なかった。村の人はみんな悲しんでいた。
 外では燦々といつもと変わらぬ陽が強く照らしているのに、この部屋の中は、灰色の空の下で雨に打たれているような静けさとこもった匂いがした。
 辛うじてまだ息のあるその人が、小さく口を開けた。静まりかえった部屋に、掠れた声は存外大きく響いた。
「私が死んだら、あの人には見せないで」
 あの人、が誰かなんて村の者には簡単に分かった。
「ああ、分かってるって。安心して」
 傍にいた一人がその人の手を強く握って答える。その言葉に安心したように、眠るように息を引き取った。
 セーラは、最後まで来なかった。

 後から知った話だ。
 あの人自身が、セーラに最後の時は会いに来ないでと頼んだらしい。
 マキノは、どうしてあの人がセーラに会いたくなかったのかがわからない。だって見舞いに来たセーラを、あんなに嬉しそうに出迎えていたのだ。
 大好きな人と最後まで一緒にいたいと思うのは変なことだろうか。
 でも、そのあとに亡くなった村はずれのおじいちゃんは、最後はセーラと二人にしてくれと言い、その言葉通りセーラと二人で最後の時を過ごした。
 余計にマキノは隣人だった女性の言葉が不思議だった。
 けれど、マキノも大人になってくると少しずつ、少しずつだが彼らの心がわかるようになってきた気がする。



「・・・・・・んっ」
「起きた? マキノ」
 薄く開いた視界には、見慣れた自室の天井が見えた。そして隣にはあの美しい人の姿が。
「・・・・・・セーラさん?」
 どうして自分は寝ているんだろう。今日はいつも通りお店を開けて、仕事をしていたはずなのに。
 しかし、その問いはすぐにセーラの言葉でもたらされた。
「お店で倒れたんだよ。熱も痛みも取り除いたから大丈夫だと思うけれど、疲労は取れないから、今日は休んでいなさい」
「うん・・・・・・」
 確かに身体が重い。でも、ぐらぐらと揺れるような頭痛も、喉の痛みもなくなっている。
 セーラの指が、マキノの額に触れる。ひんやりとした冷たさが伝って、心地よさに目を閉じた。
 昔からそう。少し冷たい、指の感覚。マキノが寝かしつけられていた時と変わらない。
 あの頃はセーラの片腕で抱き上げられるほどの小ささだったマキノも、今じゃほとんどセーラの背丈と変わらない。
 セーラだけが、何も変わらない。
 その意味に気づいたとき、きっとマキノは彼らの選択の意図を悟った。
「セーラ〜、マキノ大丈夫か?」
「タオルとゼリー持ってきたぞ」
「氷のうはいるか?」
 子供の声が三つ、部屋にやってきた。
「このまま休んでいれば大丈夫だよ、ルフィ。エースとサボもありがとう。そこのテーブルに置いてくれる?」
 カチャリと食器か何かの置く音が聞こえて、すぐに小さな丸い頭が三つひょこりと飛び出てきた。
 いつも元気な子どもたちが、一様に心配そうにしている。
 「大丈夫よ」とマキノはへらりと笑って手を上げて答えた。途端に、子供たちの顔が綻ぶ。
「今はマキノも疲れてるから、あとでまたお見舞いにおいで。ダダンに頼まれた手伝いも残ってるでしょう?」
 ゲッと顔を歪めて舌を出した三人の子供たちの頭を順番に撫で、セーラが促すように肩を叩く。すると、いつもならもっと渋るルフィだって渋々ではあるが足を動かす。
「じゃあな、マキノ!」
「寝れば治るぞ!」
「早く良くなれよ!」
 賑やかな声に、もう一度手を上げて答える。確かに疲労のせいかそれとも一度熱を出したからか、身体のだるさは残っていた。目を閉じればすぐに眠れそうだ。
「ゼリーあるけどどうする? 食べられそう?」
「ううん。今は大丈夫」
「そっか。じゃあ冷蔵庫で冷やしておくね」
 おぼんを持って立ち上がった姿に反射的に名前を呼んでいた。
「セーラさんッ!」
「ん? どうした、マキノ」
「あの、手を握っててくれない?」
 言ってから、何を子供みたいなことをと恥ずかしくなった。もう成人した立派な大人なのに。
 それなのに、セーラは小さく何かを呟いておぼんを独りでに浮かせて廊下の向こうにやると、すぐにベッド横に座り手を握ってくれた。
 そうするのが当然のように。
 触れる手の温もりに遠い記憶が蘇る。今じゃ変わらない手の大きさに、寂しさを感じた。
「シシシ、マキノ子供みたいだな」
 まだいたの、ルフィ。なんて声に出来ずに思った。
 セーラの子供はあなたたちだけじゃないんだから良いでしょうって、大人げないことを思って開き直る。病人の時ぐらい、ご褒美があってもいいじゃない。
「おやすみ、マキノ」
 小さく隣で落とされた声に頷く。ちゃんと頷けたのかはわからないけれど。
 もし、私がこのまま年を取って命を終えるとき、こうやってセーラに手を握って貰うだろうか。それとも、残されるこの人に死に顔を見せずに行くだろうか。
 どちらを選択するだろう。
 でも、どちらを選んでも。それはこの人への愛故だと言うことを、マキノはよく知っているのだ。