お兄ちゃんと一緒


 勉強の息抜きに外の空気でも吸ってきなさい、と母から渡された回覧板片手に依織は潔家の前に来ていた。
 インターホンを押そうとした所で突然子供の泣き声が外まで響く。
 (世一……?)
 多分、リビングがある辺りからだ。
 潔家は近所で母同士が仲がよく、頻繁に出入りしているので構造は熟知している。
 (いま押したら迷惑かな……いや、でも回覧板があるし……)
 うーん、と数秒悩んだ末、依織はインターホンを押した。
 (ごめんなさい、渡したらすぐに退散するので……!)
 ピンポーンと軽快な音が響き、すぐに伊世の声が応える。
「はーい。あら、依織くん?」
「こんにちは。回覧板持ってきました!」
「はーい! すぐ取りに行くわねって、あら、よっちゃん?」
 プツンと音声が切れ、依織はどうしたんだろうと首を傾げた。
 しかし、すぐにドタドタと足音が玄関に向かってきたと思えば、勢いよくドアが開く。
「依織にいちゃん!!?」
「世一! こんにちは」
「こんにちは! 遊びに来たの!?」
 世一は靴下のまま外に飛び出て依織の腰に抱きつくので、慌てて両手で抱え上げた。
 さっきまでの泣き声はどこへやら。そんな片鱗は一切なく、世一はウキウキと期待の滲む顔で笑っている。
「よっちゃん靴も履かずにダメじゃない、もう〜……ごめんね、依織くん」
「いえ……あ、これ回覧板です」
「あら、ありがとう。よっちゃん、ほら中に戻りなさい?」
 伊世に促されて促されるが、世一は依織の首にぎゅうと抱きつき顔を背けて「やだ!」と全力拒否の姿勢。
「だって依織にいちゃん最近ぜんぜん遊んでくんないんだもん! 離したら帰っちゃうだろ!」
「依織くん受験生なんだからしょうがないでしょう? お勉強の邪魔しちゃだめよ」
「ごめんね、世一。受験が終わったらまた遊べるから」
 己の母と依織の視線を受け、そろそろと顔を上げた世一は堪えるような顔で上目遣いに依織に問う。
「じゅけんって、いつまで?」
「うーん・・・・・・明けましておめでとうってしてちょっと経ったら?」
 依織が志望している公立高校の受験時期は二月の下旬。
 正月からちょっとどころではないのだが、正直に言ったらショックを受けるかと思って少しぼかして答えてしまった。
 しかし、現在十月。
 年が明けるまで二ヶ月、と言う時点で世一にとっては長すぎるものだ。
「やだやだやだ〜〜!! 明けましておめでとうまでやだ〜〜!!」
 幼稚園に入って、聞き分けが出てきた世一だったが、大好きなお兄ちゃんと離れるのは苦行だ。
 以前ならばほぼ毎日のように顔を合わせ、時にはお泊まりだってしていたのに今年の春からはお泊まりゼロ。会えるのも週の半分以下という激減具合。
 やっと会えたと思ってもほんの少し喋っただけでバイバイだ。
「今日は一緒にいる〜〜〜!!」
「もう、よっちゃんダメでしょう?」
 こっちにおいで、と伊世が腕を伸ばしたが、世一はぶんぶんと頭を振って断固拒否。
 小さい身体全部を使って己にしがみつく世一を見下ろして、依織が伊世に微笑む。
「伊世さん、少しだけお邪魔してもいいですか?」
「あら、でもお勉強はいいの?」
「ちょっとぐらいは息抜きになりますから」
「依織にいちゃん、あがってくの?」
 そろそろと顔を上げた世一が、期待を覗かせた顔で言う。
 こくりと依織がうなずくと、パアッと花が咲いたような華やかな笑みを宿した。
「お泊まりは出来ないけど、ちょっとだけ世一と遊べる時間はあるよ」
「や、やった!! じゃあサッカー一緒に見よう! 父さんからチャンネル奪い返してくる!!」
「そこまでしなくても・・・・・・」
 さっきまでの頑固な様子とは打って変わり、軽やかな動きで家の中に戻っていく世一。
 そう経たずに一生の戸惑う声が聞こえたきた。
「依織にいちゃん、はやく〜!!」
「よ、世一〜ちょっとニュース見るだけだって〜」
「ダメだよ! 依織にいちゃんとサッカー見るんだから!」
 「そんな〜」と困り果てた一生の声と楽しげな世一の声が交互に届き、思わず依織と伊世は顔を見合わせて微笑んだ。
「依織にいちゃん〜?」
 ひょこりと顔を覗かせてきた世一に、「今行くよ」と声をかけ、依織は潔家に足を踏み入れた。


(あ、そろそろ帰らなきゃ)
(やっぱ泊まってかない?)
(ごめんね、世一。受験終わったらまたお泊まり来るよ)
(ほんとに?)
(うん)
(約束だかんね?)
(うん。ゆびきりしよ)