かみさま、どうか

 幼いアパルの世界は、ひどく狭いものだった。
 知っているのは、大人の荒い息の音とべたべたと肌を撫でる不快な手。ゴミや死体が転がる道路。体の中をぐちゃぐちゃにされる熱と痛み。
 汚いものばかりが視界を、耳を、頭を埋め尽くす。
 自分たちが住まうフランスは、世界からは随分と華やかな国としてみられているらしい。こんな薄汚くて地獄みたいな場所は、郊外であるスラム街だけだと。
 そう教えてくれたのは、珍しくこの地区の外から来た身綺麗な男だった。
 気怠さの残る体でベッドに横たわるアパルの髪を梳きながら、うっとりと微笑んで教えてくれた。
「アパル、きみは本当に美しいな……本当についてこないのかい?」
 君なら喜んで連れて行くよ?
 そう言って外の世界へと誘う手を振り払い、アパルは脱ぎ散らかされた服を纏う。そして、滅多にみない真っ直ぐ伸びた綺麗な紙幣を持って部屋を出た。
「俺はここを出ていかない」
 振り返り、最後にそう言い捨ててドアを閉める。
 いくら他の客より身綺麗で優しく触れてくると言っても、十を過ぎたばかりの子どもを金で買って抱くような大人だ。
 一緒についていってこの地獄を出られたとして、縋る者があいつしかいないような生活はまっぴらだ。
 外に出て裏路地に入る。途端に鼻につく腐敗臭に顔を歪めて早足で通り過ぎた。
(それに、一人で出て行くわけにはいかない)
 アパルには家族がいる。汚いものしかないアパルの狭い世界で、唯一温かく綺麗で優しいもの。
 あの男は、アパルには興味があってもその子を一緒には連れて行ってくれないだろう。万が一、連れて行ってくれたとして、その子にまで手を出されるようなことがあれば、アパルはきっとあの男を殺してしまう。
 路地をぐねぐねといくつも進み、そのうち薄汚れた壁の集合住宅が現れた。至るところでガラスは割れ、壁にはヒビが入っている。
 こうした集合住宅には、狭苦しい一部屋に十何人と人がぎゅうぎゅうに詰め込まれて生活しているのが普通だ。しかし、アパルはもう一人の子どもと二人で暮らしていた。
 本来、子ども二人で部屋なんて借りられる訳がない。
 しかし、幸運なことにアパルは金を稼ぐ手段を持っていた。金さえあれば、部屋を一つ借りるぐらいは出来る。ここでは、金だけが全てだ。
 東洋人だった母譲りの真っ白な肌と漆黒の髪。男にも女にも見える中性的な美しい顔立ち。
 例え男であったとしても、アパルがそっと身を寄せるだけで鼻の下を伸ばして触れてくる男なんて、このスラムにはごまんといる。
 大人でさえハッとたじろぐような美貌のアパルは、そこらで体を売る女よりもよっぽど高値で売れた。
 そのおかげで、未だにあの子と二人でこの地獄みたいな世界でも細々と幸せに暮らしているのだ。
「ただいま、ノア」
「アパル!」
 立て付けの悪いドアをノックして開けると、中から軽い足音をたてて子どもが一人かけてくる。
 短い白髪に金の丸い瞳を輝かせた子ども――ノアを、アパルは身を屈めて受け止めた。
 ノアが五歳の子どもとはいえ、アパルもまだ成長途中の体。受け止めるとその衝撃で、さっきまでの行いのせいで弱った体に痛みが走った。
 歯を一瞬だけ食いしばって耐え、すぐに笑みを浮かべてノアを見下ろした。
「アパル、お仕事もう終わったの?」
「そうだよ。今日は早く終わったんだ」
 うっとおしい客だと長時間拘束されることもある。しかし、ときどきふらりとやってくる地区外のあの男は、金払いもよく身なりも綺麗で不快感も少ない。おまけにそう長い時間体を明け渡さずに済むので最高の客だ。
「やった! じゃあ今日はずっと一緒にいられる?」
「うん」
 頷くと、子どもはますます瞳を輝かせてアパルの体に抱きついた。小さな体を抱きしめ、アパルはその子ども特有の高い体温をしみじみと感じる。
 この世界の綺麗なものを全て詰め込んだら、きっとこの子どもの形をしているに違いない。
 アパルはそう信じ、疑ったことはなかった。
 このスラムでは、親のいない子どもはたくさんいる。赤ん坊の死体を見たのだって一度や二度じゃない。
 たまたま通りかかった道で見た赤ん坊のノアが、まだ息をしていたのは奇跡だと思った。そして、赤ん坊が笑う度にアパルの胸に温かな感情が湧く。
 初めて体を売ったとき、あまりの痛みと苦しみに悲鳴を上げたのを覚えている。けれど、初めて手にした紙幣と家で母が待っていたから高揚とした気持ちでやり過ごせた。
 でも、その後はだめだった。
 一人きりであの苦痛には耐えられない。自分のためだけにあの苦しみに身を委ねる気にはなれなかった。
 けれど、ノアのためなら耐えられた。
 この子に綺麗なものだけ与えたい。綺麗なものだけ見せたい。
 そのためにわざわざ部屋を借りたし、食事だって出来るだけノアの好きなものを与えている。まあ、こんな地獄で手に入る食材なんて、たかが知れているけれど。
 まあるい頭に頬を擦り寄せると、ほのかに汗の匂いがした。
「ノア、今日もサッカーをやってたの?」
「うん! 向こうの広場でみんなで集まっていたんだ!」
「そっか。楽しかった?」
 そう訊ねると、ノアはニッコリと笑って元気よく頷く。その笑みに、再びアパルの胸に幸福が吹き込む。
「でもノア……あまり一人で外に出ちゃダメだよ。危ない人がたくさんいるんだから……」
 けれど、すぐに諭すように言うアパルに、途端にノアはいじけた顔をして唇を尖らせた。
「アパルはいつも一人で行くじゃないか……」
「俺はいいんだよ。お仕事だから」
 すぼめたノアの口をちょんとつついてアパルが笑うと、ノアは恥ずかしそうに視線を逸らし、そうして窺うように再びアパルを見た。
「……俺だって、お仕事できる」
「ノア。前にも言ったよね? きみは仕事なんてしなくていいんだって」
 きっぱりと、アパルは言う。いつだって柔らかにノアのことを包んでくれるアパルの声は、このときだけは鋭く尖る。
 怯えたようにノアは肩をふるわせた。それを詫びるように、アパルはそっとノアの体を抱き寄せた。
「ありがとうノア。俺のことを気にしてくれたんだよね? でも大丈夫だから。ノアはサッカーにだけ集中してくれていればいいんだよ」
 とんとん、と背中を叩くとしばらく経ってノアは渋々頷いた。
 このやり取りは今までに何度だってしていて、決してアパルが譲らないことを知っているからだ。
 そして、アパルもまたこうして丸め込めばノアが頷くことを分かっていた。
(この子は知らないままでいい……)
 ノアは、アパルがどうやって金を手に入れているかは知らない。けれど、子どもであるアパルが、このスラム街でいうところの大金を持って帰ってくることに疑問は抱いているだろう。
 その度に、アパルはノアを抱きしめ耳元で「大丈夫。心配いらないから」と甘く囁き子どもの追求を躱していた。
(ノア。ノア……俺の大事な大事な宝物。いつかお前がここから羽ばたくその日まで、俺にお前を愛して守らせて)
 ノアには才能があった。
 サッカーなんて知らないアパルでも分かるほどに、この子はサッカーに愛されている。
 いつか世界がこの子を見つけてしまう。そして、自分はそれまでノアをこの地獄から守ることが使命なのだと、アパルはそう思っていた。
(あの日、薄暗い路地で金の光を見つけたときから、ノアは俺に役目をくれたんだ)
 ――早くこの子を地獄の外に送ってあげたい。
 ――ああ、もっと一緒にいたい。抱きしめたい。
 相反する思いが、アパルの中でごちゃごちゃに混ざり合い、体を押しつぶそうとする。
(でも、引き留めちゃダメ。俺のためにも、ノアのためにも……)
 いつか来るその日を思い、アパルの胸が熱くなる。
 この子が綺麗でいてくれることだけが、今のアパルの生きる道しるべになっていた。
 そのためなら、自分の体なんていくらでも差し出せる。いくら汚れたって構わない。
 ――役目を果たしたら、
 耳の奥で、女性の声が木霊する。
(そう。役目のためなら、俺はなんだって出来る……)
 アパルは今日も腕の中の幸福に感謝し、心の内で誓いを立てた。


 それから十年が経ち、ノアがプロリーグの監督に気に入られて家を出ることになった。
 スラムの広場で、大人相手にボール一個で賭け事をしては荒稼ぎしていて、約五年ほど前――ノアが十を超えたぐらいからはほとんどノアのお金で生活できるようになった。と言っても、贅沢が出来るわけじゃない。
 アパルも仕事をやめた訳ではなかったが、「今まで育ててもらったんだから今度は俺が稼ぐ」とノアに言われてしまい、頼っているのが現状だ。
 さすがに年下の子ども相手に養ってもらうのも居心地が悪い、と度々仕事に行っているが、一度無断で外に出ると一週間は家から出してもらえない。
 そのため、結局仕事に出向く回数は昔に比べればうんと少なくなった。
 ノアは毎日のように広場に行って、ボールを蹴って大人たちの間を駆け抜け、最後にはゴールを決めては賭け金をもらっていた。その圧倒的な強さはすぐに噂となって広がり、興味をもってスラム街を訪れたのが、サッカークラブの監督をしているという一人の男だった。
 ぜひ、ノアをチームに迎え入れたいと言い、保護者であるアパルにも話を通しに来た。もちろん、すぐに頷いた。
 そうして、夢にまでみたノアの外への世界の出発は明日に控えていたのだが……。
(なんで、こんなことになってるんだっけ?)
 薄く固い布団の上で、アパルは呆然としていた。
 すでにアパルと同じぐらいには大きいノアが、馬乗りになるように覆い被さっている。
 アパルの天使であるその子の顔は、今は傷ついたように歪んでいた。
 慰めてあげたい。けれど、両手は縫い付けるようにノアの手で押さえられていて、ピクリとも動かせない。
 どうして? さっきまで珍しく奮発した食材で料理を作って、二人で明日を祝っていたのに。
 それなのに、この子はどうして傷ついているのだろう。
「……ノア? どうしたの?」
 アパルが問えば、ノアは途端に顔を険しくして呻く。
「どうしただと?」
 あまりにも低く、恨みがましげな声だ。アパルは、初めて聞くノアの声に、びくりと怯えてしまう。
 ずい、と身を乗り出したノアは鼻先が触れ合うような距離で囁いた。
「どうして俺がお前一人こんなところに置いていくと思った?」
 問い詰めるような声に、アパルは混乱する。
 どうしてそんなことを訊くんだ?
 たしかに、ノアと一緒に晩酌を楽しんでそろそろ寝ようかと言っていた頃だ。
 布団に入ろうとしたところで、ちょっと感傷ぎみにアパルは言ってしまった。
「明日でノアと一緒にいられるのも最後だね」
 そして、気づいたら布団に押し倒されていたのだ。
「俺を一人追い出し、お前はどうするんだ? あの男と一緒にでもなるのか?」
「あの男?」
「外から来る優男だ。いつもお前のことを呼びつけるだろう」
 威嚇するように声を低くしたノアの言葉に、ああ、と一人の人物が思い浮かんだ。
 昔から、アパルを抱きにわざわざ外の地域からこんな地獄に足を踏み入れる酔狂な男だ。
 体も無茶はされないし金払いもいいからと、アパルはその男の呼び出しを断ったことはなかった。けれど、ノアに勘づかれるようなヘマはしていないはずだ。
「なんで、知って……」
 まさかアパルが体を売っていたのを、この子はずっと知っていたのだろうか。
 恐怖が足元から這い上がる。アパルなんかの体で稼いだ汚いお金で己が育ったのだと知って、ノアはどう思っただろうか。
(怖い、怖い……)
 この子に失望されたら生きていけない。青ざめた顔で震えるアパルを見下ろし、ノアはふと表情を和らげた。
「アパル、俺がどうして毎日のように賭け事に励んでいたと思う?」
 金の目が、すうっと細まって距離が近くなる。
「顔も知らない男に、お前の体を触らせないためだ。なのに、俺がお前をここに置いていくと思うか?」
 なにがあったって、お前を手放すことはない。
 囁くような小さな声なのに、思わず息を呑むような威圧感があった。
 この子は、誰だ?
 アパルの頭はさっきからめまぐるしく回っていた。
 天使のようなノアは一体どこに行ってしまった? こんな、大人の男のように欲を孕ませたような目で見下ろしてくる男は誰だ?
「……はっ、あ……」
 息が吸えない。はくはくと口を戦慄かせるアパルを見て、ノアは今度は柔らかく笑むように目を細めた。
 ようやく目の前の美しい男が、自分を人間として認識したのだ。こんなに喜ばしいことがあるだろうか。
「アパル……明日からも、その先もずっと一緒だ」
 天使の顔をした男がうっそりと呟き、アパルの唇を撫でた。吐息ごと男に覆われて、アパルは現実から逃げるように目を閉じた。

 その後、夜明け近くまでノアの手によって快楽に突き落とされ、アパルは最後には意識を失った。
 ようやく見ることの叶った愛しい人の姿に、ノアは頬にキスを落とし、眠るアパルを迎えに来てくれた監督の車に抱えて乗り込んだ。

 アパルが目を覚ましたとき、見たこともないような綺麗な住居の一室で寝かされていた。
 窓の外は、青い空と緑の芝生が広がっていて、ゴミもクスリに狂った人間も転がってはいない。
 ああ、本当にあの地獄を出てしまったのだ。
 そう実感させられ、昨夜のことが夢ではなかったのだと突きつけられた。力を無くし、アパルは初めて触れる柔らかな布団に膝を崩して座り込む。
「かみさま……」
 俺の役目は、あの子を外へと導くためではなかったのですか?
 神さまが与えてくれた役目は……ノアはどうしてしまったのですか?
 祈るように呟いたって、誰も答えてくれない。
 ――役目を果たせば、
 記憶に焼き付いた赤い唇が、言葉を紡ぐ。
 ああ、とアパルは嘆くように天井を見上げた。
(神さま、俺はどうしてまだ生きているのですか?)
「……ママ」
 沈黙に耳が痛くなるような錯覚を覚え始めた頃、アパルは縋るようにそう呼んだ。
 ふいに、背後から喉に手を回された。まるで母を呼んだ自分を咎めるように、大きな男の手が首筋を撫でる。
「あ……」
 節くれ立った男の手が、アパルの顎を上げる。見上げた先には、天使の皮を被った男がいた。
 途端に、息が出来なくなる。
「アパル、言っただろう? お前を手放す気はない」
 ――例え、神さまやお前の母親が相手だろうと。
 耳朶に響く低い声に、喉が震えた。
 受け入れたくない現実に、背筋が粟立つ。そんな恐怖の中でも、男の瞳はどこまでも輝かしい金の色を称えていた。

3まで書けたので、最初の一話もそれに合わせて修正かけました。大筋は変わってないのでご安心ください。