かみさま、どうか2
「役目を果たせば、神さまが天国に迎え入れてくれるのよ」
ボロボロの小さな部屋で、母はしおれた布団の上に横たわりながらそう言っていた。
昔はふっくらと艶のあった真珠のような肌は、今は青白く痩けている。自慢だった黒い髪も、パサついて乾いていた。
仕事のためにと唇にはルージュが引かれていて、その赤がアパルの目に焼き付いていた。
――アパル
真っ赤な唇が呼ぶ。
「私の役目は、アンタが独り立ちするまで育てること」
呟く母はくたびれた老人のようなのに、瞳だけはまるで少女が夢見るようにきらめていた。その日を待ち遠しく思うように……。
そのうち母は起き上がることも出来なくなって、母の職場の人間からはアパルに声がかかるようになった。
――ママのために、アパルがお仕事する?
まだ五つになるかならないかの子どもに、若い男はにこやかに笑って囁いた。
喜んで頷いたアパルは、それから数日とせずに仕事についた。
大人の男にのし掛かられ、隅から隅まで汚い手に触れられて舐められて、自分の体が汚されていく痛みと不快感に耐え抜く仕事に。
初めて手にする紙幣を小さい手に押し込めて、痛む体を引きずりながら家に帰った。
(これでママ、元気になるかな!)
胸が弾む心地を知ったのはその時だ。体は鉛のように重く、内側から痛みが走るのに、そんなこと気にならないほど高揚としていた。
「ママ! お金もらってきた! これで元気になって!」
駆け込むように家に飛び込み、そうして母に声をかけた。けれど、うんともすんとも言わない母にアパルは首を傾げる。
「ママ?」
普段と変わらず布団の上に横たわる母に、そろそろとアパルが近づく。
母は眠っていた。少女が安らかな夢を見ているように口元を緩め、幸せそうに笑って眠っていた。
そして、もう二度と目を覚ますことはなかった。
アパルが初めて客を取った日――母は、役目は終わりだとでもいうように眠るように死んだ。
きっと神さまに天国に連れて行ってもらったんだ。
幼いアパルは、母の言葉を信じて思った。母は枝のような皮膚と骨だけの体から解放されて、昔の美しい姿で天国に召し上げられたのだと。幸せに空の上で生活していると思えば、淋しさも薄くなった。
だからアパルは、毎日毎日、薄汚れたスラムの空を見上げて祈る。
(神さま、俺の役目はなんですか?)
どうしたら、俺はママと同じ天国へいくことが出来ますか?
でも、どれだけ訊ねても空は――神さまは答えてくれなかった。降ってきたのは冷たい滴だけ。
毎日毎日、痛む体を引きずって客の相手をして、そうして激痛で気絶するように眠りに落ちる。
幼い体も心も、簡単に疲弊していった。
(役目も終えずに死んじゃったら、ママと同じところには行けないのかな……)
そう思うと、さらに心が沈んでいく。
役目もない自分は、なにを道しるべに生きればいいのか――。
真っ暗な道を歩いていたアパルだったが、ふいに耳がなにかを捉えた。
かすかな子どもの泣き声だ。気づけば足はその声の出所を探っていた。のろのろと薄暗い路地を歩いて行った先で、ゴミ山の上に赤ん坊が布きれに囲まれてうずまっていた。
そろりと腕に抱える。赤ん坊は幼いアパルの手には重かった。ずしりと腕にかかる命の重みに恐れを抱き、このまま放り出してしまおうかとも思った。けれど――。
「あ、あう?」
子どもがゆっくりと瞼を開けた。煌めく金の瞳が、アパルを映す。
「きれい……」
柔らかな白髪に、路地の暗さにも負けないきらきらした瞳。その輝きは、アパルの真っ暗だった道に光を差し込んだ。
ああ、神さま……。
(俺の役目は、この子を守り育てることなのですね)
アパルは、震えるような歓喜に鼓動を高鳴らせた。母が死んでからすっかり静まりかえってしまっていたアパルの命の灯火が、ノアに出会った日に息を吹き返したのだ。
そうして、アパルは無事にノアが大きくなって外の世界へと旅立つ日まで、役目を全うした。
――しかし。
なぜか自分は今もこの世界で生きている。
ノアに連れられてフランスの都市部に移動したアパルだったが、ノアはフランスのプロリーグで数年活躍し、その後は世界の色んなチームを渡り歩いた。
もちろん、どこへ行くにもアパルは一緒に連れて行かれた。
スラムを出てからのアパルは、天に召し上げられるタイミングを逃してしまった絶望と、自分の天使に裏切られた憎しみと失望で無気力に生きていた。
ノアに話しかけられたって大した受け答えもせず、ただ手を引かれてどこへでもついていく。
養ってもらっているのに、家事やらと全てを任せるのも忍びなく、料理や洗濯、掃除などは全てアパルが請け負った。
そんなことやらなくていいとノアは言うけれど、なにもせずに生きている方が辛い。
それに、ノアを憎む気持ちも裏切られたという思いもあれど、自分の身よりも大事に思っていた愛しい子だ。ただでさえスラムの外の環境に慣れないなか、過酷な練習に続いて家でのことまでやらせたくはなかった。
そんな生活が何年も続き、アパルたちは今はドイツに住んでいた。
「おい、今日もノアと人形ごっこか?」
年かさのない少年の声に、ロビーのソファに座っていたアパルは顔を上げた。そこには綺麗なブロンドの髪を揺らした美少年――バスタードミュンヘンの下部組織に所属するミヒャエル・カイザーが立っていた。
彼は、少年とも少女ともとれるような美しい顔を歪ませ、アパルを見下すように碧い瞳を眇めていた。
サファイアのような青海には表情の欠けた――それこそ人形のようなアパルの姿が映る。
ノアが、チームの練習場にアパルを連れ込むのは日常のことであり、その条件を事前に呑ませてから移籍を決定しているというのだから、馬鹿な子だなと思う。
条件を出されたチームの責任者も、ノアの家族ならばと無関係な人間の出入りを許可しているし、アパルがエントランスの待合ロビーからほとんど動かないこともあり、他の選手たちからも文句は出ていない。――ごく一部を除いては。
そのごく一部の代表格が、このミヒャエル・カイザーだ。普段ならば、同じ年頃のネスも一緒にいるが今日は姿が見えない。
まだ十を過ぎたばかりの子どもだが、ノアが気にかけるほどにはサッカーがうまいらしい。アパルは直接見たことがないので分からない。
きっと見たってサッカーの良し悪しは分からないけれど……。
迷惑をかけないように静かに座ってノアを待っているけれど、カイザーはなにが気に入らないのか、アパルを見つけるとわざわざこうやって声をかけてくる。
「おい、聞いてるのか? 俺がわざわざ人形に声をかけてやっているのに無視とはずいぶんな態度だな」
不機嫌そうに子どもが顔をしかめる。せっかくの美貌がもったいない。
アパルがするりと腕を伸ばすと、カイザーは一瞬後ずさったが、すぐにぐっと堪えたように踏ん張った。
警戒した青い瞳に睨まれながら、アパルは気にせず眉間の皺を解すように撫でた。すると、虚を突かれたようにカイザーが目をしばたたく。
「な、なんだ?」
「せっかくの綺麗な顔に皺が残る。お前は綺麗なんだからもったいないことをするな」
「は、はあ!?」
突然大きな声をだすからビックリした。
肩を震わせたアパルに、カイザーはちょっぴり罰の悪い顔をする。
「……きっと、お前のサッカーも美しいんだろうな」
「な、なにを言ってるんだ!?」
「うん? 思ったことを言っただけだが……?」
多分、見ることはないだろうから、想像を言っただけなのだが、どうして赤くなるのだろう。
テレビや雑誌でかなり取り上げられていると聞くし、こういった褒め言葉は日常茶飯事だと思っていたが、初心なところもあるのだな。
そう思うと微笑ましくて、アパルの口元が緩む。
それまで、能面のように無表情だった麗人が、突然ゆるやかに笑みを浮かべるものだからカイザーは目を瞠り、陶然と見入った。
数秒目を奪われ、自分が頭を撫でられていることに気づいたカイザーは、アパルの細い腕をはね除けて今度は怒りで真っ赤にした顔で叫ぶ。
「そうやっていつも子ども扱いするな! この前だって飴玉なんかを渡してきただろう!」
飴玉やグミは、ノアを待っている間に暇だから手持ち無沙汰に持ち歩いている。最近では色んな味のものがあったり、グミも食感が違ったりと楽しい。
先週は、ちょうどマーケットで新しい味の飴玉を見つけて持ってきていたのだ。その時にちょうどよくカイザーに会ったので、練習を頑張っていて偉いなと飴玉をあげた。
「こっちはカロリーや栄養素を計算した食事を取っているんだぞ! あんなの食べるわけないだろ」
「え、美味しくなかったか?」
あまりに怒っているから、少し悲しい。自分は気に入っていたから余計に――。
シュンと落ち込むアパルに、カイザーは口ごもる。
もごもごと幾分か葛藤をしてから、ぽつりと囁くように言った。
「……味は、悪くはなかった」
「カイザー」
やっぱり食べてくれたんじゃないか。感激して普段よりもきらきらした瞳を向けると、子どもは腕を組んでそっぽを向く――分かりやすく照れていた。
「お前は本当に可愛いな……」
「だから! 頭を撫でるな!」
「ノアはもうめっきり可愛さとは無縁になってしまったからな……」
天使のように愛らしかった子どもは、今じゃアパルを優に越した大きく厚みのある体をしている。
小さな天使はいつだって輝かせた瞳で帰宅したアパルを出迎えていたと言うのに、今じゃ待っているのはアパルのほうだ。
胸に、淋しさと、裏切られたときの失望が思い出される。
締め付けられる胸の痛みの奥には、滲むような温かい懐かしさもあった。
いくら失望して、きらいだと思っても、どうしたって嫌いになりきれない。
それが、アパルには苦しかった。
独り言のようにぼやいてしまったアパルだったが、その言葉に、わーわーと喚いていたカイザーがぴたりと口を引き結ぶ。
どうしたのかと覗き込むと、さっきまでの子どもらしい表情とは一転、剣呑さを見せる男の顔でアパルを見上げていた。
「俺にあの男を重ねるな」
「カイザー?」
歯を食いしばり、呻くようにカイザーが声を絞り出す。手は叩き落とされ、その痛みにまた呆然とカイザーの名を呼んだ。
「そんなにノアが好きか? こんなところで半日近くもじっと座って待つほど……」
ノアが好き……?
アパルは目をしばたたく。今の自分は、どうしてあの子と一緒にいるんだろうと、そんなことを今さら考えた。
昔は好きだった。だってあんなにひたむきに自分を慕ってくれる子どもを、誰が嫌いになれるだろう。
――じゃあ、今は?
裏切られて、絶望して、憎んで……それで、それで今はあの子のことをどう思っているのだろう?
「あいつの言う通りにして生きる毎日が楽しいか? 本当にお前たちは、人形ごっこが好きだな」
唾を吐くような、そんな罵倒。
どうやら怒らせてしまったらしい。でも、なんでカイザーが怒っているのか分からない。
アパルは、いつだってカイザーの美しい顔を歪ませてしまう。
表情は変わらないが、アパルの透き通った瞳の奥に困惑や戸惑いを見たカイザーは、更に不機嫌そうに顔をしかめ、チッと大きく舌を打つ。
「いつだって死んだような顔でボケッとして……少しは自分の意志で動いてみたらどうだ?」
そう言って、苦々しく顔を歪めていたカイザーは、最後にチラリと気にしたようにアパルを見て……そしてなにも言わずに去って行ってしまった。
子どもの後ろ姿が遠ざかる様を見ながら、アパルはぼんやりと思った。
(死んだような顔、か……)
そりゃそうだろう。だって本当だったら自分は、今もこうして息をしているはずがないのだから。
そっと頬に手を当てる。すると、手のひらに温もりを感じてしまい落胆した。
「自分の、意志か……」
子どもの頃は、役目が欲しかった。早朝の青空に、とっぷりと日が暮れた夜空に……なんどもなんどもお願いした。
――神さま、お役目をください。ママみたいに俺も天国に行けるように。
だから、ちょうど出会ったノアを立派に育て上げることが自分の役目だと、そう思っていた。そのはずなのに。
「俺はまだ、ママのとこには行けてない……」
どうしてですか、神さま……?
あちらから召し上げて貰えないのなら、と思って何度か自分から飛び立とうとしたけれど、いつも勘のよいノアにそれとなく阻まれてしまう。
どうして役目をくれた天使自身が、アパルの前に立ちはだかると言うのか。
足を伸ばし、お行儀悪くぶらつかせた。背もたれに寄りかかって見上げるように大きな窓の外を見た。
外はまだ明るく、陽が高い。いつも早朝から夕暮れ……遅いと日が暮れて真っ暗になるまでノアは家には帰らない。
まだまだ待ち時間は長そうだ。
ポケットから飴玉を一つ手に取り、包み紙から出して口に放り込む。
コロン、と口の中で転がしながら、窓から差す眩しい陽差しに目を細めているうちにどうしてかある考えが頭に浮かんできた。
――もしかして、自分の役目はまだ終わっていないんじゃないか?
すると、頭の中の靄が晴れ、まっさらな風がアパルの中を吹き抜けた。
ノアと出会った時は、たまたまタイミングが良かっただけで、お役目はまだ神さまから与えられていないんじゃないか。
そう思うと、希望が見えた。
(そうだ。どうしてその可能性を考えなかったんだろう……)
ああ、大丈夫。まだ自分はなにかのために頑張れる。母と同じ場所に行ける。
ノアによって外の世界に引っ張り出された日に止まっていたアパルの中の時間が動き出した。
その日、いつものように待合室のロビーまでアパルを迎えに来たノアは、その黒い瞳がどこかいつもよりも爛々と輝いて見えたことに驚いた。
無気力で、どこか死に場所を探していたノアの神さまは、なぜか昔のように可愛い子供を見る目でノアを出迎えた。
「なにかあったのか?」
と訊ねても、首を傾げるだけ。ノアは深くは訊かなかった。アパルが生気を取り戻しているのなら、理由はなんでも良かった。
内心で浮かれていたのだ。二人の関係が、良い方向に向かっているのではと、そう思ってしまった。だから、見逃した。
車を停めてある駐車場は、チームの練習場からは道路を渡らなければならない。
信号を待つために二人で立ち止まり、車の鍵を出しておこうと一瞬、ほんの刹那だけ視線を落として鞄を探った。
まるでその隙を待っていたように、隣にいた美しいその人は、簡単に道路に躍り出た。
甲高いブレーキ音が耳を割き、すぐに重たい衝突音とともになにかが転がった。
誰もが時が止まったように立ち尽くす中、ノアは道路の真ん中に転がる細い肢体を見つける。
「……アパル?」
長い黒髪はアスファルトに広がり、そこに赤い海が出来ていく。澄んだ瞳は今は白い瞼の下に閉じ込められ、眠っているように穏やかだった。
だらりと投げ出されたアパルの細い腕の中には、小さな子どもが擦り傷を作って泣いていた。