09




 依織が帰宅すると、すでに尚人も帰ってきていて、夕飯の下ごしらえを始めていた。
 いつもならまずは自室に戻る依織だが、その日はダイニングチェアに腰掛けて尚人の背中にぽつりと問いかけた。
「ねえ、尚人パパ」
「んー? どうしたの、依織」
「Ωって、α以外と一緒になっても幸せになれる?」
 ボールに入れた具材をかき混ぜていた手を止めて、尚人が顔を上げた。呆けたような顔が、瞬きをした途端にふっと優しくほぐれる。一度手を洗うと、キッチンから出てきて、依織の向かいの椅子をひいた。
「好きな子でも出来たの?」
「……好きだって言われた。βの子に……ちょっとでも希望があるなら付き合いたいって」
 なるほど、と尚人は頷いて、頬杖をつきながら表情を和らげた。
「Ωにはヒートが付き纏うからね……それに対する個人の考え方だと思うよ。どうしたってヒートをやり過ごすならαの力がいるし、その辛い思いを耐えてでも一緒にいたいならバース性なんて関係なく一緒になればいい。けど、そうじゃないなら依織が大変な思いするかなって思うから心配かな」
 困り眉を作った尚人からは、出来るだけ依織の意志を尊重したい優しさと、我が子を心配する親心が見えた。
 フェロモンを発するのは、Ωだけではない。αも、発情期のΩに当てられてフェロモンをだし、そのαのフェロモンを受け、肌を触れ合わせることでΩは欠けたピースがはまるように発情期をやり過ごすのだ。
 そのためα以外と性交渉をしても、同じような満足感は得られず、身体の欲は満たされるが、本能的な渇望感は満たされないという話だ。
 薬で抑え込む手段もあるが、生物としての当たり前の機能を抑制するため、副作用が強く、長期間の服用は望ましくないとされている。
 そんな事情もあり、Ωはある程度の年齢になると疑似パートナー制度を利用することがほとんどなのだ。
「その子のこと、依織はどう思ってるの?」
「良い人だとは思う。正義感があって、穏やかで……きっとΩのことにも理解を示してくれる」
 けれど、数ヶ月ごとの発情期の苦しみに耐えてまで一緒にいられるかというと、依織は考え込んでしまうのだ。
 そもそも、依織はまだ発情期が来ていないため、いまいちその苦しさというものに実感が伴わない。
「ヒートって大変だよね?」
 依織の不安に、尚人は申し訳なさそうにしつつも頷いた。
「うん。自分が自分じゃないみたいで、初めてだとすごくビックリするかも知れない。身体は熱くて喉が渇くし、なのに水を飲んでも解消されないの。身体の奥がぐるぐるして、気持ち悪くて……でも、ハルくんに手を握って貰えると、それだけで楽になるんだ」
 きっと我が子に気を遣って、明け透けな言い方を控えてくれているのだと思う。尚人の言葉を反芻して想像してみるが、千弘と一緒に乗り越えられるかというと、分からない。
(でも、楓くんとなら……)
 もし流川が辛いときに手を握ってくれるなら――。
 それなら自分はなんだって耐えられる。そんな思いが頭に浮かんできた。
「今、思い出してる子は告白してくれたβの子?」
「……ううん。同じクラスのαの子」
「その子のこと好きなんだね」
 まさかバレるとは思わなくて、ぐっと言い淀んだもののそう経たずに「うん」と頷いた。
「好きだけど……楓くん、すごくかっこよくて優しくて……俺のことなんて絶対好きになってくれないもん」
 ツキンと胸が痛む。ちゃんと分かっていたはずなのに、言葉にすると悲しくなった。
 おかしい話だ。男同士の番いなんて、考えてもいなかったのに。それなのに、今は自分のうなじを噛んでくれるのが流川だったらいいのにって思ってしまっている。
「わかんないよ? 相手に確認するまで、その子の気持ちなんて……それに、親のひいき目はあるかもだけど、依織はすごく優しくていい子だから、好きだって言ってくれる子は多いと思う」
 男性の低くて、落ち着いた声。それなのに、まるで女性のような優しさと穏やかさを内包した声音は、まるで世に言う「母」というものに思えた。子を産むと、人はここまで愛しさの溢れた声を出せるものなのか、と依織は気恥ずかしさと同時に感心と喜びを覚える。
「それはひいき目が大きいよ」
 苦笑した依織に、尚人は心外とばかりに声を上げた。
「そんなことないよ! ……まあ、学生時代に一回ぐらい告白してみてもいいんじゃない? 振られちゃっても、大人になったらきっといい思い出になるよ」
 囁く尚人の瞳にはどこか昔を懐かしむような色が浮かんでいて、依織はもしやと思い、おずおずと切り出した。
「尚人パパは告白したことあるの?」
「あるよ。一回だけ……はるくんには内緒ね?」
 ヤキモチ焼くから、と茶目っ気のある顔で尚人は笑った。
「その人は晴也パパじゃないんだよね? 振られちゃったの?」
「βの男の子だったんだ……幼なじみみたいなものだったんだけど、Ωと一緒にはなれないって振られちゃった」
 肩を竦め、おどけたように言う尚人だけれど、依織は息子には見せぬようにと隠された当時の尚人を思ってしまい、胸が痛くなった。
 そんな依織を慰めるように尚人が頭を撫で、空気を変えるようにカラリと笑う。
「考え過ぎもよくないよ? それに最近顔色悪いし……今日は早めに夕飯もお風呂も済ませて寝ちゃいな?」
「うん」
 頬を撫でる尚人の手に甘えるようにすり寄って、依織はこくりと頷いた。


 翌日になってもまだ顔色は戻らなかったので、尚人はずいぶんと心配そうにハラハラした面持ちで依織を見送りに玄関までやって来た。
「無理して行かなくてもいいんだよ? 体調悪いなら休んでいいよ?」
「そこまで体調は悪くないんだって。少しだるいかな〜ってぐらい」
 心配しすぎだよ、と依織が笑えば、尚人は少し不満そうに口をすぼめた。
 元気だとアピールするために、早足で駆けるように道路まで出た。振り返ると、尚人がまだ眉を下げて見ていたので、心配性だな、と依織は肩をくすめて笑う。
「本当に体調悪かったら早退してきてもいいからね?」
「うん。行ってきます」
 手を振って走り出す。走ったところで気分が悪くなるようなこともなく、万全ではないものの悪いというほど体調を崩しているわけでもない。
(なんだか不思議な感覚なんだよな……)
 自分の身体なのに、どこか知っているものと違っているような……まるで、身体の中が作り替えられていくようなそんなことを思ってしまう。
 家から少し走ったところで足を緩めた。はっと息をついて見上げる空は、秋雲が漂っていて、心地よい風によってゆっくりと流れていた。

 まだ人の少ない校舎に入り、上履きに履き替えて静かな廊下を進んだ。どうせいつも通り一番乗りだろう、と身構えずに教室に入ったが、ぽつんと一つ、机に突っ伏した男子生徒の姿に依織は驚いて
「楓くん……」
 つい、声が漏れてしまった。
 机に顔を伏せていた流川が、ゆっくりと上体を起こして依織を見た。完全に寝てはいなかったのか、その瞳に眠気は感じられない。
 その涼しい目元が依織を捉えると、まるで依織が来るのを待っていたように流川はガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。
「なんで教室に……?」
 いつもなら朝練の時間のはずだ。
 そろそろと近づきながら訊ねると、流川はむすりと口をすぼめた。
「……体育館、設備調整で使えねーの忘れてた」
「あ、それでいつもの時間に来ちゃったんだね」
 こくりと流川が頷いた。きっと暇だったから寝ようといたところで、依織がきたから起きてしまったのだ。
「そっか、残念だったね」
 せっかく早く来たのにバスケが出来ないなんて――。普段のバスケが大好きな流川の様子を思い出して、依織は可哀想だな、と思い、慰めの言葉を吐く。
 言いながら自席に向かおうと流川の横を通ると、行き過ぎ際に手を取られた。
「昨日の告白、なんて返すつもりだ?」
「それは、」
 そんなこと聞いてどうするんだろう。淋しいことだけれど、流川にとっては全く関係のないことなのに――。
「一応、考えてはいるけど、まだ保留中……でも、楓くんには教えないよ?」
「なんで?」
 心底不思議そうな、なんてことない顔で流川が言う。それなのに、小さな口から出された声は今まで聞いたことがないぐらい低いもので、思わず身体が震えた。
 ぎりっと軋むほど手を握られる。依織は、どうしてそんなに流川が怒るのか分からなくて混乱した。それでも、辿々しく、なんとか答えた。
「だって、告白の答えなんて人に言うものじゃないし……本当は告白されたことだって言うつもりなかったもん」
 手、痛いよ、と呟けば、流川が少し躊躇ってからゆっくりと手を放した。
 微かに身体にかかる重みは、昨日と同じαのオーラだと気づく。自覚すると、なぜか身体が熱っぽく感じられた。
「この話はおしまい。ね?」
 むず痒いような、熱が腹の辺りでぐるぐると蠢く感覚に、どうしてか流川から距離を取りたくなって話を切り上げた。それなのに、背中を向けると流川はまた腕を掴んで引き留めてくる。
「……断れ」
「え?」
「告白、断って」
「ど、どうして?」
 今度は痛みのない弱い力でそっと手首を握られた。するりと肌を滑る彼の手の熱に、依織は裏返った声で理由を訊いた。
「俺が嫌だから」
 たった一言。あまりに簡潔な言葉。ドキリと、依織の心臓が大きく飛び跳ねた。じんわりと頬が温まって、心臓がずっと大きく動いている。
(馬鹿……なんでドキドキしてんの。期待すんなって)
 別に流川の「嫌だ」なんて、どうせ友達が離れていくとか、そんな淋しさからくるものなのだ。
(別に俺を好きなわけじゃない……)
 依織が思っているような意味ではないのだから、期待するだけ無駄だ。なのに、流川に触れられるだけで、言葉を聞くだけで、こんなふうに期待してしまえる自分はある意味すごいのかも知れない。それとも、恋をしている人間というのは、みなこんなものなのだろうか。
 恋なんて初めてな依織には、自分の状態がおかしいものかどうかの判断すらつかない。
「そんなこと、女の子が聞いたら勘違いしちゃうよ」
 クスクスと笑って、どうにかおどけてみせた。それなのに、流川はなにを考えているのか分からない真っ直ぐな目で、変わらず依織を見ているから、笑い声の名残が虚しく静かな教室に響いた。
 頷くまで、放してもらえそうにない。そんな錯覚を覚えるぐらい、流川は生真面目な顔――どことなく縋るような眼差しで、依織をひしと見つめていた。
 真意の見えない流川に、内心で困り果てていた依織だが、そこにクラスメイトが三人、仲良く話しながら教室にやって来た。
 腕を掴まれた状態で異様な雰囲気を醸し出す二人に、クラスメイトはハッと口を噤んで、どこか気まずげにそれぞれの席へと向かった。
 それを横目に捉えた依織はクラスメイトたちに申し訳なくなり、流川の手を引いて教室を出る。
 登校してきた生徒とすれ違い、隅の空き教室に流川を連れ込んだ。そうして扉を閉めたところで振り向き、
「あのね楓くん。俺が千弘くん告白をどうするかは自分で決めるの。楓くんに言われたからって断らないよ?」
 と、子どもに言い聞かせるように言った。流川は、それこそ子どものように素直に不機嫌な顔をした。
「この話はこれでおしまい。ね? もう終わりにしよ」
「なんですぐ断らないんだよ」
 微笑んで言った依織の言葉は流川の耳には届かなかったみたいだ。それぐらいすっぱりと言葉が切り込んできて、笑みの形で依織の顔が固まる。
 断ると信じて疑わない様子の流川に、依織の心がちくちくと逆立っていった。思い通りにいくのが癪で、わざと
「まだ断るかなんて決めてないもん」
 と、素っ気なく言ってツンと顔を背けた。
「千弘くんは、俺みたいな人間のこと好きって言ってくれた……Ωとか関係なく好きだって……それが嬉しかったのは本当だよ……だから、俺は迷ってる」
 きっと好きだと言われただけなら、もっと簡単に断れたはずだ。けれど、ずっと一人ぼっちで家族以外から愛を受け取ったことのない依織には――。
 今まで、αとΩという物珍しい夫婦の子どもだと、きっとΩであろう子どもだというバース性を介してしか見てこられなかった自分を、家族以外できっと初めて見てくれた人なのだ。
 好きな人を前にそんなことを言うのは後ろめたくて、頑なに流川のほうを見ないでいれば、背後からじりじりと焦げ付くような威圧を感じた。
 ハッとして振り仰ぐと、流川は伏せた目を眇めて依織を見ていた。
 とたん、喉の奥がきゅっと絞られたように依織の息が出来なくなる。
 ――怒っている。目の前のαが、自分に向けて怒りを宿している。
 少しでも気を抜くと足から崩れ落ちそうだった。叱咤してどうにか立った状態を保つが、声も出せないし、瞳は逸らせない。
 首筋を冷や汗が伝っていったが、それを拭うことすら出来なかった。なにが彼の怒りの琴線に触れるか分からず、少しの身じろぎも恐怖を覚えた。
 オーラは怒っているのに、依織を見下ろす瞳は一転して冷たいほどで、その奥に冷ややかな炎が見えた。
(なんで、楓くんがそんなに怒るのさ)
 昨日から流川のことが分からない。いつだって優しくて、のほほんと穏やかに微睡むような人なのに、昨日から怒ってばっかりだ。
(おれ、そんなに怒られるようなことした?)
 ただ告白されただけだ。別に流川の想い人を取ったわけでもなんでもない。
 昨日から理由なく向けられている流川の怒りに、依織の中にも理不尽だ、とふつふつと怒りの感情が湧いてきた。
 好きな人に、他人からの告白のことなんて話したくない。それなのに、流川がそうはさせてはくれない。どうしたって依織の思考を、感情をかき混ぜる。
 ひどい、と依織は心の中で呟いた。言葉にしたくても、このαの威圧の中では依織の喉は閉じきってしまって声が出ない。
 身体の内側に溜まる感情がぐっと胃を重くした。理不尽な怒りを浴びせられ、怒りと本能的な恐怖で涙が迫り上がってきた。
 依織の下瞼に涙がじわじわと粒を作って、瞬きとともに睫毛に弾かれた。視界の潤みが一瞬だけ解消されて、そのときに見えた流川はひどく青ざめた顔をしていた。
「……ひどい、楓くん。昨日から怒ってばっかで、おれ、訳わかんないよ」
 なんでそんなに怒ってるの、と、威圧感が消えて楽になった身体を震わせて依織が言う。
 一度堰を切った感情は、とどまることを知らずにぽろぽろと口から零れてしまった。
「俺のこと振り回さないでよ……この一年だけでも一緒にいたいって、頑張って押し殺してるのに。なのに、期待させるようなこと言って……」
「この一年だけ……? それ、どういう意味」
 感情が高ぶったせいか視界も頭もぐらぐらと揺れていた。そんななかでも、流川が依織に手を伸ばしたのが分かって、咄嗟に振り払ってしまう。
「触らないで! 俺に触らないで……」
 流川の体温に、優しい手つきに、胸をときめかせたくなかった。単純で、浅ましい自分を見たくなかった。
「分かってるよ……流川くんが優しいのは俺がΩだからだって……分かってるもん……」
 それでも、ただ手が触れ合っただけでドキドキして、声をかけてもらって喜んでしまう。
 ――もう、そんな自分が嫌なのだ。
 流川に近づく人に嫉妬して、Ωには近づいてすら欲しくない。それなのに依織にはそれを言う資格はないからと全部、心の奥の奥に押し込めて平気な振りをして隣にいた。
 この一年だけでも、そばにいたいから。ただそれだけのために。
 それなのに流川は、いつも奥に押し込んだ依織の恋心を浮き上がらせる。そして、彼の一挙一足に簡単に舞い上がっている自分が、あまりに浅ましく単純で、心底いやになるのだ。
「分かってるから辛いの……楓くんの優しさが俺に向けられたものじゃないって分かってるから……だって俺、楓くんのこと好きなんだもん!」
 怒りまじりの、やけくそと言わんばかりの告白。
 流川に向けるにはお門違いな怒りだと分かっている。けれど今は腹立たしくてしょうがなかった。どうして分かってくれないの、と、依織はかぶりを振って訴えた。
 自分でひた隠しにしていたくせに、気づいてよと理不尽なことを言っている。
 依織の頭の中はぐちゃぐちゃだった。熱があるみたいにぐらぐらと揺れていて、どうしてか身体が重く、だるさがあった。
 依織の言葉に呆気にとられていた流川は、ふらふらと揺れ始めた依織に気づき、その細い身体を支えようと腕を伸ばす。だが、
「もうやめてってば!」
 熱に浮かされた依織は、その手を振り払ってしまった。そして、自分の気持ちを伝えた以上、もうここにはいられないと、逃げるように駆け出した。
 そのとき、横を通り過ぎた依織からフェロモンを感じた流川が、焦った顔で追いかけようとしたことなど知らず、依織は後ろ手に叩きつけるようにして扉を閉じた。


 登校してきた制服の連なりを、泣いて潤んだ視界でどうにか避けて走って行く。生徒たちは、ただならぬ様子の依織に気づくと、一瞬びくりと仰け反って避け、そうして行き過ぎる依織を胡乱な目で見送った。
 教室に向かう生徒の流れを逆流して進む最中、依織は自分でも理解できない身体の状態に悩まされていた。
(なんでだろ……身体が熱くて、なにも考えられない)
 ひどく喉が渇いた。心臓は今までにないぐらい大きく存在を主張している。
(本当は、あんなこと言うつもりなかったのに……)
 耐えることは得意なはずだ。小学生だったときも、依織は他の人より細い身体をさらに丸くしてただじっと周囲の言葉や眼差しを耐えていたから――。なにも言わない、しないことが、一番楽で穏便な方法だと分かっているのだ。
 それなのに、さっきはそれが出来なかった。自分でも驚くほどに感情が昂って、なにもかも喚き散らしたくなった。
 息を切らしながら走っていた依織だが、とうとう足をもつらせて体勢を崩した。ちょうど角から生徒が曲がってきたときだったので、依織はその生徒に正面から倒れ込むようにして支えられた。
「依織くん?」
 顔を上げた依織の熱に浮かされた瞳に、驚いた千弘の姿が映る。頬を赤くして息を荒げる依織に、心配そうにしていた千弘の表情が、どきりと固まった。
「だ、大丈夫? どこか具合悪いの?」
「ううん。大丈夫……ちょっと熱っぽくて……」
 いつまでも寄りかかっているわけにもいかないと、依織は手足に力をこめたが、かたかたと震えた身体では、どうにも上手く起き上がれない。ぐらりと廊下に倒れそうになった身体を、千弘が慌てて受け止めた。
「本当に大丈夫? 保健室に、ってあれ? なんだろ、この甘い匂い」
 すん、と鼻を鳴らしながら千弘が呟いた言葉に、依織は冷や汗が飛び出た。
(熱っぽい、理性の低下……それで、甘い匂い……もしかして、ヒート?)
 咄嗟に、自分の首元に触れ、ベルトがあることを確認して安堵する。しかし、それを見ていた千弘が、
「もしかして、依織くん……ヒート起こしてる?」
 と、言って、肩を支えていた手に力が入った。
 その力強さに、依織はひっと喉を震わせて悲鳴を漏らした。熱が溢れる身体と反対に、わずかに残った理性が、じりじりと警告のように冷えた感覚を身体に伝わらせている。
 逃げたい。依織は本能的にそう思った。
 いくらβのフェロモン感知能力が鈍いとは言え、全く影響がないわけではない。世の中には、αではなく、βによるΩの強姦被害だってごまんと存在するのだから。
 もたつく足で距離を取ろうとするが、千弘の支えがなくなった途端に、依織は足から崩れ落ちた。ハッとした千弘が「大丈夫!?」と同じようにしゃがみ込んだが、近くなった視界に、依織は座り込んだまま腕の力で身体を引きずって後退した。
 千弘はそんなことしない。分かってはいても、怖くてたまらない。
 誰か、誰か――。
 けれど、周囲には顔も知らない生徒ばかりが依織と千弘の様子を遠巻きに眺めていて、助けを求めることも出来ない。
「なんの騒ぎ?」
「Ωのヒートだってよ。しかも男の」
「まじ? だれ? 一年?」
 人だかりの向こうから上級生らしき声が聞こえて、思わず依織は自分の身体を抱きしめた。うずくまるように自分の膝に額をこすりつけ、身体を丸める。
 そんなことをしたって隠れることは出来ないのに、少しでも周りの生徒たちの目から自分を隠したかった。
(やだ……助けて……助けて、尚人パパ、晴也パパ……)
 縁(よすが)である両親の名を子どもみたいに心の中で叫んだ。けれどここは学校で、二人がすぐに駆けつけることなんて出来ない。
 そのとき、ふと縋るようにもう一人の名前が思い出された。涼しげな面立ちの彼の姿が頭に過って、依織はすぐ近くにある冷えたタイルの色を見つめながら呟いた。
「……かえでくん」
 あまりに小さく、か細い声。きっと、目の前にいる千弘にだって届いていないだろう、そんな声。
 けれどまるでその声を合図にしたように、人垣の向こうでざわめきが走った。ドタバタとここまで地響きがするような重く大きな足音が迫ってくる。
 なんだなんだと生徒たちが依織ではなく、そちらに目をやり、依織もつい顔を上げて仰ぎ見る。
「どけ! 邪魔」
 低く焦りをにじませた、聞き覚えのある声。いつだってサラサラの細い黒髪が、今は汗で額に張りついていたけれど、そんな姿でも彼――流川は美しかった。
(楓くん……)
 どきりとまた心臓が高鳴って、体温が上がった気がした。潤んで揺れる視界のなかでも、依織はぼんやりとその姿を目で追った。
 そのうち息を切らした流川が、廊下で腰を下ろした依織の横にしゃがみ込む。きっと走っただけではなく、Ωのフェロモンで苦しんでいるのだ。
 走った疲労というよりも、なにかに耐えるような苦しさが見えて、依織は咄嗟に身を引いて距離を取ろうした。だが、怠く重い身体はバランスを崩しただけで、「危ない」と千弘が手を添える。
 その腕に依織の身体がおさまるよりも先に、流川がその長い腕で千弘から奪うように依織をかき抱いた。
 簡単に持ち上げられた依織の身体は、流川の腕の中ですっぽりと横抱きにおさめられる。まるで依織を隠すように流川は肩を丸めて自分の胸に押しつけ、そのままぐるりと周囲を一瞥し、その瞳の鋭さに、見物人たちはαの迫力に息を呑んで一歩退いた。
 人だかりの隙間を縫って、流川は依織を抱いたまま小走りに進む。階段を下り始めたことに気づいた依織は、うっすらと意識の中で保健室に行くのだと思った。
 さっきまでは座った姿勢は維持していたのに、今じゃそんなことすら出来ない。ぐったりとした身体は、流川の腕の中でだらりと手足を落とし、頬を寄せるように制服越しに胸板に寄りかかっていた。
「ん、あ……」
 早足に歩く流川の振動が伝わって衣擦れが肌を撫でる。そんなかすかな刺激にさえ、鼻にかかったような声が漏れ出た。
 Ωのフェロモンに誘発されているのか、寄り添う身体からほんのりとαの発情フェロモンを感じて、依織は申し訳なく思いながらも、じんわりと嬉しさが心をかすめた。
 下卑た目にさらされるのは苦痛だ。けれどそういった欲を向けてくるのが想い人であるのなら、人は幸福を覚えるらしい、と初めて知った。
 うすらぼんやりした意識でいるうちに、流川は足癖悪く保健室の扉を開け、中が無人なことを見ると、チッと舌を打った。
 養護教諭は用があって席を外しているらしい。
 どこどかと大股でベッドに寄った流川は、さっきまでの荒々しい動きとは反対に、ひどく丁寧な手つきで依織を横たわらせた。そうして離れていこうとするので、気づくと学ランの袖を握って引き留めてしまう。
 ハッと目を瞠った流川は、しかしすぐに顔をしかめるように力を込め、やんわりと手を添えて依織の手を外そうとする。それをイヤイヤと首を振りながら、
「かえでくん……噛んで」
 と、涙まじりに言った。流川の息を呑んだ気配がした。
 疼く身体の熱に苛まれ、ぽろぽろと本音が零れ出る。身体がたまらなく熱かった。腹の奥がしくしくと疼く。どうにかして解放してほしい。
 ――そして、その相手は……流川がいい。
「おねがい……好き。好きなの……お願い楓くん……」
 俺のうなじ、噛んで、と縋るように袖を握りしめたまま、すすり泣いて懇願した。
 濡れた瞳では、はっきりと流川の表情が分からない。もしかしたら、呆れているかも。嫌悪しているかも知れない。それでも、この身体中からにじみ出る初めて感じる欲の熱と、愛おしい人に噛んで欲しいという本能的な欲求は止められなかった。
 しばらく押し黙っていた流川だったが、不意に依織の顔の脇に両手を置いた。大きな影に覆われながら、依織は耳元でベッドが軋むのを聞いていた。
 ゆっくりと覆い被さるように流川が近づいてきて、少しずつ、その美貌が明瞭になっていった。
 いつだって凪いだ目の奥に、ぐらぐらと揺れる欲望の色。それを耐えるように、眉間に皺が寄り、目元に力が入っていた。細い黒髪が依織のこめかみを掠め、引き結ばれた唇がうっすらと開いて吐息とともに依織に重なろうとしている。
 片方の手がシーツの上を滑って依織の首元に行き着き、ベルトに触れた。カチャリと金具のかすかな音を聞きながら、ゆっくりと依織は目を閉じ、そうして熱を受け入れようとした、刹那――。
 ベッドに預けていた上体が、急に締めつけられてシーツから浮き上がった。我に返って目を開けると、流川の肩越しに真っ白な保健室が見え、彼に抱きしめられているのだと思った。
「かえでくん? なんでえ?」
 甘ったるいねだるような自分の声。それに腕の力がさらに強まり、依織の細い肩が悲鳴を上げた。耳元でぐっと歯を食いしばるような鈍い音が聞こえ、依織はもう一度「どうして?」と呟いた。
 噛んでくれると思ったのに。なんで、なんで――。
 癇癪を起こした子どもみたいに泣きながら何度も流川の名を呼んだ。なのに、流川は腕の力を強めるばかりで、一度だって顔を見せも、言葉を聞かせもしてくれなかった。
 時々、呻くような苦しい声がかすかに届くだけで、それ以外はただ黙って締めつけるようにぎゅうぎゅうに依織を抱いていた。
 そのうち戻ってきた養護教諭が、ベッドの上で抱き合う二人の姿に驚き、依織が発情期を起こしていると分かると、慌てた様子で戸棚を漁り出す。
 きっと明里のときにも飲ませていた非常時用の抑制剤を探しているのだ。そう経たずに小瓶とペットボトルの水を持ってきた。依織は流川の背中越しにそれを受け取って、おぼろげな意識の中で錠剤を飲み込む。
 冷えた水が喉を下っていく感覚に心地よさを覚えていると、急に睡魔が襲ってきて、依織はゆっくりと瞼を落とした。
「あらやだ! あなた腕が血まみれじゃない」
 半分眠りに沈んだ依織の耳に、養護教諭の短い悲鳴と、ついでバタバタと駆け回る足音が聞こえた。ふと身体の締めつけが楽になって、柔らかなものに背中を預けられた。そっと慰めるような優しい手つきで頬を撫でられ、それが誰なのか確認する前に、依織はとっぷりと眠りに落ちた。

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