10




 依織が目を覚ましたとき、意外にも頭はすっきりしていて、学校で発情期に陥ったのが夢のように思えた。
 けれど、様子を見に来た尚人や晴也が、あまりに安堵の大きい表情で喜ぶものだから、
(ああ、あれってやっぱ現実だったんだ)
 と、実感したのだ。
 どうやらあの日からすでに三日経過しているらしく、両親からそれを聞いたとき依織は驚いてしまった。
「そんなに食欲ないと思うから、ゼリーなら食べられるかなって思って買っておいたんだ」
 どうする? と尚人が手にのせたゼリーを見せてきた。
 みかんの果実が入ったそれとは別に、隣に置かれたレジ袋の中には、他にも桃やぶどうがあった。
 きっと目が覚めた依織の気分に会わせられるようにと、何個も用意してくれたのだろう。
 その気遣いが嬉しくて、依織はベッドに腰掛けたまま尚人からゼリーとスプーンを受け取って少しずつ食べていく。
 冷えたゼリーは、つるりと喉を通っていき、ついさっきまで熱に浮かされていた身体には気持ちがいい。
 そのままぺろりと一個平らげると、すかさず尚人がゴミを受け取って捨ててくれた。
「フェロモンは落ち着いたみたいだけど、熱がひどかったから疲れてるでしょ? とりあえずゆっくり休んで、学校は様子見てから行こうね」
 布団をかけ直され、そっと頭を撫でられた。たしかに頭ははっきりしているが、身体がだるくて動くのがしんどい。こくりと頷いた依織だったが、学校という言葉に、ふと流川の顔が浮かんだ。
 ――好き、好きなの。……俺のうなじ、噛んで。
 甘く蕩けた自分の声が思い返され、依織から血の気が引いていった。途端に顔を青白くさせて怯えるように震える依織に、尚人が驚いて目を開いた。
 どうしたの? と優しく問いかけられ、依織は目元に涙を浮かべながら見上げる。
「尚人パパ、どうしよう。俺、楓くんに好きって言っちゃった。うなじ噛んでって……」
 あのとき、流川はどんな顔をしていただろうか。
 友人だと思っていた人物から、そういった意味合いで求められ、どれだけ驚いたことだろう。
「依織、ヒート中はどんなΩも理性がなくなるものなんだよ。それこそ好きな人に噛んで欲しいって思うのは普通のこと。だから、そんなに気にしないの」
「でも、でも……楓くん噛んでくれなかった。俺のこと好きじゃないからでしょ? そんな相手から噛んでって言われたら、きっとすごく困ったよね?」
 そう。依織がなにより悲しいのは、今も自分のうなじがまっさらなことだ。傷一つないそこに触れると、はっきりと流川に振られたのだと分かって、じわじわと悲しみが押し寄せてくる。
 もう友達でもいられないかもしれない。
 そう思うと、たまらなく悲しくて淋しかった。
 自分を想ってくれる人がいることは幸せだ。千弘は良い人だし、きっといい関係を築けたかも知れない。けれど、発情期になって流川の腕に抱き寄せられて分かった。
 自分がうなじを噛まれるなら流川がいい。一緒にいてくくれる人は流川がいいのだと。
 ぽろぽろと幼いころのように泣きじゃくる依織に、尚人は眉根を下げて困った顔をする。
 なにか言いあぐねているように「んー」と声を上げ、微苦笑して依織を見た。
「まだ振られたとは限らないんじゃない? 俺たちが迎えに行くまで、楓くんはずっと依織のそばで守ってくれたんだもん。きっと楓くんにとっても依織は大事なひとだと思うよ?」
 慰める尚人の声に、依織はぶんぶんと強く頭を振って否定した。
(そんなことない……楓くんは優しいから、俺じゃなくたってそうする)
 明里のときだって自分がαであるにも関わらず、自ら保健室まで運んで見せたし、彼はΩには優しくするものだと思っているのだ。特別だからじゃない。
(現に、俺も明里さんも振られたもんな……)
 学校に行きたくない。行ったら顔を合わせる羽目になる。
 冷静になった頭で、流川と合いたくなかった。
 ぐずぐずの依織の顔を、尚人が苦笑いで拭ってくれた。そうして頬の涙のあとを撫で、
「大丈夫だよ、絶対」
 などと、根拠のない慰めを落とす。
 しゃくり上げた喉では反論も出来ず、依織は子守歌のように頭を撫でられているうちに、疲れた身体は再び眠りに落ちていった。


 次に依織が目を覚ますと、カーテン越しに温かなオレンジ色の光が見えた。時計とをみると、夕方の四時を過ぎたころだった。
 ベッドの上で膝立ちになって外を眺めていると、不意にノックの音がして尚人がひょこりと顔を覗かせる。
 様子を窺うようにじっと見てくるので、「どうしたの?」と訊くと、
「依織、お友達来てるよ」
 と、笑ってまるで誰かに道を空けるように身体をずらした。
 ――友達? 
 依織が疑問に思う隙もなく影から現れたのは、見慣れた学ラン姿の生徒で、涼しい色をした瞳とかち合って、彼がぺこりと頭を下げる。
「……楓くん。なんでここに……?」
 茫然とした口から疑問が零れた。ゆっくりと流川が部屋に入ると、背後で尚人が「ゆっくりしていってね」と声をかけてから扉を閉める。流川は「うっす」と小さく呟いて会釈をしていた。
 そうして正面の依織に顔を戻すと、少し躊躇いがちに口を開いた。
「……そばに寄ってもいいか?」
「え、う、うん」
 咄嗟に頷いてしまって、しまったと思った。けれど、流川がホッとした顔をするから、撤回なんて出来なかった。
 依織がいるベッド脇まで来ると、流川は足をぴたりと止めて見下ろしてきた。沈黙が痛くて、おずおずと「座っていいよ?」と促せば、彼はゆっくりと足を折ってあぐらをかいた。
 床に座る流川とベッドに座る依織では、いつもより目線が近い。それだけでドキドキした。
(俺の部屋に楓くんがいる……)
 緊張して、真っ直ぐに流川のことが見られない。きょろきょろと部屋の中を視線で行ったり来たりしていると、ふと自分の姿が目に入った。
 気づけば、布団を被って丸まっていた。突然のことに、流川がぎょっとしているのを気配で感じた。だが、依織からするとそんなことは些細なことだ。
(どうしよう……俺、パジャマだし、髪の毛ボサボサじゃん)
 今さらながらなんてみっともない姿を晒していたのかと、恥ずかしくてたまらなかった。
「ど、どうした?」
 そろそろと流川の気配が近づいてくる。頭まで布団かぶり、両端を胸元で抱えていた依織はそっと顔を上げると、ゆっくり光が差し込んできた。
 光で目が眩んだのは一瞬で、すぐに心配そうな困惑顔の流川が見えて依織はすんと鼻をすする。
「ごめん。俺、パジャマだし、髪の毛もぐちゃぐちゃでみっともなくて……」
 泣きべそをかいて布団から顔を出した依織に、流川は動揺したものの、その言葉にすぐにけろりとして頬にくっついた依織の髪を整えてくれた。
「べつに気にしてねー。それに、そっちも可愛い」
 珍しく微笑んで言うものだから、その美しさにドキリとした。
 しかも、可愛いとはどういうことだろう。
(な、なんだろう……楓くんいつもより雰囲気柔らかい? なんで?)
 普段がとっつきにくいというわけでもないが、こうも簡単に微笑むような人間ではないはずだ。
 どうしたのだろう、と頬を撫でられながら仰ぎ見る。そのとき、流川の制服の袖から見え隠れする真っ白な包帯に気がついた。
「楓くん、腕どうしたの……?」
 恐る恐る訊ねると、流川は今気づいたとでもいうように「ああ」と軽い口調で頷く。
「そういえば部活は……?」
 傷ついた腕をみてまず思ったのが、流川があれだけ熱心になっているバスケのことだ。そして、連鎖的に部活動に意識がいき、今の時間を思い出した。
 普段であるなら、まだ始まってそうも経っていない頃合いだろう。
「怪我のせいでバスケ出来ねーから。だから休み」
「どうしたの? 結構ひどいの?」
 最後に会ったときはあの発情期の日だが、その時は怪我はしていなかったはずだ。
「血は止まってるし、そんなにひどくねー」
 ただ噛んだだけだ。と、自分の腕を見下ろしながら言う流川に、依織は目を剥いた。
 今、なんて言った?
「か、噛んだ? 自分の腕を?」
「おう」
 けろりとした顔で頷くから、依織はベッドから跳ね起きるように身を乗り出した。
「な、なんでそんなこと! 大事な腕なのに!」
 あれだけバスケに心血を注いでいるのに、なんて無茶なことをするのだと、怒りにも近い感情が湧いてきた。流川の手を取り、傷に障らないように包帯の表面に触れないように撫でる。
「……もう、なにしてるのさ」
 普段の流川なら、大事な腕を危険にさらすなど万が一にもないだろうに、どうしてそんなことを。
 依織のお叱りを不服そうに受け止めていた流川は、ちらりと依織の首元を見てから口を僅かに尖らせ、言い訳でもするようにぼそりと言う。
「そうしねーと危なかったからだろ。噛んじまいそうだったし」
 と、あからさまに叱られる謂れはないとばかりの態度に、反射的に言い返そうとした依織の口が開いたままピタリと止まる。
 ――噛んじまいそうだった? だから代わりに腕を噛んだ?
 ぐるぐると流川の言葉が頭の中で巡っていき、依織ははたとある可能性に気づいた。
「も、もしかしてこの怪我、俺がヒートのときの?」
 真っ青になって震える声で訊けば、返ってきたのは頷きで――依織はそのままベッドの上で頭を抱えるようにうずくまった。
 ああ、また流川が慌てている。頭上の気配で分かったが、それでも今は顔を上げるだけでの勇気がなかった。
 だから依織は、戸惑いがちに肩に置かれた流川の手をとり、そのまま指先をつまむように触れ、
「ごめんね。俺のせいでごめん……俺がヒートなんて起こすから、こんな怪我させて……挙げ句の果てには告白までして噛んでなんて言って……迷惑かけてごめん……」
 と、布団に顔を擦りつけて謝った。
 どんどん溢れた涙が布団に吸い取られていく。べっとりと顔に張りつく不快感も、流川の傷に比べれば気にもならなかった。
 発情期で迷惑をかけ、あまつさえ噛んで欲しいとねだり、怪我までさせるなんてーー。
 自分はどこまでどうしようもないのだと、依織は恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかった。
 そばにいられるだけでいいと思いながら、迷惑しかかけていない。
 ごめん、ごめん、と何度も譫言のように呟く依織を、流川がそっと身体を起こさせた。その間も依織は涙でぐちゃぐちゃになった顔で何度も謝罪の言葉を吐いた。
「迷惑なんて思ってねー。噛んだのだって自分でやった」
「でも、俺が誘惑したからでしょ? 俺を噛まないために楓くん、自分のこと噛んで耐えて……好きになったときに離れれば良かったのに、一緒にいたいって欲張ったから……俺のせいでごめんね」
 肩を丸め、すんすんと鼻を啜って泣く依織を、流川は意味が困ったような理解できないような複雑そうな顔で見下ろし、不意に依織の手を引いた。
 ベッドの上から簡単に滑り落ちた依織を、流川は器用に支えて自分の足の上に向き合うように座らせた。
 腰を支えられ、急に近くなった距離に依織の頬は熱を持つ。
「この前も思ったけど、なんで好きなら離れてく? 意味分かんねー。しかもあいつの告白もすぐ断んねーし」
 イライラした声で言われて、勝手に身体が恐縮する。けれど、なにを言われているのかは分からなかった。
「だ、だって俺の勝手な片想いだもん。αとΩだし、こうなっちゃうのが嫌だったからいつか離れなきゃって思ってて」
 けれど、それはもう後の祭りだ。まさか自分の発情期がこんなに速く訪れるとは思ってもいなかった。
 依織の言葉に、流川はますます苛立ったように顔を険しくして、ぐっと顔を寄せた。
「片想いじゃねー。俺も好き。両想いなら離れる必要ねーだろ」
「え?」
 あまりに間抜けで素っ頓狂な声が出た。眼を丸くして呆ける自分の姿が、流川の瞳に映っている。
「好き……? 楓くんが、俺のことを?」
 こくりと頷かれて、つい「嘘だ」と呟く。
「だ、だって、うなじ噛んでくれなかったじゃん」
 あの時の切なさを思い出して、半泣きで訴えると、
「あそこ学校だったし、初めてのヒートのときに番うと身体に負担かかるって言われたから」
 と、ムスッとした顔で返された。
「言われた?」
「親に訊いた。番いたいけどどうしたらいいって。そうしたら、発情期の周期が安定して落ち着いたら身体も出来上がってるからそのころがいいって」
「親? ……まさか楓くん、お父さんたちに俺のこと訊いたの?」
 震える指でさしながらそろそろと訊くと、当たり前とばかりに返された頷きが答えだ。じわじわと足元から温かな実感がゆっくり押し寄せてくる。
「ほ、本当に俺のこと好きなの? で、でも俺にそんなこと言わなかったよね?」
 まさか知らない間に相手の両親まで話が及んでいるとは思うまい。責めるような言葉が出てしまって、流川はムッと不機嫌そうに依織の首元に鼻先を近づけてスンと鳴らした。
「匂いで分かるだろ? お前、俺のこと好きなくせにあいつの告白断らねーからイライラした。だからαのフェロモンぶつけちまって……多分、ヒートになったのそのせい」
 あの膝を下りたくなるような威圧はαのフェロモンだったのか、と頭の隅で思う。それよりも気になったのは、「匂い」という言葉だ。
「匂いで好きかどうか分かるの?」
「他のヤツは知らねーけど、お前のは分かる」
「じゃあ、ずっと俺が楓くんのこと好きなの、バレてたんだ……」
 あれだけ必死に隠していたのに、となんだか馬鹿らしくも思えた。試しに首を伸ばして流川の首元で鼻を鳴らした。けれど、とくにないんか感じるわけではない。
「俺には分かんないよ……楓くんも言ってくれたら良かったのに」
 どれだけ依織が悩んだと思うのだ、と恨みがましさを出して言うと、途端に流川が焦ったように顔色を変えた。
「ちがっ……だって気づいてると思ってたから」
 それでも言って欲しかったと思うのは、依織が悪いのだろうか? 拗ねた顔のまま、流川の胸元に顔を伏せる。ますます慌てた様子で依織の名を呼ぶ流川に心がくすぐったかった。
「ど、どうしたら許してくれる……?」
 シュンと沈んだ声に顔を上げると、しょげた子犬みたいな顔の流川がいた。
 じっと依織を見つめてくる姿がいじらしくて、怒ってないよと言ってしまいそうになったけれど、喉の奥に引っ込める。
 そうして流川の袖をくんと指で引っ張り、顔を寄せて小さく言う。
「好きってもう一回だけ言って」
 か細い依織の懇願に、流川は長い睫毛をピンと開いた。あんなにしょんぼりしていたのに、今は目一杯に尻尾を振る子犬みたい。
「言う。何度でも言う」
 と、意気揚々と鼻息荒く宣言するので、依織はおかしくって笑ってしまった。

 夕日が半分ほど隠れたうっすらと暗い部屋の中、そっと身を寄せるように抱きしめられた依織の耳元でそっと落とされた二文字の愛の言葉。
 きっとそれは、あの春の屋上で初めて触れ合ったときから始まっていた。
 

〈了〉

後日談