春の体育館 十五歳



 流川にとって親しい友人というものは存在しなかった。
 小学校を出るまでの流川の世界にいた人間は、家族と、あとはチームメイトぐらいで、それを不便だとも不幸だとも思ったことはなかった。
「楓も、いつか運命の相手に会えるかもしれないね」
 そう言って幼い流川の頭を撫でたのは母だった。流川の両親は、珍しいことに両者がαの性別を持っており、その能力の高さ故にか、二人とも仕事に忙しい人だった。
 けれど、愛されていない……などと思ったことはない。夕飯は必ず三人で食卓を囲んだし、物静かでバスケ以外には興味関心のない流川のことも、個性だと笑い、好きなようにバスケをさせてくれた。
 そしてその父と母が時々口にするのが、Ωの性別を持つものに対する配慮や気遣いだった。
「きっと楓もαだと思うから言うけれど、私たちαは普通の人より出来ることが多い分、他の人を助けてあげるのよ。特にΩの人の苦痛をとることが出来るのは私たちαだけだから」
 父も母も、政府公認の疑似パートナー制度にαとして登録しており、行為なしの場合のΩの補助役として家を空けることがあった。
 苦しむΩを多く見てきたからこその言葉なのだろう。
 優しい声で言い聞かせられる度に、流川は頷きつつも、本当のことをいうと、あまり真摯に受け止めてはいなかった。
 そりゃ目の前で人が倒れたりなにかあれば、手を差し伸べるぐらいはするかもしれないが、両親のように日頃から自分の時間を割いてまで人助けをしようとは思わなかったのだ。
(俺は、バスケが出来ればそれでいい)
 幼い流川の胸にあったのは、ただその望みだけだった。


 初めてバスケットボールに触れたときのことなど覚えてもいない。気づけば手元にボールがあって、それが当たり前だった。
 幸いに体格にも恵まれ、ますます流川はバスケにのめり込んでいった。
 朝も昼も夜も――いつだってバスケのことだけ考えて生きていく流川の中で、唯一面倒なものと言ったら、年を重ねるにつれて視線を集めるようになったことだろうか。
 男子にはよく一緒にバスケをしようと誘われ、コートを走り回った。それが数回続くと、どこかヘラヘラしたご機嫌伺いの顔で「家に行ってみたい」と言われ、深く考えずに頷いた道中で、「今日は親はいるのか」と問われた。
 こくりと頷いた途端に、その男子生徒の顔がパッと明るくなって安堵し、
「流川んちって二人ともαなんだろ? すげーよなー! 俺んちの母ちゃんが挨拶してこいってうるさくてよ」
 などと訊いてもいないのにペラペラと語り出したところで、流川はなぜこの生徒たちがバスケに誘ってきたのかを察した。
 家に帰る足取りはなぜか重くなり、そう経たずに家が見えるというときになって「やっぱ無理」と一方的に断って走って帰った。
 家まで大した距離などなかったのに、どうしてか心臓が速く鳴っていた。
 そのあと、クラブに所属している生徒以外とはバスケをしなくなった。
 男子生徒たちは流川が数回断れば諦めたのか近寄ってくることもなくなったが、今度は女子生徒に呼び出されることが増えた。
 曰く、告白というもので、「好きです」「付き合ってください」の典型文を、流川は何度聞いたか覚えていない。だが、頭の中にこびりつくぐらいには同じことを言われたし、断るのも面倒で頷いたこともあったが、その女子のことを気にせずいつも通り過ごしているとイメージと違っただのなんだのと怒って勝手に去って行った。
 だが、その後も他の女子からの呼び出しはなくならず、いつしか流川は女子生徒の黄色い悲鳴を聞き流すことにもなれた。
 ――流川くん! 理科室行かないと遅れちゃうよ!
 女子のキャッキャッと騒ぐ慣れた声のなか、真っ直ぐに流川まで飛んできた声。
 触れた手は流川よりも小さく柔らかかった。手を引かれて寝ぼけ眼でうっすらとその背中を見ると、気づいたその生徒が振り返って目があった。
 ――同じクラスの香坂依織です。
 他の男子のように媚びへつらうような下心のある声でもなく、女子のように色恋の混じった目で見てくることもなく、どこか緊張したような上擦った声。
 けれど、ほどよく低いその声が、起きたばかりのぼんやりした頭にもハッキリと届いた。
 

 それからというもの、なぜか依織は流川の世話をやいてくれている。移動教室や昼食のときにわざわざ流川を起こして移動し、逐一、授業で出た課題のページを教えたりと、ひどく甲斐甲斐しく。
 それなのに、家に行きたいとも親に会いたいとも、はたまた流川と付き合いとも言わなかった。
「俺は! 流川くんのご両親がαだろうとなんだろうと、声かけてたから! きみが、寝ぼすけで放っておけなくて、それで声かけたの! ご両親のことは関係ないから!」
 春の匂いがほんのりと残る屋上でのこと。
 どこかぎこちなく固まった表情に、緊張で赤らんだ頬。その必死さ――。
 気づくと、流川は腕を伸ばしていた。目の前の人物に触れたくて、けれど触れた瞬間に消えてしまわないか不安で踏ん切りがつかなかった。
 躊躇っているうちに、依織は一瞬だけ泣きそうに顔を歪め、流川よりもうんと細い腕を伸ばしてその薄い身体に抱き込んだ。
 触れたら壊してしまいそうなぐらいに細い身体から、トクトクと心地よい音が響いてくる。
 その鼓動が耳を通って流川の身体にしみわたると、どうしてか傷が癒えるような充足感を覚えた。
 依織の腕の中、流川はそっと目を閉じた。瞼の裏で、一瞬だけ瞳が潤む。けれど、ただそれだけだった。
 流川はバスケさえ出来ればいいと思っている。そうすれば生きていける。
 周囲に人がいなくたってなんとも思いはしないけれど、それでも。
 ――流川んち、行ってみてーなー。いいだろ?
 ――うちの親が流川の親に挨拶行ってこいってうるさくてよー。
 ――流川くんて、もっと格好いい人だと思ってた。
 誰が言ったかも思い出せない、そんな記憶の端っこに残っている言葉たち。
 痛みも、悲しみもなく、けれどビー玉の表面を爪先でつつかれたような、そんな微かな違和感だけ残していった言葉が、どうしてかゆるゆると記憶から溶けていくような――そんな、不思議な心地になった。
 母にもしたことがないくせに、流川はそっと甘えるように頬を擦り寄せてみた。すると、ほんのりと優しい甘い香りが鼻腔に広がる。
 ――楓も、いつか運命の相手に会えるかもしれないね。
 ふと、母の言葉を思い出す。
 運命の番い同士は、目が合った瞬間に本能で分かるという。依織はその定義には当てはまらない。でも――。
 抱きしめられた温もり。鼻をくすぐる香り。頭を撫でられる優しい手つき。
 依織の全てが、欠けていたピースをはめるように自分の中でしっくりきて、流川はどうにも離れがたくてそろそろと細い肢体に腕を回してみた。
(もしかしたら、こいつかもしれない)
 運命というものを信じたことなど一度もなかったが少年が、その日、自らの分岐点に遭遇した。
 きっとこの日から、流川にとって香坂依織は特別になったのだ。


 
「お、流川! 入ったかあ!」
 会うなり彩子は、満足そうに笑って流川の肩を叩いてきた。意外と強いその力で揺すられながら、「チワス」と軽く頭を下げた。
 依織とは定期的に会っていると聞いていたが、流川自身は彩子に会うのは一年ぶりだ。けれど、全く変わった様子はない。
 相変わらずだな……とぼんやり思っていれば、ふと真面目な顔をした彩子がそろりと切り出した。
「そういえばアンタ、依織くんのヒート休暇出すんでしょ? なるべく早めに言っておきなさいよ?」
 社会において、αにはパートナーのΩの発情期に合わせ休暇を取れる制度が存在する。もちろん休暇を取る取らないは本人たちの自由だが、ほとんどのαは取得するものだ。
 もちろん流川とて、恋人である依織のために可能であれば使いたいところなのだが――。
「あれって番い契約してねーと取れねーんスよね?」
 とたん、彩子は「は?」と口を開けて止まってしまった。かと思えば、すぐに流川の両肩を掴みかかる勢いで叩き、
「まさかアンタたちまだ契約してないの!?」
 と、信じられないものを見る目で見てきた。
「あんだけ一緒にいていちゃいちゃしといて、まだ契約してないってどういうことよ! あんたそんなうっかりしてたら横からかっ攫われるわよ!?」
 自分よりも大きな流川の肩を揺さぶりながら、彩子は「あんないい子、滅多にいないんだからね!?」とまるで姉のような口ぶりで諭す。
 しかし、契約を結んでいないのは流川としても不本意なもので、ついムスッと不機嫌を前面に出してしまった。
「あいつが結婚できる年になるまでは契約しねーって……」
 しかも万が一があっては困るといって、発情期中ですら、お互いにフェロモンの抑制剤を飲んだ上で、ベッドで眠る依織の手を握る程度の接触しかない。
「なんで? まさかあんた目移りするとでも思われてんの? 信用されてないわけ?」
 失礼なことを言う彩子に、「んなことねー」とつい普段のとってつけたような敬語すら忘れて答えてしまった。
「なんだ流川、番いがいるのか?」
 それまで傍観していた赤木が、驚いたように口を挟む。それにこくりと頷くと、隣で桜木が騒がしくなった。
「なにっ? キツネに番い!? そんなはずがない! こいつの妄想だろう!」
 ビシッとさされた指を叩き落とすと、さらにうるさくなった。
「それがね〜妄想でもなんでもないのよ。こいつ中一の時からパートナーいるんだから。しかもすっごく綺麗な子!」
「ぬわーにー!? 俺は信じんぞ! 絶対信じん!」
 喚く桜木を白い目で見た流川は、そのまま無視して赤木に向き直った。
「契約はまだしてないんスけど、出来ればヒート休暇欲しいっす。二、三日ぐらいで多分いけると思うんで……」
 まだ成長途中の身体だからか、それとも抑制剤を飲んでいるせいかは分からないが、依織は基本三ヶ月の周期通りにくるものの、三日もあれば終わってしまう。
 部活を休んで傍にいると、申し訳なさそうな顔をした依織に大丈夫だよ、と言われてしまうが、流川としてはバスケも依織も一生付き合っていくもので優劣はない。
 どちらも大事にしたかったので、素直にそう伝えると、ぽろりと涙を零した依織があまりに嬉しそうに笑うからひどく動揺したのは去年のことだった。
「事前に連絡を入れれば問題ない。傍にいてやりなさい」
 ただ試合のときは要相談だ。と、赤木に締めくくられ、相違なかった流川はまたこくりと頷いて答えた。
 

 着替えを終えて体育館を出てから、流川は駐輪場には行かずに図書室を訪れていた。
 ちらりとドア窓から中を覗くと、入ってすぐの机に腰掛けた依織の姿が見えた。遅い時間だからか、他に生徒の姿は見えず、カウンターに司書と思しき男性が一人いた。
 扉を開けて中に入ると、音に気づいて顔を上げた依織と視線がかち合う。
 パッと顔を明るくした依織は、器用なことに小声で「楓くん」と嬉しそうに叫び、荷物を持って小走りに寄ってきた。
「もう部活終わったんだ」
「初日だから早めに終わった」
「そっか……彩子さんに会った?」
 依織は姉のように彩子を慕っているので、「相変わらずだった」というと、「俺も会いたいな」と少し淋しそうに笑った。
 その姿に、つい(この前も俺に会うの断って会ってただろ)と低い声が出そうになったが、そこはなんとか押し殺した。狭量な男だとは思われたくない。
 なにもないがしろにされているわけではないのだ。先日は、彩子との約束が先に入っていたというだけで……。
 仕方ないとは思いつつも、それでも自分以外との約束を嬉しそうに語られるとムッとする。
 並んで校舎を出て、途中、駐輪場で自転車を拾ってから歩いて帰路につく。
 すでに外は暗くなり始めていて、うっすらと覗いた夕暮れの明るさに頼って道を進む。
 ふと、流川の目に依織の首元を飾る無機質なベルトに目がいった。
 ――うっかりしてたら横からかっ攫われるわよ!?
 耳の奥に彩子の言葉が返ってくる。
(んなこと分かってる……)
 流川だとて、何度も依織に番い契約を結びたいと申し出た。だが、いつも依織は困ったように微笑んで「十八歳になってからね?」と言うのだ。
 単純に籍を入れる年齢だけを気にしてということならまだ納得はする。しかし、依織にはどうももっと違う理由がありそうなのだ。
(絶対ろくなこと考えてねー)
 と、内心で吐き捨てているうちに依織の自宅前までやって来てしまった。
 ハッとして顔を上げると、依織が悲しそう顔で流川を見上げていた。
「楓くん、今日なんか難しい顔してたね……考え事?」
 首を傾げた依織に、反射的に否定しようとした。だが、どうせならこの機会に訊いてみたらいいのでは? と思いとどまる。
「番い契約、なんでしてくんねーの? 今日、彩子センパイにもなんでしてねーんだって言われた」
 とたんに依織が息を呑んだ。
 中学時代ですくすくと育った流川と、ほとんど伸びずに終わった依織では、昔に比べ身長差はずいぶんと開いた。
 流川もそうだが、依織も顔つきが大人びてきて幼さのあった円(まろ)やかな頬などもすっきりした。そのおかげで可愛らしさが薄くなり、周囲からの視線が少なくなるかもと期待していたが、その分美しさに磨きがかかり、流川はさらに周囲に目を光らせる羽目になった。
 しかもその依織は目立つのは嫌なくせに、元来のお人好しを発動して困った人は見捨てられないときた。流川がちょっとでも目を離すと、知らぬ間に親しい人間が増えているなんてよくあることだ。
 彩子はもちろんだが、明里とだって今じゃ仲が良く、意外と頻繁に連絡を取っているらしい。もちろん、千弘ともきっぱり告白を断ったもののキッパリ縁が切れたわけではない。しかも、和樹とは家が近所だからか、ときどき会えば話をするとも言う。
 ハッキリ言って流川は不安だった。このなにより美しく柔らかな人間が、流川の知らない間に誰かに取られるのではないかと。
 依織が心変わりするとは思っていない。しかし、相手がαであれば心が伴わなくても依織のことを手にする術などいくらでもあるのだ。
 この恋人が、誰かの手に落ちる。想像しただけで、流川の頭は冷えていき、腹の底からふつふつと怒りが煮えてくる。
 流川があまりに生真面目な顔で訊ねたせいか、依織は一度目線を落としたと思えば、決意した顔でそろそろと口を開いた。
「俺だって本当は楓くんに噛んで欲しいよ? でも、番いになると薬効きにくくなるし、楓くんに今まで以上に負担かけちゃうでしょ? もしそうなって、楓くんのバスケの邪魔しちゃって……それで……嫌われたらって考えると、俺……」
 依織の長い睫毛がふるりと揺れて、瞳に艶が増えた。目尻に光るものが見えて、流川はその細い身体を抱きしめた。
 背後で自転車が倒れた音がした。けれど、今はそちらに意識を割く余裕がない。
(たいして人通りねーからちょっとぐらい大丈夫だろ)
 と、流川は腕の中の依織を見下ろす。
「んなくだらねーこと考えてたのかよ、馬鹿やろう……」
「ごめん。だって楓くんに嫌われるの怖いんだもん。楓くんバスケ好きでしょ? だから邪魔しちゃダメだって思って……おれえ……」
 ぐずっと鼻を啜る依織の姿に、流川の胸にいじらしい想いがのぼる。はらりと落ちた涙のあとをなぞるように頬にキスを落とすと、睫毛が絡むような位置で瞳がまたたいた。
「泣いてんのもかわいい」
「……嘘だ。絶対不細工な顔してるもん」
「不細工じゃねー。綺麗すぎて心配になる。早く俺と番いになって」
 暗がりでも分かるほど真っ赤になった、林檎みたいな依織の頬に何度もキスをしながらお願いすれば、
「それはまだダメ」
 と、つれない言葉が返ってきた。
 ムッとして文句を言おうかとも思ったが、普段とは違い、恥ずかしがるような仕草の依織におや? と内心で首を捻った。
「番いになるって、その……ヒート中にそういうことするでしょ?」
 おれ、まだ心の準備できてないもん、と尻すぼみに言って依織が両手で顔を隠してしまった。さらりと流れる髪の隙間から、真っ赤に染まった耳が見えて、流川も胸がそわそわとしてきた。
 喉がしまるような愛おしさに苦しめられ、思わず目の前の身体をぎゅうぎゅうに抱きしめる。
「もう苦しいよ、楓くん」
 クスクスと鈴が鳴るような軽やかで、心地よい声が鼓膜をくすぐる。背中を丸めて細い首にすり寄るようにしてスンと鼻を鳴らす。すると、中学のころから変わらない柔らかな春の日のような匂いがして懐かしく思うと同時に、腹の奥に熱が灯るのだ。
「早く噛みてー」
 とたんに、さらに顔を真っ赤にした依織に、流川の腹の熱が大きくなった。
 この身体に自分のあとを刻みたい。出来ることなら今すぐにでも。
 湧き上がる衝動をどうにか静めつつ、これぐらいは許されるだろうと薄く開いた唇に噛みついた。

あとがき