01


 四月。門出に相応しく天候に恵まれ日のこと。
 富ヶ丘中学校の入学式が執り行われようとしていた。
 新入生たちは校舎入り口に設置された受付を済ませて「入学おめでとう」と書かれた記章を胸に、自分のクラスへと集う。
 集合時間よりもずいぶんと早くに席についていた香坂依織は、続々と集まる生徒たちの顔ぶれをそれとなく確認し、見知った顔がないことにそっと安堵の息を零した。
(よかった……同じ小学校の子はいない……)
 依織が入学する富ヶ丘中には、近隣の小学校、五校の生徒たちが進学する。その中で依織の通っていた小学校は、生徒数が各学年一クラスしかないような小規模の学校だった。
 そのため、十組以上のクラスで構成される中学生活において、知った顔と一緒になる確率は極めて低い。
 事前にそう考えてはいた。しかし、分かってはいても、実際にこうして知らない人ばかりだと安心してしまうのだ。
(あとは目立たずこっそりひっそり無害な人間として生活する……それできっと平穏な学校生活が送れる……)
 内心の決意と希望とともに、膝の上で手が拳を握る。緊張のせいでつい力が入ってしまった。
(だってもう……小学校の時みたいな生活は送りたくない……)
 ――変なやつ! なんでお前んちだけ違うんだ?
 思い出してしまった言葉に、身体が萎縮する。鉛玉を飲み込んだように器官が詰まって、重たくなった気がした。
 依織はとたんに不安に襲われた。
(変なところないかな……大丈夫だよね?)
 周囲の目につかぬよう、それとなく手で触れて身なりを気にする。
 もともと親譲りの直毛で寝癖とは無縁。ボタンを掛け違えている……なんてこともなく、とりあえず問題はなさそうだ。
 不安が落ちつくと、今度は周囲の声がよく耳に入ってくる。
「やったー! 同じクラスじゃん!」
「嬉しい! また一年よろしくね!」
 少し離れたところで、女子生徒が何人か輪を作っている。言葉の端々から感じるに、同じ小学校の出身なのだろう。
 けらけらと楽しそうに笑い声を上げていて、気恥ずかしそうに――しかし新しい生活に向けた希望を宿した目で、お互いの制服姿を見比べていた。
(いいな……俺だって、友達がいたらきっと……)
 きっと入学式なんてめでたい日に、一人でぽつんと席に座って俯いていることもないだろうに。
 依織は周りに悟られぬよう、ぐるりと教室を見渡した。
 大体の人は誰かしら知り合いがいるらしい。一人で喋らずに座っているのなんて依織ぐらいなものだった。
 ふいに依織の身体に切なさがこみ上げる。周囲の話し声がより大きく鼓膜に響く。
 クラスメイトたちの声は一様に楽しそうで、落ち着きのない浮き足だったふわふわした感覚を内包している。そんな背伸びするような緊張感の中でも、これからの生活に夢を見ていることが伝わってきた。
 周囲の声が届くたびに、依織は自分の口が重くなっていくような錯覚を覚えた。
 声の出し方を忘れてしまったようだ。つっかえたように喉が塞がって、じわじわと喧噪に絞め殺されているような息苦しい淋しさに襲われる。
 いっそう首をもたげて生徒たちの姿を視界から消す。そうしてどうにか息を吸おうと口を開いたとき――。
 ガラリと教室の扉が開いた。遅刻ギリギリだから急いで開けたのか、大きな開閉音に依織を含め生徒たちの目が自然と集まる。
 ぬっと大きな影が入ってきてその人物が目に止まったとき、空気が静かにざわめくのを感じた。
(わっ……綺麗な子……)
 クラスメイトたちは言葉を忘れたようにその人物に眼を奪われている。もちろん、依織も息を呑んで見つめている一人だった。
 先月まで自分と同じようにランドセルを背負っていたとは思えない、長身でしっかりとした体躯の青年だ。
 白い肌は日に焼けたことのないような透明感で、その肌の上を滑る黒髪がなんとも艶やかで美しい。
感情の薄い瞳がちらりと教室内を見やる。
 その視線に、ドキリと心臓が跳ねた。まるで蛇に睨まれたような心地で、冷や汗すら浮かびそうだった。
 のっそりと緩慢な動作で空いていた机に腰をかけた青年は、座ってそうそうに顔を伏せて寝てしまった。
 涼やかな美貌が隠れてようやく、教室内の時間が再び流れ始める。
 さっきまで楽しそうに声を上げてはしゃいでいた女子生徒は、わずかに頬を赤くしてひそひそ話をしている。その瞳はどこか艶っぽく濡れていて、ちらちらとさっきの青年を見ていた。
 男子生徒は男子生徒で、声を潜めて話し出した。どこか気圧されたように冷や汗をかきながらも青年のことを気にしていた。
 誰も彼もが顔を伏せてしまった青年のことが気になって仕方がない。そこまで強烈に人々の視線を、意識を、かき集めてしまうほどのオーラ。
(あの子、αだ……)
 周囲が未だに青年を目で追ってしまうなか、依織だけは青年を視界に入れぬようにどこか青白い顔で俯いていた。
 身近にいるからこそ知っているのだ。なにもせず、そこにいるだけで人々の意識をさらっていく生まれ持っての強者。一度見たら鮮烈すぎて記憶からは離れない人間。
 そういう人間が、この世界には存在する。
 依織は、自分のうなじを無意識のうちに撫でていることに気づき、ハッとして膝の上に添える。けれど、無防備にしているのは落ち着かず、髪を撫でる振りをしてそっと手のひらでうなじを隠した。
(……同じクラスにαがいる)
 すぐにでも逃げ出したい焦燥を、足を踏ん張ることで耐える。
 大丈夫。大丈夫だ。
 毎年クラス替えが行われるし、あの青年と一緒なのはこの一年だけかも知れない。
 そもそも依織がΩだと決まったわけではないし、仮にΩだったとしても、Ωの発情期ヒートが始まるのは、多くは高校生の時期。
 中学生の一年間、同じクラスだったぐらいではなにも変わりはしない。
(そう。俺は最初の通り目立たずひっそりこっそりをモットーに過ごせばいい。それだけでいいんだ……)
 万が一にも、あんな強烈な印象を残すαと関わるなんてことは、同じクラスだったとしてもあり得ないことだ。

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