03

 朝焼けのころに依織は目が覚めた。
 時計を見ると目覚ましよりも随分と早くて、少しだけ二度寝をするか迷ったけれど、なんとなしにベッドを抜け出した。
 カーテンと戸で締め切られた家の中は薄暗く、その静けさのなかにどこか予感めいた不思議な感覚を覚えた。
(あれ、尚人パパも晴也パパもいない……)
 自室から階段を下りていくと、いつもなら明かりの点いているキッチンが暗かった。訝しく思った依織がペタペタと素足で向かって覗き込む。
 やはり、誰の気配もしない。
 オープン型のキッチンに二十畳以上あるリビングダイニングは、ただでさえ三人暮らしには広々と感じられたが、明かりもなく家族の気配もないとさらに広く感じられて淋しい。
 そして、この淋しさは依織には覚えのあるものだった。
 もしかして……、と冷蔵庫に近づくと、扉に磁石でとめられたホワイトボードが目に入る。普段は家族の連絡事項や、買い出しのメモが書かれているものだ。
 そこの真ん中に大きく、「ヒート中です」と走り書きがされていた。よく見ると、隅っこには「いおり、ごめんね」の文字。
(……そっか。今日からか)
 そろそろかな、と思ってはいたが、今日……もしくは昨夜かららしい。
 Ωは数ヶ月に一度、発情期(ヒート)を起こす。その期間はおよそ一週間。
 その間Ωの身体は性欲が高まり、フェロモンを発する。性に関すること以外考えられなくなり、しかも熱に浮かされてろくな身動きも取れなくなるため、職を見つけるときにこれが障害となることが多い。
 しかも、Ωの発するフェロモンは、それを嗅いだα、また時にはβのことを誘引する。そのフェロモンは強烈で、番いを持たないαであればまず理性を保つことは難しいという。
 そういった背景もあり、Ωは子を孕むための性別、また他者を堕落させる性だと昔から差別的な目を向けられてきた。近代ではそういった差別の目を向けることは禁止され、軟化してきてはいるが、侮蔑や非難の目を向けてくる者はゼロではない。
 依織のΩの父――尚人も、今の仕事につくまでは随分と苦労したと聞いている。なにせ発情期はきっちりと決まった周期で来ることは少なく、多かれ少なかれ前後するものだ。
 どうしても急に休みを取る必要があり、しかもそれが一週間……。理解のない会社はまだまだ多い。
(しばらく二人とも部屋から出てこないな……)
 尚人は自力で部屋を出ることは出来ないだろうし、晴也も尚人のそばを早々に離れることは出来ないだろう。
 発情期中は、性欲のほうが優先となり、食欲などは減退するが、さすがに飲まず食わずで一週間も過ごせるわけではない。
 二人――もしくは晴也がいつ下りてきてもいいように、簡単なものは用意しておこう。
(って言っても、いつも料理は二人に任せっぱなしだから、おにぎりぐらいしか作れないけど……)
 ついでに自分のお弁当も作ろうかな、と依織は腕まくりをしてキッチンの明かりを点けた。

 Ωのフェロモンは、αと番いになると、その番いになったα以外には感知できなくなる。そのため依織が家にいたところでフェロモンに当てられるようなことはない。
 それに、香坂家のそれぞれの自室は、発情期中のことも考慮して、防音完備がされている。
 そのため物音や話し声で気まずさを覚える……なんてことはないが、静かなリビングに一人でいる気にもならなくて依織は支度を終え次第、すぐに家を出た。
 普段よりもずっと早い時間だが、人の少ない朝の通りというのも雰囲気があっていい。
 いつもならほかにも同じ制服の生徒を見かけるが、今日はほとんど目にせず学校まで辿り着いてしまった。
 校門を抜けたところで、自転車が一台、依織を追い越して敷地内に入った。しかし、キッと短いブレーキ音がしたと思えば、「香坂?」と小さく呼ばれる。
 ドキリとして心臓が冷えた。
(小学校の子だったらどうしよう……)
 そう思って恐る恐る向いた先には、艶のある黒髪を揺らした流川の姿があって、依織は人知れず安堵した。
「流川くん、おはよう……早いね」
「はよ……俺は部活の朝練」
「そっか、運動部は朝練あるんだもんね……朝早くから大変だ」
 頑張ってね、と手を振ると、流川は一度頷いてからまた自転車を漕いで駐輪場のある敷地奥へと走って行く。
 わざわざ依織に挨拶をするために停まってくれたらしい。それがなんだか嬉しかった。
(今まで、友達らしい友達っていなかったもんな……)
 遠くなる流川の背中を見送ってから、依織も昇降口のほうに足を向けた。


 依織の昼時のルーティンは、まず流川を待つことから始まる。
 健康男児らしく、流川はたくさん寝るのと同じぐらい、たくさん食べる。四限目の終わりにはパッチリと目を開けていて、終了の礼とともに教室を飛び出していく。
 そう経たないうちに、両腕いっぱいに抱えたパンの山を持って、依織の机までやってくる。
 そんな彼の姿、まるで成果を見せる子どものようで、依織はつい
「いっぱい買えたんだね」
 と、褒めてしまうのだ。
 流川が教室に戻ってきたら、二人で屋上に向かう。それが入学してからの依織と流川の日課だった。

「今日、いつもとちげー?」
 珍しく、流川のほうから言葉が出た。二人での昼食は基本的に無言の時間が多い。流川はこの通りの口下手だし、依織も依織で友人なんてまともにいたことがないので、どうやって話をすればいいのか分からない。
 けれど、存外その沈黙を悪く受け止めてはいなかった。多分、流川がなにも考えていなさそうなのが、依織の肩の力を抜いてくれるのだ。
 だから、まさか流川から喋りかけられるとは思っていなかった。
 流川の問いから数秒遅れて、自分のことを言われているのだと自覚する。
 ――いつもと違う?
「え、あっ……そ、そうかな? 変なとこあった?」
 慌てふためく依織に、流川は「変ではねーけど」と前置きし、その切れ長の瞳を落とす。それに倣うように依織も目線を下ろし、その先にあった自身の弁当にあっ、と思い至る。
「もしかしていつもと違うって、お弁当のこと?」
 おずおずと訊けば、流川の頭がこくりと揺れる。
 途端に強ばっていた依織の身体から力が抜けていった。
(なんだ……お弁当が普段と違うだけか……)
 それなのにこんなにドキドキして、ちょっと気にしすぎかなと思った。
 寝癖がついていないか、制服がほつれてないか。いつだって玄関の姿見で念入りにチェックしているのだ。そうそう身だしなみが乱れるなんてことはないだろう。
 はたから見れば気にしすぎと言われるかも知れないが、気の抜けたところを見せると、そこを突かれてまた針の筵(むしろ)になるかもしれない。その恐怖心が、依織を急き立てる。
 本当は、まだ肌寒いときがあるからカーディガンを着たい。でも、男子生徒でこの時期に着ている人なんてほとんどいなくて、弱々しく見られるんじゃないかって心配になる。
 本当は、尚人からもらったキーホルダーを鞄につけたい。でも、それを訊ねられたとき、自分は父のことをどう答えるだろうと考えると、気が重くなって結局つけられていない。
 人と少しでも違うことをするのが、依織にとっては怖くて仕方なかった。
(その点、流川くんはすごいよなあ……)
 人に合わせるということをしないこの青年が、依織はただただ純粋にすごいと思っていた。
「……香坂?」
 黙り込んでしまった依織に流川が呼びかける。ハッと我に返った依織が「あ、お弁当だっけ?」と話を戻すと、流川はまた頷いた。
「いつもは尚人パパが作ってくれてるんだけど……今は発情期中で作れないから、今日は自分で作ったんだ」
 慣れてないから卵焼きはちょっと焦げているし、こういうときのために買い置きしてある冷凍食品が入っている。だからきっと、いつもと雰囲気が違うように見えたんだろう。
 今になって見られているのが恥ずかしくなってきて、依織はそっと手で隠すように弁当箱を持った。
 流川はやっぱりなにを考えているか分からない目で依織を見ている。
「親、Ωなのか」
「あっ、」
 ひゅっと息を呑んだ音が自分でも分かった。サッと顔から血の気が引いて、指先が冷たくなってくる。
(い、今、おれなんて言ったっけ……? 発情期だって言っちゃった……でも男だとはばれて、ダメだ尚人パパって言ってる……)
 バレた。バレてしまった。男のΩが親だって。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
 今は流川しかいないし、頼み込めば黙っていてくれないだろうか。流川は言いふらすような人間には見えないし、きっと大丈夫。大丈夫だ……。
 ――お前、父ちゃん二人なんだろ? Ωから生まれたんだ!
 ――お前もΩなんじゃねーの?
 耳の奥にこだまする少年たちの声が、ぐわんぐわんと頭を揺らす。しきりに視線があちこちに揺れて、自分でもなにを見ているのか分からなくなった。
(やばい、吐きそう……)
 きゅっと胃の絞られる感覚に、依織が吐き気を覚えたとき――。
「Ωって、やっぱ大変なんだな」
 なんてことない世間話みたいな……そんな抑揚の少ない、いつもの調子で言う流川の声が届いた。
 虚をつかれたように息が止まって、放心している間にさっきまでの吐き気も耳鳴りも全部すっと消えていった。
「……え?」
 言われた言葉が信じられなくて、上目遣いに様子を窺いながら訊き返してしまう。
「Ωって、定期的に体調崩すから大変だって親が言ってた。だから、やっぱ大変なんだなって」
 そう言って、流川は大きな口でパンを頬張った。その声音にも、横顔にも、からかいや侮蔑の色は浮かんでいない。
 ――Ωってエロいんだろ? セックスのことしか考えてねーんだもん!
 ――香坂もそうだろお! お前、顔は綺麗だもんな! Ωはそれで男を誑かすんだって母ちゃん言ってたぞ。
 ふいに昔のことを思い出した。
 覚えたての言葉を使いたがるように、保健の授業でバース性の話があった日は、帰路で何人かの男子生徒から囲われて囃(はや)し立てられた。
 普段は話をしないような子も集まってきて、怖くて……なにより恥ずかしくて、依織は泣きべそをかいて逃げ出したのを覚えている。
 走る途中で盛大に転け、膝を擦り剥いてわんわん泣いた。そのまま帰ったものだから、家にいた尚人には怪我をしたせいで泣いたと思われたのは運が良かったと思う。
 その夜は、布団の中で丸まって昼間のことを思い出し、こっそり泣いたのを覚えている。
(本当はあのとき、俺は言い返したかったんだ……)
 発情期中の尚人は、高熱で身体もろくに動かせなくて、ご飯も食べられない。何日も苦しんで苦しんで、ようやく解放される。
 そんな生活を、何年も何十年も――死ぬまで続けていかなきゃいけない。
 囲われて大声でからかわれて、恥ずかしくて死にそうだったけれど、あの時の自分は悔しさだって抱えていたんだ。そんなことに、今さら気づいた。
 ――やっぱ大変なんだな。
(そうだよ……Ωって大変なんだよ)
 からかって、馬鹿にしていいようなことじゃないんだ。
「発情期中は、ろくに身体動かせなくて大変なんだ……人によってはフェロモンの発現が上手く出来なくて入院する人もいたり、正気を失って自傷行為をしちゃったり……」
 父のためにと、何度も読み込んだ本に記載されていたもの。
 まだ子どもだったあの日に言いたかった言葉が、今はすんなりと出てきた。ちらりと様子を窺うと、流川は目を見開いてびっくりしたように瞬きをしていた。
「……やばいな。親がΩに優しくしろっていうのも分かる」
 うん、うん、と頷いて、流川は最後の一口を飲み込んだ。
 親身になりすぎるわけでもなく、かといって理解に苦しむわけでもない。そんなほどよく距離のある態度が、どうしようもなく依織には優しく見えた。
「特別優しくしてくれなくたっていいんだ。ただ、知っておいてくれたら……それだけできっと、嬉しいと思うから」
 だから……ありがとう、流川くん。
 滲んだ涙を押しこめるように目を閉じ、笑ってお礼を言うと、流川はその意図が分からなかったのか首を傾げていたが、それでも「おう」と頷いた。依織にはそれで十分だった。
「そういや、片方がΩってことはもう一人はαか?」
「っ、うん、そうだよ」
 頷くのを一瞬だけためらったが、相手は流川だからとすぐに肯定した。両親のことを、こんな憂いもなく話せたのは初めてかもしれない。
 片親がαと聞くと、流川は「だからか」と納得したような声を出していて、依織が訝しく見ているとぽそぽそと静かに続ける。
「俺の家、両方αだから……だから俺と話すヤツは大体家に来たがる。あとは女子だと付き合いたいとか……」
 けど、香坂はいつまで経っても言ってこねーからなんでかなって。
 さっきまでの話と同じような、淡々とした調子で流川が言う。
「でも、家族にαがいるならわざわざαの知り合い作る必要もねーもんな」
 そっと伏せられた睫毛が影を作り、日に遮られた流川の瞳にほっと安堵のような色が浮かんだ気がして、依織は居ても立ってもいられなくなった。
 そんなに淋しそうな気配を見せるほど、今までαということを目的に人が寄ってきたのだろうか。
「お、おれっ!」
 依織は咄嗟に身を乗り出した。突然のことに驚いた流川は、仰け反るように身体を引いた。
「俺は! 流川くんのご両親がαだろうとなんだろうと、声かけてたから! きみが、寝ぼすけで放っておけなくて、それで声かけたの! ご両親のことは関係ないから!」
 一息で言い切るころには、依織の肩は走ったあとのように上下していた。今までこんなに大きな声で喋ったことはない。途中で声が裏返ったり早口だったり、きっとずいぶん情けない姿だったろうな、と思う。
 それでも伝わって欲しかった。流川楓の両親なんて関係なく、依織は声をかけたのだと。そんな人間もいるんだって、知って欲しかった。
 ほかにも色々言いたいことがある。でも、人と接してこなかった依織は上手く言葉に出せない。
 それがひどくもどかしく、悔しかった。湧き上がる口惜しさに、依織はぎゅっと口を引き結ぶ。
 そんな必死な様子の依織を、流川は今までになく大きく眼を見開いて、まるで一挙一足見逃さないとばかりに瞬きもなく見ていた。仰け反っていた彼の上体がゆっくりと戻って、そろそろと腕が伸びてくる。
 幻影でも掴もうとしているような、そんな流川の覚束ない手の動きに幼(いた)気(いけ)さが見えて、依織は胸が潰れる思いがした。
 流川の腕が届くよりも前に、依織は彼の白い頬をそっと撫で、そのまま髪をかき分けるように指を差し込んで頭を抱き寄せた。驚きか緊張か、流川はどこかぎこちなく強ばった身体でおさまっていたが、やがて力を抜いて依織の身体に身を任せる。
 自分よりも大きな身体をしているのに、依織には流川が幼い子どものように見えた。
(俺ときみは、同じように一人ぼっちだったんだね……)
 からかうために依織を囲っていた人たちと、目的を持って流川に近づいてくる人たち。
(流川くんは俺みたいに弱くないけど……それでも、ちょっとは淋しかったよね)
 きっと流川は一人でも生きていける人間だ。周りに人が居なくても傷つくことはないのかもしれない。
 けれど幼い子どもにとって、自分を通り越してなにかを見られるということは。そこへ近づくための道具にしか見られていないというのは、本当に傷もなくやり過ごせるものだろうか。
 ほんの少しの引っかかりさえ覚えずに、流川は今まで過ごしてきただろうか?
 そんなはずはないと、依織は思った。
 でなければ、依織が今までの人物と違うと分かって、安心した顔なんてするわけないのだ。
 きっと簡単に傷ついてしまう依織の弱い心とは違って、流川の心はビー玉みたいに固くて頑丈に出来ているだろう。今まで彼に近づいてきた人たちの行動は、ビー玉を爪で引っ掻くような、そんな些細な痛みとノイズだったかもしれない。でも、そこに傷跡が残っていなかったとしても、流川が傷ついたことには変わりないのだ。
 今よりも小さな流川が一人ぽつんと佇む姿を想像して、依織に切ない痛みが走る。
「おれ、今まで友達っていなかったから……流川くんとこうやって一緒にいられて嬉しい。……ありがとう」
 気の利いた言葉はなにも出てこず、ただ素直な感情だけを吐き出した。
 慰めたいのに、どうしてか依織のほうが泣きそうになっていた。
 しばらくの間、流川のことを胸に抱きしめていたが、彼の手が依織の背中をとんと叩いたのを合図に身体を離す。
 強く抱きしめていたせいか、流川の細い黒髪が乱れていて申し訳ない気分になった。離れると、急に羞恥心が浮き上がってきて、恥ずかしくなる。
 それでも、ゆっくりと身を起こした流川の瞳にいつもよりも光が多く見えて、そっと依織の顔色を窺うように見上げてきたから、行動して良かったと思えた。
「……香坂って、変なやつ」
 吐息まじりの夢心地(ゆめごこち)な声。二人に降り注ぐ五月の陽差しよりも柔らかい、春を思わせる流川の声音に、耳がカッと熱くなった。
 いつも凜々しい眉からふっと力が抜けて、切れ長の鋭い目が甘く垂れる。
(わっ、わっ……)
 ほんの微かに上がった口角に、ドキリと心臓が跳ねた。さっきまで淋しくて苦しかった心臓が、とたんに熱を持つ。
「お、チャイム」
 敷地内に響く鐘の音に、流川はいつものぽやんとした凜々しさを取り戻した。
「香坂、行こう」
 手を差し出されて、依織はそっと自分の指を重ねる。一回りは大きな手に掴まれて引っ張り起こされたはいいが、どうしてか流川は手を離さなくて、繋いだまま屋上を出た。
(お、おれ……どうしたんだろ。変って言われたのに……)
 「変」だと思われることが、怖くてたまらなかったはずなのに。
 ――香坂って、変なやつ。
 耳の奥に、瞼の裏に……言葉が、笑みが、焼き付いて離れない。
 繋いだ手が沸騰するぐらいに熱く感じて、心臓が今までにないぐらいドキドキしていた。

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