04


 六月に入ってから、雨の音で目が覚めることが増えた。
 うっすらと立ちこめた灰色の雲から、パラパラと小雨が降っている。それを窓硝子越しに眺めてから、依織はベッドを抜け出した。

 尚人の発情期中に屋上で流川と話をしたあとから、依織は今も、こうして早い時間に家を出ている。
 朝(あさ)雨(さめ)のなか、葉が擦れるような微かな雨音をBGMに、依織は登校していた。しばらくすると、雨の静けさに混じって軽快な車輪の音が近づいてくる。背後でそのスピードが落ちるものだから、依織はドキリとして振り返った。
「流川くん……!」
「おう……おはよ」
「おはよう」
 雨合羽(あまがっぱ)をかぶった流川は、依織の横で自転車を止めて降りた。せっかく合羽を着ているのに、フードが後ろに落ちていて、いつものサラサラの黒髪がぺたんと濡れそぼっている。
「風邪引いちゃうよ……こんなに濡れて」
 慌てて傘の下に迎え入れ、鞄から出したタオルで流川の顔を拭う。流川は目を閉じてされるがままだ。
 彼の長い睫毛にも滴がついていて、角度によってきらきらと光る。ほっとため息が出るほど美しくて、依織は一瞬見入ってしまった。
(あ! いけない、いけない)
 すぐに正気に戻って髪や肌を拭いていく。
 あらかた水分を拭き取ったので声をかけると、流川は屈んでいた身を起こして目を開けた。
「さんきゅー」
「制服も濡れちゃってない?」
「……まあ、学校では体操服着てりゃいいし」
「そっか」
 どちらからともなく歩き始める。依織は少し傘の位置を上げて流川のほうに傾けた。それに気づいた流川は、自転車を引きずって依織との距離を詰めた。
 きっと依織が濡れないようにという、彼なりの気遣いなのだと思う。
 屋上で話をしたあの日から、朝はこうして数分の距離を一緒に歩くことが二人の新しい日課だ。
 示し合わせたわけではない。依織が登校時に一目でも流川の顔が見れたらいいなと思って、早く家を出ているだけなのだが、流川は依織を見つけるとこうして立ち止まって一緒に歩いてくれる。
 学校までほとんど距離がないこともあるけれど、それでも友人と少しでも同じ時間を共有できるのは嬉しかった。


 三限目が終わり、次の授業は体育だ。ロッカーに押し込んだ体操服を取りに廊下にでると、窓の外はまだ雨が降っていた。朝よりも、少し勢いが増している気がする。
「あ、流川くん……」
 教室からのっそりと現れた寝ぼけ眼(まなこ)の流川に駆け寄ると、彼はうっすらと目を開けて依織を認識した。
「眠そうだね……大丈夫?」
「……おう」
 頷きつつも、長い睫毛が頻繁に揺れている。
 返事もどこか舌足らずな甘さがある。けれど、いつも体育のときだけはばっちり開いた目で臨んでいるので、着替え終える頃には起きているだろうと依織はのんきに思った。
「更衣室、行こっか」
 だらりと垂れた手を引いて一階の更衣室に向かった。空いていたロッカーを見つけて依織がシャツを脱いだ頃に、流川もよろよろとジャケットから手を抜いた。
「今日は雨だから体育館だね〜」
「……バスケがいい」
「そうだね。バスケだといいね」
 ジャージをスポッと被って、胸元のファスナーを上げる。依織のほうが着替え始めは早かったのに、依織が身支度を整え終えたときには、すでに流川は隣に立って依織のことを待っていた。
 時間が経つごとにその勢いを強めていく雨は、渡り廊下の屋根から滝のように落ちていた。跳ねた水が靴下にかかったのを見て、依織は一歩、廊下の内側による。
 すると、流川と肩がぶつかってしまった。
「あ、ごめんね、流川くん」
「別に……全然平気」
 言葉の通り、流川はよろめきもしなかった。
 たしかに流川のように体格も良くて体幹もしっかりした子に、依織のようなひょろりとした枝のような男がぶつかっても大したダメージはないだろう。
(ちょっとだけ……ほんとにちょっとだけ悔しいかも)
 ちらりと横目に繋がった手を見る。並んだ腕は、あまり外に出ない依織と室内競技の流川ではそう変わらぬ日焼け具合だが、太さが雲泥の差だ。
(大人と子どもぐらい違うんじゃ……これ……)
 ここまで差があると、落ち込むよりもまず、すごいな〜と感心してしまった。きっと、流川がどれだけ努力しているかを知っているからだと思う。
(あんな朝早くから、夜遅くまで部活やってるんだもんね……)
 実際に部活に励む姿を見たことはないが、それでも言葉の端々から流川がバスケにかける情熱は分かるものだ。
「依織?」
 ふと背後から名前を呼ばれた。依織の交友関係は限られており、名前を呼ぶ人物なんてそれこそ小学校の同級生しかいない。
 バクバクと心臓が緊張と恐怖で音を大きくする。縋るように繋がった手に力を入れてそろそろと振り返ると、そこには体操服姿の男子生徒が二人並んでいて、片方はよく見覚えのある人物だった。それが、さきほど依織の名前を呼んだ青年――和樹である。
「か、和樹くん……」
 怯えをはらんだ声で呼べば、あからさまにムッとした顔をする。
「お前、なに男なんかと手、繋いでんだ? きもちわりー」
 和樹のあまりにあけすけな物言いに、隣の生徒はぎょっとして慌てる。しかし、それも目に入っていないのか和樹は目を眇めて依織を見たあと、隣の流川のこともじろじろと見定めるように眺めた。
 しげしげと顔を見ているうちに、まるで合点がいったように和樹が「あっ」と声を上げた。
「お前バスケ部の流川くんじゃん。……なるほど、今からαに媚び売ってんのか? Ωは逞しいなあ」
 からかいと侮蔑まじりの言葉に、ぎくりとした。依織がとっさに手を引き抜こうとしたが、それを流川が反射的に握りしめてとどめる。
 えっ、と依織が見上げると、流川はわずかに眉を寄せて不快感を露わにしながら淡々と静かに紡いだ。
「バース診断はまだでてねえし、俺がαかも、こいつがΩかもわかんねー。あと、これは変じゃねー」
 これ、と称して、流川は繋がった二人の手を持ち上げて見せつけるように揺らした。とたん、和樹の顔がまるで悔しいとでも言うように歪んだので、依織は怖くて視線を彷徨わせた。
 しかめた顔のままなにか言いつのろうとする和樹を、隣の生徒が肩に手を置いて「もうやめろって」とやんわり制止する。
 依織は見たことのない人なので、きっと中学で知り合った友人なのだろう。
 彼と目を合わせた和樹は罰が悪そうにし、そのまま依織たちを追い越していく。通り過ぎる際にチラリと向けられた眼差しは、やっぱり険しいものだった。
 和樹は、依織――というよりも、二人が繋いでいる手を見て不愉快そうにしていたように見え、
(そんなにαとΩが嫌いなのかな……)
 と、依織は悲しくなった。
 会った当初はこんなふうではなかった。
 たしかに初対面の印象はひどいものだったが、子どもの世界の狭さを考えれば納得も出来る。和樹は、珍しいものにただ反応しただけなのだ。
 その後も、「父ちゃんαなのか? Ωなのか?」と訊かれることはあったが、そこには幼い子ども特有の好奇心しかなかった。
 今のように馬鹿にすることも蔑むような色もなかった。しかし、小学校に上がってそう経たないころだ。どこから訊いたのか、和樹は突然、「Ωはαとしか結婚しないのか?」と訊ねてきた。
 別にαとしか結婚しないわけではなく、発情期の苦痛を和らげることが出来るのも、番い契約を結べるのもαとだけ、というだけで限られているわけではない。ただ、実際問題として、αと結婚するΩが多いのはたしかだ。
 そう伝えようとしたけれど、和樹の様子があまりに鬼気迫るものに感じ、その気迫に呑まれて上手く言葉が出ずに、依織は頷くだけで答えた。
 すると、和樹は衝撃を受けたように眼を見開いて、じわじわと涙をためると、どこで覚えてきたのか、依織に向かって「尻軽女!」と叫び走って行ってしまった。
 和樹が依織に対して当たりが強くなったのはこのあとからだった。
 先を行く和樹の背中に、そんな遠い日のことを思い出した。
(昔は、普通に話をしたことだってあったのに……)
 授業があるので、依織たちも体育館に入らねばならない。同じように進んでいったところを見るに、今日の体育は和樹たちのクラスと合同なのだろう。
 入り口から中を見ると、すでに結構な人数が集まっている。倉庫からボールを出して遊んでいる者や、壁際や壇上で集まって話をしている者。さまざまだが、明らかに依織たちのクラスだけではない人数だ。
 和樹以外にも数人、見た顔がある。余計に気持ちが重くなった。
 出来れば授業が始まるギリギリまで中には入りたくない。ないとは思うが、また声をかけられたらと思うと胃がキリキリと痛む気がするのだ。
(流川くんには先に行っててもらおう)
 と思うと同時に、さっきのやりとりに申し訳なさがこみ上げてくる。
「ごめんね、流川くん」
「ん?」
「俺のせいで、嫌な思いさせちゃって……」
 先に行っててくれる? と、手を離そうとしたけれど、指先をつままれる形で引き留められてしまう。
「嫌な思いしたのはお前だろう?」
 低く、抑揚の少ない声。慰めようという意図はなく、淡々と事実を口にしたような口調に、依織はおずおずと顔を上げた。
流川は相変わらず無愛想な顔をしていたが、その瞳にこちらを窺うような気配を見て、依織は行き場のない感情がじんわりと胸を温め、柔く唇を噛みしめた。


 ――昨日から梅雨入りが発表されており、例年よりも少し早い……
 テレビから流れてくるお天気お姉さんの声を耳にしながら、依織は食べ終えた食器を流しに片付けた。
 両親に声をかけ、鞄を手に学校を目指す。無機質なビニール傘にぽつぽつと滴が増えていって、そのうちそれらは大きな粒になって滑り落ちていく。
 途中、通り道の一軒家の庭に紫陽花が咲いていて、それを見ると雨の中でも気分が和むものだ。依織はほんのわずかに歩くスピードを緩めた。
 なんとなく、今日はいい日になるかな……と根拠のない思いを抱いた。

 その日はいつも通り平穏に過ぎていた。予期せぬ忘れ物もなく、教師に当てられて困るようなこともない。至って平凡な学校生活。昨日と同じように過ぎていく、特別でも何でもない日だった。
 そうやって何事もなく、帰りのHRを終えれば帰宅する――依織は数分前までそう思っていた。
「あ、あと、四月のバース診断の結果が来たから呼ばれたら取りに来るように」
 そう言って名前の順に生徒が呼ばれていく。
 HRの最後につけ加えた教師の言葉に、依織の心臓はドッと跳ね上がった。ずっとよそ見をして見ないふりをしていたものが、急に鼻先に突きつけられた気分だ。
 めまぐるしく思考が回っているうちに、すでにか行の人物まで呼ばれて、いよいよ「香坂―」と、教師の伸びた声が届く。
 差し出されたA4サイズの茶封筒を、ぎこちなく受け取ってから席に戻る。
 ほとんど重さも厚みもない。それなのに、この手におさまるちっぽけな紙切れが依織は怖くて仕方なかった。
 クラスメイトたちは受け取ったそばから封筒を開けている。世の中の大半はβで、稀に隔世遺伝でαやΩを発現することもあるが、ほとんどは両親どちらかの遺伝だ。そのため、身内にαやΩがいない彼らは、自身の結果を隠さないし、他人に知られたところで痛くも痒くもないのだ。
 こういう時に躊躇するのは、それは自分がΩである可能性がある者ぐらいだろう。
(例えば、俺みたいに……)
どうしようかと随分迷った。家に帰ってから開けてみるか。しかし、家で開けるといつ両親と顔を合わせることになるか分からない。出来れば受け入れる時間が欲しい。
取り乱しているところなんて見せたくないからと、依織は今確認してみることにした。そうすれば、帰宅までの時間を自分で調整することが出来るからだ。
迷っているうちにHRが終わって、クラスメイトのほとんどが部活や帰路にと教室を出て行ってしまったことも大きかった。
震える指で封を開ける。中には二つ折りになった書類が一枚あり、のり付けされて中が見えないようになっていたので、開け口からぺりぺりと剥がしてみた。
一番上には「バース診断」と書かれていて、しばらくはよく分からない数字の表が並ぶ。
(バース性は……)
 バクバクと高鳴る心臓の音とともに、ゆっくりと目を落としていく――そして、最後に書かれていた診断結果に、依織はふっと脱力した。
「おめが……」
 机の上に閉じた書類を置き、そのまま依織はくったりと首を後ろにもたげて天井を見た。
(やっぱそうか……いや、でももしかしたらって……思っちゃうじゃん……)
 納得する声。どうして、なんでと悲観する声。心の中に、二つの声がざわめいていた。
 視界が滲んだので慌てて目を閉じたが、瞼越しにも蛍光灯の白い光は依織の目に痛みを走らせた。
 俯いて顔を両手で覆う。手のひらで、少し乱暴に目元を拭った。
 しばらくそうしていたが、あまり遅くなるのもまずいと鞄の中に封筒ごと診断書をしまって席を立つ。
(……ん?)
 そのまま教室を出ようとしたのだが、ふと流川の机の横を通った時、彼の机からはみ出たプリントが目に入った。
 半分も見えていないが、いくつか数式の書かれたそれを、依織はもしやと思い引っ張り出してみる。
「これ、明日提出の宿題じゃん……」
 しかも全く手つかずのものだ。数学の担当教諭はこうしたちょっとした課題を毎回のように出す。そして、課題の未提出者には、その分だけ成績に影響が出るのだ。
(流川くん、中間テスト最悪だったよね……? 宿題出さなくていいのかな……)
 彼のテスト結果を知っているだけに、このプリントを期限当日に終わらせている姿が想像出来ない。
 机の中に押し込められていたせいで皺の寄ったプリントを伸ばしながら、依織は少し迷う。
 今の時間なら流川は部活動中なので、体育館に行けば会えるはずだ。最悪宿題があることすら忘れていそうな男なので、持って行こうかな、と課題のプリントを自分のファイルにしまった。今度こそ教室を出ようと思ったが、彼の机からほかの用紙が飛び出ていることに気づく。
 多分、数学のプリントを引っ張ったときに一緒に出てきてしまったのだろう。
 まさかほかの授業の宿題じゃ……と、若干呆れまじりに確認した依織は、その紙を目にしてすぐに机に叩きつけるような勢いで伏せた。
じんじんと手のひらが痛みを主張するが、そんなことを気にしている場合ではない。
(あ、αだった……いや、そっちじゃない……ど、どうしよう、診断書見ちゃった)
 手に取ったとき、紙質が違うな、と違和感はあった。けれど、封筒にも入れず、診断書をそのまま放置している人間がいるなんて思わないじゃないか。
(え、え……これ置いて帰るつもりなの? ただの宿題とは違って、バース診断だよ⁉)
 けれど、流川ならあり得るとも思ってしまった。なんせ、バスケ以外にはとことん興味関心を向けない人物だと、この短い交流期間で依織はよく知っていたからだ。
(でも置いたままにしておけないし……)
 どうせプリントを届けるのなら、一緒に渡しに行こう。
 依織は結局、診断書も一緒にファイルにしまって体育館に向かうことにした。
 一階に降りて廊下を進んで渡り廊下に出ると、館内からは女子生徒の歓声とともにバタバタと走り回る音が聞こえてきた。
 開けっぱなしになっている扉からそろそろと中を窺うと、バスケ部と見られる男子生徒たちが試合形式で練習をしている。
 甲高い歓声は、二階のギャラリーにいる女子生徒たちかららしい。
(こんなに見学に来てるんだ……)
 わざわざ部活動の見学にまで来るなんて、そんなにバスケが見たいのかな、と思っていたが、その考えはすぐに覆された。
「きゃー! 流川くーん!」
「頑張ってー!」
 見知った名前に、依織はコートに視線を戻す。そこにはビブスを羽織った見慣れた男子生徒――流川が、ちょうどパスを受け取ったところだった。
(そっか、みんな流川くんを見に来てるんだ)
 ボールが流川の手に渡ってからは一瞬だった。
瞬きをしたら見失いそうなスピードでドリブルをしながら、相手チームの部員を躱していく。
そのままゴールまで駆け抜けたと思えば、流川の大きな身体がふわりと軽い調子で飛び上がる。依織の位置から見上げると、ちょうど照明と重なって、眩しさに目がくらんだ。
(……きれい)
 さっきまでの流れるような美しい動作とは反して、荒々しいほどの力強さでボールがゴールに叩きつけられた。
 体育館中に響くような金属の衝突音に一拍おいて、女子生徒の悲鳴のような歓声が轟く。
 それを遠く聞きながら、依織は静かに深く息を吸い込んだ。
 まるで自分が走り終わったあとのように心臓がバクバクしている。けれど、どこか身体の奥は冷えていた。
(バスケが好きだって知ってたけど、こんなにすごいんだ)
 ゴールポストから手を離して着地した流川は、同チームの先輩たちにもみくちゃにされている。
 それを涼しい顔で受け入れながら、流川は汗を拭っていた。
 コートから依織のいる入り口までは走ればすぐの距離だ。けれど、いまの依織にはその距離が途方もなく遠く感じた。
 無意識に足が後ずさる。ファイルを胸に抱えたまま背を向けようかとしたとき、落ち着いた女子生徒の声がそばで上がった。
「あら? 珍しい、男子の見学なんて」
 入部希望者? とキャップを被った女子生徒が依織に近づいてきた。急なことに驚いて、しどろもどろに依織はここに来た理由(わけ)を告げた。
「いえ、おれ流川くんのクラスメイトで……忘れ物を……」
「流川のクラスメイト……へえ、あの子なんだかんだ上手くやってるのね」
 感心したような声に、部活中でも流川くんは変わらないんだな〜、と安心した。
(クラスでも俺以外とはほとんど喋らないし、寝てばっかですよ)
 とも思ったが、告げ口みたいなので心にとどめる。
「ちょうど一試合終わったところなの。今呼ぶわね」
 キリッとした目を和らげて、女子生徒は振り返って流川を呼ぼうとするので、依織は慌ててそれを制した。
「あ、あの! これ、流川くんに渡してください! 明日が提出日だから……それだけ……」
「え、ええ……あ、ちょっと!」
 ずい、と押しつけるようにファイルを渡し、引き留める声を無視して依織は体育館を飛び出た。走り出す一瞬、ちらりと見た流川は依織に気づいたのか珍しく目を丸くしていた。
 昇降口まで走って、靴を履き替えながら息を整えた。傘を開いて外に出ると、雨で冷えた空気が肌に柔らかくまとわりつく。
 いつもなら不快感を覚えるその湿気った空気も、今は頭を冷やすにはちょうどよい。
 ずんずんと足早に帰路を歩みながら、依織は羞恥で顔を赤くしていた。
(バカじゃないのか、俺……流川くんの面倒見た気になって嬉しがって)
 世話をやいて手を引いて、そうやって弟の面倒を見るようにあれこれ口を出していい気分になっていた。
 そんな自分が恥ずかしくてたまらない。
 瞼の裏に、さっきみた流川の姿が浮かぶ。まるで羽根でも生えているように高く飛び上がり、身体中に響くような力強い音とともにボールをネットにくぐらせる姿。
 見るものの視線を奪う美しさ。肌がひりつくような、恐怖にも似た興奮を覚えさせる迫力。
 流川楓がαなのだと、依織は身をもって実感してしまった。
(やっぱり入学式の日の直感は正しかったんだ)
 両親がαだと聞いた時から分かってはいたが、こうして実際に自分の目でみて感じるとつくづく自分は不釣り合いも甚だしいと思えてしまう。
 よくあんな男の横に立ってあれこれと世話を焼いたものだ。それが余計なお節介などとも思わず……。
(俺が声をかけなくたって、きっと流川くんは自分一人でも上手くやってたよね)
 大きな弟みたいに思っていた。別に流川を下に見ていたとかそういうことではない。けれど、自分が面倒をみなきゃダメだと思っていたのは事実だった。
 とんだ自惚れだ。
(恥ずかしい……あんなに四六時中張り付いて面倒見て……)
 クラスメイトたちは、いったいどういう目で見ていたんだろう。αの世話をやくΩなんて、さぞ滑稽だったろう。
 流川はどう思っていたのだろう――?
 初めての友人だからと張り切って、あれこれ世話をやいて喜ぶ依織を、流川はどんな目で見ていただろう。思い出せない。
 嫌だったなら、流川ははっきりそう言ってくれるはず。そう思って自分を慰めようとしても、理性的な自分が言う。
 ――流川くんは優しいから、面と向かって言えなかったんじゃないの?
(もし、おせっかいなやつだなって思われてたら……)
 考えるだけで、泣いてしまいそうなぐらいに辛い。依織は一緒にいるのが楽しかっただけに、流川にそう思われていたらと思うと、彼の視界から消えたいほど申し訳なくて恥ずかしかった。
 今日が雨で良かった。依織はそう思った。
 羞恥で赤くなった頬も、泣きそうに歪んだ目元も、すべて傘で隠せてしまうから――。

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