05

 蛍光灯の白は、寝不足の目にはひどく毒だ。
 二限目が終わって教師が去ってから、移動だとざわつく生徒の声を耳にしながら依織はドキドキしながら席を立った。
 教材を胸に抱えて、そのまま流川の机に向かう。半分眠った流川が顔を上げているところを、肩をつついて「移動だよ」と教えた。
 途端、パチリ目を開けた流川が依織を見てからいそいそと教科書を出す。教材を脇に抱えるようにして立った流川を見て、依織はそのままニコリと笑って「次、音楽だね」と歩き出した。
 つい、いつもの癖で流川の手を引きそうになったが、ぐっと両手で教科書を抱えることで耐えた。
 そのまま先導する形で教室を出たが、流川が着いてきていないことに気づいて振り返る。すると、彼は机から立ったところで棒立ちのまま驚いたように依織を見ている。
「流川くん? どうしたの?」
 なにかあったのかと訊ねるが、流川は感情の読めない目で自分の手を見下ろし、ゆっくりと歩き出す。そのまま依織の横に並ぶので、大丈夫なのかな、と依織も再び足を動かした。
 けれど、音楽室につくまでの時間、どうしてかじっと横から視線が突き刺さる。
 その視線の意味が分からなかった依織は、内心で首を傾げつつも、なにも言ってこない流川に適当に世間話を振りつつ沈黙をやり過ごすことにした。


 教壇から紡がれる教師の声を、聞くともなく聞きながら依織は居心地の悪さに身じろぎをした。
 どうにも今日の流川は寝ずに授業を受けているらしい。ただ、視線はずっと依織の背中に突き刺さっているので、正しく授業内容を聞いているとは言えないと思うが――。
(ほんとにどうしたんだろ……俺になにか言いたいことがある?)
 昨日はそんな素振りはなかった。と言うことは、今日学校に来るまでになにかあったということだ。
 思い出されるのは、昨日の放課後、流川にプリントを届けたことだろうか。
 一限だった数学のとき、きちんとプリントは提出していたから、無事にあの女子生徒から受け取ったらしい。ということは、診断書も一緒に手渡されたはずなのだ。
(もしかして、診断書勝手に見たってバレてる……?)
 それか見られたかどうかを気にしているのだろうか?
 机の中に乱雑に入れていた流川が?
 少し疑問には思うものの、それぐらいしか思い当たることがない。
(昼休みに素直に謝ろう……)
 バース性に関することなのであまりおおっぴらには話せないが、今日は運がいいことに晴れだ。屋上に行けば、二人になれるだろう。
 昼休みに入り、いつも通り購買から帰ってきた流川の手には山盛りのパンがあって、その光景に思わず笑ってしまいながら、依織は屋上へと誘った。
 最近は曇天ばかりで、真っ青な空を見るのは久しぶりだった。
 一歩屋上に踏み出した依織は、迫り来る夏を思わせるような青空に、思わず感嘆の息を漏らす。その間に流川が日陰に座ってしまうので、「待って、流川くん!」と慌ててパンに手を伸ばす流川を止めた。せめて誠意を見せなくては、と正座して向かいあう。
「あの、昨日プリント届けたときに、診断書も一緒にあったと思うんだけど……その、中身。勝手に見ちゃって……ごめんなさい」
 依織は肩を丸めてそろりと謝罪を口にした。なんだろうと首を傾げていた流川も、得てしたように頷くと
「別にいい。それで避けてたのか?」
 と疑問を口にした。
「避けてるなんてそんなこと……」
 尻すぼみに否定するが、内心では気づいていたのかと心臓がバクバクしていた。
 別にわざとらしく無視をしたり、距離をとったわけじゃない。ただいつもなら繋いでいた手を、触れ合わせていないだけだ。
 目的地までの誘導のつもりで流川の手を引いていたが、別にわざわざ手を繋がなくても移動教室に支障はなかった。
(ほらやっぱり……俺が世話をやきすぎてたんだ……)
 依織はそう思った。昨日、自分が考えていたことは正しかったのだと。
 声をかけるだけでよかった。本当なら、それさえもしなくていいのかも知れないが、急に話もしなくなると、流川が怪しむと思った。けれど、そこまでせずとも彼は訝しく思ってしまったらしい。
 どう説明したらいいか迷う。少なからず、自分たちのバース性の話題を出さなければならないからだ。受け入れたと言っても、自分からΩだと口に出すのは躊躇ってしまう。
 そうやって依織が悩んでいる間に、流川がずいと身を乗り出すように距離を詰めた。驚いて距離を取ろうとしたが、座った状態では少し背中を仰け反るのが精一杯だ。
 依織の手をとったと思えば、するりと肌を擦りあわせるように握りこまれた。そのこそばゆさと、流川の体温に肩がひくりと揺れる。
「今日、一回も俺に触ってねー。いつもはこうやって手、繋いでんのに」
 淡々としていて、けれど淋しい影を含んだような声。それに気づいてハッとして顔を上げると、流川は依織の真意を探るようにじっと瞬きもせずに見下ろしていた。
 その瞳の奥に、以前見えた一人ぼっちの小さい流川が見えた気がした。一人ぽつんと佇む流川の淋しさを、依織だけが知っている。
 途端に申し訳なさが胸にこみ上げてきた。
「流川くん、ごめ――」
 咄嗟に謝罪の言葉が滑り出そうになる。しかし、それと同時に流川の指が、依織の指の隙間を埋めるように差し込まれた。
 皮膚の厚い流川の指の腹で、さするように依織の指の側面を撫でる。そうすると、背筋がぴりっと痺れたような感覚に襲われて、じんわりと頬が熱を持った。
 ――男なんかと手、繋いでんだ? きもちわりー
 けれど、頭を過った言葉に、一瞬で血の気が引いていく。無意識のうちに、振り払うようにして立ち上がり、流川と距離を取っていた。
 流川は取り残された自分の手を、信じられないものを見るような眼差しで眺めていて、罪悪感がちくちくと刺激される。
 ――今からαに媚び売って……
 それでも、耳に返ってくる言葉に背中を押されるように、依織は辿々しく「もうやめよう」と告げた。同じように立ち上がった流川は、首を傾げて答えた。
「なにを?」
「こ、こういうの。手を繋いで移動したり、一緒にご飯食べたり……」
「なんで?」
「な、なんで!?」
 まさか食い下がられるとは思ってもいなかった。流川はさっきまでのきょとりとした可愛らしさからは一転、凜々しい眉を寄せて険しくした顔つきで距離を詰めた。
 依織がその迫力に後ずさりしているうちに、屋上のフェンスに追い込まれてしまい、逃げ場をなくした。
(る、流川くんなら、あっそう……って簡単に頷いてくれると思ってたのに……!)
 どうしてそこまで? と思いつつ、さすがに理由を話さなければ流川だって不快だよなと納得もした。
 言いたくない。けれど、こうなってしまっては仕方がないと依織は決断する。
「俺、Ωだったの」
 その言葉に、流川のぱちくりと目を瞬いた。剣呑さが和らぎ、そこに侮蔑の色がないことに一先ず安堵して、依織は続けた。
「ヒートはまだ先かも知れないけど、いつ来るかなんて分かんないから保護ベルトつけると思うし、そうしたら一目でΩってバレちゃう……」
 Ωが発情期中に性行為をしてαにうなじを噛まれると、その二人は番いとして成立してしまう。Ωが生涯に番えるのはたった一人だけで、その番い契約が万が一、事故や行きずりで成立してしまうことがないよう、首元に保護用のベルトを付けるのが一般的だ。
 形が似ているからと、蔑称として「首輪」と言われることもある。
 しかし、それは一目で周囲にΩだと見分けられてしまう諸刃の剣で、それを嫌って着けない人もいると聞く。依織は知らない人間と番うほうが怖いので、身の安全をとってこの保護ベルトを着けるつもりでいた。
「Ωとαが一緒にいたら、この前みたいに邪推する人は必ずいるし、もし一緒にいるときにヒートが来たりしたら流川くんに迷惑かけちゃう」
 自分一人でだってからかわれて、馬鹿にされることは怖いのに、それが自分のせいで流川も巻き込まれるなんて嫌だ。
(もしかしたら、尚人パパもこんな気持ちだったのかな……)
 こんな想像するだけでしんどい思いを、父はずっと耐えていたのだろうか、と切なくなった。
「友達になれたのはすごく嬉しかったけど、俺たち一緒にいるのはまずいと思うんだ……だから……ね?」
 分かるでしょう? の意を込めて笑うと、不愉快そうに流川の顔に力が込められた。
(あれ?)
 と、依織が思っているうちに、逃げられないように手を取られ、覆い被さるように流川が見下ろしてきた。
「なんで他のヤツのこと気にして離れねえといけねーの?」
「え、でも……外から色々言われるの嫌じゃない? 面倒だよ?」
 流川はてっきりそういったことを煩わしいと言うと思っていたから、この答えは意外だった。
「別に、誰になに言われようが関係ねーだろ」
 そう言い切る姿に、依織はどこか自分の弱さを突きつけられた気分だった。
(そりゃ流川くんはそうだろうけど……)
「流川くんは強いからいいよ? 気にならないかもしれないけど、お、俺はこう言うのもなんだけど、すごく弱くて、そういうのが気になっちゃうの!」
 きっと流川は、目の前で自分の家族を馬鹿にされたことだって、自分を蔑まれたことだってないだろう。彼はいつだって畏怖されて、羨ましがられる側の人間だ。
 涙が出そうな目にぐっと力を入れて耐えていると、流川が急におろおろと慌てだした。動揺しているのか、彼の大きな手が迷子みたいに揺れている。
 迷った末に、流川は依織の頬にそっと触れて、指の腹で目の下を撫でた。まるで、涙を拭うような動作だ。
 泣きそうだってバレている。それに気づいた依織は恥ずかしさがこみ上げてきたが、流川の手つきがあんまりに優しくておっかなびっくりなものだから、羞恥とはべつに胸が温かくなった。
「ちげー……そっちじゃなかった。知らないヤツのせいで離れんの嫌だって言いたかった」
 ぽそぽそと、流川にしては珍しく弱気な小さい声だ。
「でも、香坂が嫌なら離れる……」
「……流川くん」
 明らかに不服です、と顔に書いてあるのに、流川は依織の意志を尊重しようとしてくれていた。
(俺のほうがひどいことに言ってるのに……)
 急にバイバイしようなんて流川はびっくりしただろう。
 ふと、春の匂いが残った屋上でのことを思い出した。
 依織の家族にαがいると知って、今まで近くにいた人々とは違うと知った流川のことを。
 伏せた瞳はいつもよりも柔らかく子どもらしくて、そこには安堵が映っていた。
 理由は違っても、依織と同じように一人だった男の子――。
 もしこれが反対の立場だったなら?
 中学に入ってようやく出来た友人に、急に離れようなんて言われたのが依織だったなら?
(……そんなの、すごく悲しい)
 流川みたいに食い下がることは出来ないだろうが、その場は笑ってやり過ごして、家に帰ってから泣くだろう。
(ああ、どうしよう……)
 想像しただけで悲しくて悲しくてたまらなくて、それでいて、今こうして依織を尊重してくれている流川の優しさが心に痛かった。
 突然ぽろぽろと泣き出した依織に、流川がぎょっとして狼狽えているのが分かった。それでも涙が止められない。
(どうしよう、俺……すっごく酷いこと言った)
 今さらそんなことに気がついた。依織は、自分のことしか考えていなかったのだ。流川に迷惑をかけるからと言ったのも本心だが、本当は迷惑をかけて流川に嫌われるのが怖かったのだ。
 初めて出来た友人に、嫌われるのが怖かったのだ。
 なのに、その友人を自分の言葉で傷つけてしまった。
「お、おい」
 静かに泣く依織の涙を指で拭っていた流川だったが、それでも追いつかなくて、シャツの袖を伸ばして涙を吸わせた。
「そんなに嫌ならいい……ちゃんと自分で起きるように頑張る……たぶん」
 だから泣くな。と流川は困ったように言った。
「違うの! お、俺……流川くんにひどいこと言って……なのに流川くんは優しいから……俺ってほんとにダメなヤツだなって」
 ただただ自分の無神経さに嫌気がさしたのだ。
「あのさ……俺がそばにいても邪魔じゃない? 迷惑にならない?」
「ならねー」
「本当に?」
「ほんと。絶対」
 依織の中の嫌われることへの恐怖は消えてはいないが、そこまで断言されると、流川のことを信じたいと思った。なにより、依織だって本当は離れたくなんてないのだ。
「あんなこと言って虫が良すぎるって分かってるんだけど……やっぱり一緒にいてもいい?」
 ――流川くんと友達でいたい。
 涙声に流川は嬉しそうに瞳を輝かせ、こくこくとしきりに頷いた。
「ありがとう。流川くんはほんとに優しいね」
 泣き笑いで言った依織に、流川は嬉しいような困ったような、そんな複雑そうな顔で苦笑する。
 それでも笑って貰えたのが嬉しくて、へへ、と依織も笑えば、ガバッとのし掛かるように抱きしめられた。初めは慌てていた依織も、流川が全然離れる様子がないので、そっと彼の背中に腕を回した。
「……よかった」
 心底安心したような、そんな気の抜けた声。耳元で微かに聞こえた流川の声が、まるで腹の奥でたまるように身体に熱を持たせた。
 それは依織の身体全体に伝染していって、そのうちバクバクと鼓動を高鳴らせる。心臓の音が聞こえそうで恥ずかしい。けれど、彼の腕の中が離れがたかった。
(どうしよう、俺……流川くんのことが好きみたい)
 今まで感じたことがないぐらい暴れ回る心臓に、心地よく感じる相手の体温。
 どうか気づかないで、と願った。
 この気持ちに気づかれたら、友人でもいられなくなってしまう。
 紅潮した頬を隠すように、依織は流川の胸元に顔を擦り寄せた。抱きしめてくる腕の力が強くなって、それさえ嬉しくてたまらない自分は、本当に彼に恋しているのだと自覚させられた。
 ――Ωって、大変なんだな。
 今思うと、きっとあの頃からもう惹かれていたのだ。
 夏のように真っ青な空だけが、日陰の二人を見ていた――そんな梅雨の合間の快晴の日こと。依織は、自分の恋心を自覚した。


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