06

 
 七月の後半から始まった長期休みは、依織にとって自分の気持ちを整理するにはちょうどいい機会だった。
(今すぐこの気持ちをなくす必要はない……)
 どの道、恋愛感情のあるなしに関わらず、依織の発情期がくればαの流川とは一緒にいられなくなる。それならば、発情期がくるまでは、まだこの気持ちを大事に抱えていきたい。
 Ωの初めての発情時期は、平均で十六歳。個人差が大きいことなので一概にはいえないが、数年……もしくは一年程度は猶予があると考えてもいいはずだ。
(来年はクラスが違うかも知れない……そうしたら、流川くんとの縁もなくなっちゃうも)
 なら、同じクラスのこの一年ぐらいは友人としてそばにいたい。
 夏休み明けの登校日、初日――。
 依織は久々に袖を通した制服姿で、玄関の鏡を難しい顔で覗き込んでいた。
 真っ白のシャツの襟元からは、ダークブラウンの革製の保護ベルトが見える。冬服だったら詰め襟で隠れるだろうに……これじゃあ丸見えだな、と鏡の中の依織は苦い顔を作った。
 休みに入る前に採寸をして、オーダーメイドで作ったものだ。つい数日前にようやく届いた。
 擦れて肌を傷つけないように柔らかな革を使用し、けれど強度は抜群のもの。決して力で破ることは出来ず、依織と尚人しか知らない鍵を使わないと外せない仕組みだ。
 それなりにお金がかかっており、そこまでしなくても……と戸惑う依織を、尚人はもちろん晴也も、珍しく真面目な顔で「大事なものだから」と譲らなかった。
 これを着けて外に出ることに、まだ躊躇いもある。けれど、両親から愛されていることも実感した。だから、これを見たクラスメイトたちの目が怖くても外そうとは思わなかった。
 さすがにみんなが通学してくる時間に家を出る気にはなれず、いつも通り随分と早い時間に家を出た。
(流川くん、さすがに今日は朝練ないかな……)
 ちらりと頭に過るのは、夏休み中にたまたま流川を見かけたときの光景。
 自転車を押しながら歩いていて、その隣には同世代ぐらいの女子が並んで歩いていた。
 この一ヶ月、一度も会えていなくて一声ぐらいかけたかったけれど、その女子との姿を見て、依織はそっと気配を消して立ち去った。
(あの人、誰だったんだろ……)
 クラスではみたことのない顔だった。もしかしたら、部活関連の生徒だろうか。
 もやもやした気持ちで考え事をしながら歩いていると、キッとブレーキ音とともに自転車がすぐ真横に停まった。 
「依織、おはよう」
「る、流川くん! おはよう」
 半袖のシャツを着て、大きなスポーツバッグを肩にかけた流川の姿に、ドキリと心臓が跳ねた。
 流川はこの熱気のせいか、額にわずかに汗を滲ませつつ不満な気な顔をした。
「名前……戻ってる」
「え……ごめん、えっと……か、楓くん……?」
「ん」
 気恥ずかしく小さく言い直す依織に、流川は満足そうに笑った。そのまま自転車を降りて、依織の横につく。
 流川から名前で呼びたいと言われたのは、夏休みに入る少し前のことだ。
 その頃には何度か和樹とその友人――千弘と何度かすれ違っていて、その度に和樹に「依織、依織」と絡まれていたのを毎度のごとく流川が撃退していた。
 そのせいか、
「和樹(あいつ)が名前で呼んでんのに、俺が名字なの腹立つ」
 と、急に言い出し、その場で依織のことを名前で呼ぶと宣言して今に至る。そのとき、「俺のことも名前で呼んで」と強制的に決定され、呼び間違えるたびにさっきみたいに訂正をさせられるのだ。
(楓くんて呼ぶの、まだ恥ずかしいんだよね……)
 顔が赤くなってやしないかと心配になって頬を触るが、この気温では分からない。
 学校が見え始めた頃、ふいに流川が依織の首元に気づいた。
「それ、Ωのベルト?」
 流川の指が、そっと依織の髪をすくって避けた。その瞳には、真新しい保護ベルトが映っているだろう。
「苦しくねー?」
「大丈夫。父さんたちが特注で柔らかい生地で作ってくれたから」
「柔らかいと、危なくねー?」
 髪を避けていた指を伸ばし、そっとベルトの表面を撫でながら流川が難しい顔をした。
「大丈夫だよ。これ、結構頑丈なの。それに、鍵がついてて番号入れないと外せないんだ」
 正面に来るベルトの鍵穴部分を指で触れながら、流川に見せるように依織は顎を上げた。
「おお……すげー」
「ね? それにヒート来るのなんてまだ先だろうしさ。だから大丈夫!」
 笑って言うと、流川もうっすらと微笑んで依織の頬に張り付いた髪を払った。
「なんかあったら、俺がいるから大丈夫」
 真面目な顔でそんなことを言うから、依織の心臓はさっきからドキドキしっぱなしだ。それは初めての感覚で楽しいけれど、淋しくもあった。


 学校についてから、クラスメイトが来るのを依織は緊張しつつ待っていた。
 少しずつ教室内に人が増えていく。挨拶ぐらいは交わす仲なので、その時にどうしても依織の首のベルトには気づかれてしまう。
 けれど、ちらりと首元に目が行くものの、誰もからかうことも「Ωなの?」と訊ねてくることもなかったから、拍子抜けとばかりに安心してしまった。
 そのうち朝練を終えた流川が教室にやって来て、荷物を置いたあと、いつものように依織の席までやって来るかと思いきや――廊下から「流川くん!」と女子生徒の声が響いた。
 ふっと流川も依織も声のほうに目を向けた。すると、茶髪の穏やかそうな女子生徒が、流川を手招きしていた。
(あの人、夏休みに流川くんと一緒にいた人だ……)
 ぐっと心臓が重しをつけられたように重たくなった。
 流川はちらりと依織を見たものの、その女子生徒のほうへと歩いて行き、そのまま二人は廊下に出てしまった。
 女子生徒の首には、依織と同じような保護ベルトがつけられていて、冷たい汗がふき出た。
 ――あの人、Ωだ。
(……どんな関係なんだろ)
 俯いて考え込む依織の肩を、トントンと軽く叩かれる。ゆっくりと顔を上げると、
「香坂くん、大丈夫? 先輩が呼んでるみたいなんだけど……」
 と、クラスの女子が教室の入り口を指さしていた。
 誰だろう、と目を向ければ、そこには一学年上の彩子の姿が見えた。部活中によく被っているキャップの姿はなく、癖のある髪が下ろされていてふわりと揺れていた。
 部活中の流川にプリントを届けたとき、渡してくれと頼んだ女子生徒だ。どうやらバスケ部のマネージャーをしているらしく、あのあとも何度か流川に伝言をいいに来たりと顔を合わせる機会があって仲良くしてもらっているのだ。
「彩子さん、おはようございます」
「おはよう、依織くん。ちょっと部活の連絡なんだけど、流川ってまだ来てない?」
「あ……るか、楓くんは今、」
 ちらりと依織が目をやると、彩子も倣って振り返った。流川は、階段の踊り場でさっきの女子生徒と並んで話をしていた。
「あれ、明里(あかり)……?」
「知ってる人なんですか?」
 驚いたとでもいうように彩子が言ったので、つい身を乗り出して訊き返してしまった。
「あの子、私のクラスメイトで同じバスケ部のマネージャーなの。一年のクラスには私が回るって言ったんだけどな〜」
「マネージャーさん……」
 そっか。バスケの関係者か。ほっとしたが、それならなんで休日に二人で一緒にいたんだろうと別の疑問が浮かんだ。
 流川は練習着のようでもあったが、明里はワンピース姿で、完全に私服と分かる服装だった。
(休みの日にわざわざ会うぐらい仲いいのかな……)
 気落ちした顔で黙り込む依織に、彩子が手を合わせて「ごめん」と頭を下げた。
「ごめんね! 他のΩが自分のαの近くにいるの嫌だよね……一応必要以上に二人にならないように私も気にしてはいるんだけど……」
 と、彩子は困った様子で二人のほうへ視線をやった。けれど、依織はそれよりもビックリして開いた口が塞がらなかった。
「じ、自分のαって……楓くんと俺はそんな関係じゃありません!」
「え! そうなの!? だって私らの学年でも有名だよ? 熱々カップルだって」
「そ、そんな……ほんとに、そんなんじゃないんです」
 わたわたと依織が手を振って答えれば、彩子は「そう?」とまだ不思議そうにしつつも一応とばかりに頷いてくれた。
(そんなふうに見られてたんだ、俺たち……)
 嬉しいなんて思っちゃいけないんだろうな、と浮き上がりそうな心を自制する。自分は友達。流川には、きっとそういう気なんてないのだから。
「ふーん……まだなのね〜。意外とあいつも奥手か……」
「え? 彩子さん? 今なんて?」
 小さい声だったから、依織には正確に聞き取れなかった。訊き返したって、彩子はニコリと笑って「ううん。これからもあの不器用っ子をよろしくねって言っただけ」と言われてしまう。
「ま、明里が連絡事項伝えてくれてるならいいんだ。時間取っちゃってごめんね」
「いえ、大丈夫です」
「そう言えば、あんたちょっと顔色悪いわよ? 大丈夫?」
「それは……ちょっと夏バテ気味で食欲なくて……」
 依織としては気を付けていたつもりなのだが、どうにも身体が本調子ではない日が続いていた。だるいような、少し熱っぽいような――そんなちょっとした不調が抜けきらない。
 けれど、彩子に心配をかけるのも申し訳なく、笑って大丈夫だとアピールすると、「気を付けなさいよ」と頭を撫でられた。
 彩子は依織が関わったことのないタイプの女性で、その凜々しい容姿やさっぱりとした態度のせいか、もしかして「姉」というのはこういうものだろうか、と思わせる。
 彼女の手を受けて入れていると、急に思い出したように「あ」と呟いて彩子が耳打ちしてきた。
「もし明里が頻繁に来るようなら連絡ちょうだい」
「彩子さんにですか?」
「うん。あの子、悪い子じゃないんだけど、お母さんの影響でΩは優秀なαと番うのが正解! って思いこんじゃってて、αのことになると暴走気味なのよ」
 だから気を付けて、と忠告され、依織は頷いた。依織の反応を見てから、彩子は満足そうに笑い、「じゃあね!」と足早に教室に戻っていた。
 すると、ちょうどよく予鈴のチャイムが鳴り、流川も教室に戻ってきたところだった。
「部活の連絡?」
 と、依織が聞くと、流川はこくりと頷く。明里はそのまま階段を上って二年のクラスに戻ったのか、姿は見えなかった。
(暴走気味ってどういうことなんだろ……)
 あまりピンとくるものがなかったが、それから毎日のように明里が流川のクラスを訪れるようになり、もしかしてこのことだろうか、と依織は彩子の忠告の意味を理解した。


 流川は寝る姿勢をとってもだらしない、ということがない。
 身体を丸め、顔を伏せていたとしても、だらしないというよりもその姿勢が正解かのような美しさで目を惹きつける男だ。
 それなのに今じゃ、だらりと腕を伸ばし、机にべたっと張り付いて、まるで夏の暑さに溶けた人間のようになっていた。
 依織は流川の席の隣に立ち、心配そうにさらさらの後頭部を眺めていた。
「あの先輩、よく来るね」
 刺々しくならないように、困った笑いまじりに言う。
 明里が休み時間などに頻繁にこのクラスを訪れ、その度に流川に部活やバスケのことで声をかけるので、流川の睡眠時間は以前に比べて著しく減っていた。
 そのせいか、流川はこうして姿勢を保つことも出来ず机の上で溶けていた。
(流川くんが睡眠よりも誰かとの会話を優先するなんて珍しい……)
 あの先輩のこと好きなの? と口から出そうになった言葉を、いったい何度飲み込んだだろうか。
 そんなヘロヘロになるぐらい自分の睡眠を削ってまで、相手をするほど大事なのだろうか。
 とりあえず、お疲れ様の意を込めて髪を撫でると、流川は首を捻り、美しい横顔が見えた。じっと依織を見上げてきたと思うと、急に起き上がって依織を手招きした。
 なんだろう、と呼ばれるまま距離を詰めると、腕を引かれ、そのまま腰に手を回されて気づくと流川の膝の上に持ち上げられた。
「え、え!? る、流川くん!?」
 驚愕の声に、流川はムッとして「名前」と呟く。
「か、楓くん! あの、この格好は……?」
 いくら体格差があるとはいえ、人を一人乗せていたら重いだろうに。流川の膝の上で横向きに抱き寄せられ、依織は慌てふためいた。
 この体勢は普段している膝枕とは比べものにならないだろう。しかも、今は教室でほかのクラスメイトの目もあるのだ。
 依織をぎゅっと抱き寄せて肩口にすり寄ってきた流川は、全く離そうとしない。さらさらの黒髪が肌に当たって、依織はこそばゆさに身を固くした。
(る、流川くんに! 抱きしめられて……!?)
 困惑と、そして好きな人に触れているドキドキで心臓が爆発しそうだ。きょろきょろと周囲を見渡すと、クラスメイトたちは依織と目が合うと苦笑して顔を逸らしてしまう。
(そ、そんな流川だからな〜って納得しないで!)
 変な目で見られていないのは救いだが、それはそれとして受け入れられてしまうのも恥ずかしい。
 怪我をさせたらと大した抵抗も出来ずに静かに混乱している依織を、流川がちらりと視線を上げて見やる。
「最近、二人っきりになれてねーから」
「でも、ここ教室だし……」
「どうせ気にしねー……だから、このまま……」
 話しているうちに流川の目がとろんと眠気を映した。こくりこくりと舟を漕いで、また依織の肩に寄りかかるように寝てしまう。
 静かになった流川に、依織はさっきまでのぐでんと溶けた姿を思い出す。
(休み時間、そんなに長くないし……ちょっとぐらいはいっか)
 九月も下旬になったが、未だ夏の暑さはしぶとく残っていた。けれど、教室内は冷房のおかげで、まるで外と切り離されたように快適だ。
 むしろ依織としては、冷房のせいで寒いと感じてしまうぐらいで、流川の体温はちょうどよく身体を温めてくれていた。
(楓くん、あったかい……)
 寝てるならいいかな、とそっと首を預けてみた。起こしたくはないから、体重はかけないように気を付けて、流川の頭に頬を寄せるように――。
 ぬくい温度に包まれ、身体はリラックスしているのに、心臓だけは静かに、そして速く動いていた。それが、依織は流川を好きなのだと、実感させられる。
(どうしよ……俺も眠くなってきちゃったかも)
 瞼がだんだん重たくなってきた。自分まで寝たらまずいよな、と思いつつも、流川の体温のせいでゆっくりと眠りに誘われ、目が閉じようとしたとき――。
「こんにちはー。流川くんいますか?」
 女子生徒の声で、依織はハッと意識を覚ました。教室のドアに明里が立っていた。きょろりと室内を見渡した彼女は、すぐに流川と依織に気づく。二人の様子に一瞬目を瞠ったものの、すぐに笑顔でこちらに寄ってきた。
 さすがに先輩の前でこの格好は……けど流川を起こすのも……と逡巡している間に、あっという間に明里は二人の元に辿り着いてしまった。
「こんにちは、香坂くん。流川くん、寝ちゃってるの?」
「はい……今日、朝からずっと眠そうで……」
 言外に起こさないで欲しいと告げたのが功を成したのかは分からないが、明里は流川に声をかける様子はなかった。
 ひとまずはそれに安堵した。
「香坂くんて、流川くんと付き合ってるの?」
 明里は流川を見たままなんとことないように依織に訊く。驚いてしまったのは依織のほうだ。
「えっ、あ、俺と流川くんは……そんな関係じゃありません……」
 事実だとしても、自分の口で言うのはちょっぴり胸が痛む。
「そっか! よかった! じゃあ私が番ってもいいよね?」
 いつものにこやかな笑みで、明里は安心したと笑う。えっ、と漏れたショックを受けた低い声が自分のものだと、依織は茫然としつつ気づいた。
(いま、なんて……?)
 番う? 流川と先輩が? 二人は、そんな関係なの?
 疑問が湧いて、けど言葉に出来ずに消えていく。そんなことを訊けば、自分が流川をすきだとバレてしまう気がしたからだ。
 平静を装って訊ねることなど出来ないと、依織は分かっていたから衝撃のまま黙っていた。
「流川くんみたいな優しいαなんて、この先いつ出会えるか分からないでしょ? しかも年もほぼ変わんない、同世代だし」
 まるで世間話でもしてるみたいな軽い調子で言う明里に、今度は別の衝撃が依織を襲う。番いたいとは言うけれど、流川に恋をしているようには見えなかったのだ。
 クラスの女子が恋バナをしているのを聞きかじったことがある。みんな目がきらきらしていて、頬を赤く染めながらその胸に秘める想いを楽しそうに語るのだ。
 そのときの女子の様子と比べると、今の明里はどこか異質で、不気味にも感じられた。
「楓くんのこと、好きなんですか?」
 と、つい、そんなことを聞いてしまうぐらい。
 問いに、きょとりと明里の目がしばたたかれた。そんなことを訊かれるとは思ってもいなかった、とでもいうような様子だ。
 「んー」と、しばらく考えるように明里は視線を宙に飛ばした。やがて、依織を見てにこりと笑い、
「好きっていうか、優秀なαと番うのはΩの幸せでしょ? だから私、流川くんがいいの」
 明里は、自分の考えが間違っているとは微塵も思っていない明るい声でそう言い切った。
 ひくりと依織の喉が痙攣したように震えた。さっきまで流川と明里の関係でざわついていた心が、ぴたりと静まりかえった。そして、じわじわと火がついたように熱が伝わってくる。
 これは怒りだ、と依織は心とは反対に冷えた頭で思った。
(なんだこの人……)
 それじゃあ流川のことを、ただ番うために都合のいいαとしてしか思っていないじゃないか。
 依織は自分の身体に寄りかかる流川の耳を、さりげなく手で塞ぐ。こんな距離では意味もないだろう。寝ているから、結局聞こえていないと思う。それでも、こんな言葉を流川に聞かせたくはなかった。
「楓くんがαじゃなかったら?」
「え、うそ!? 流川くんてαじゃないの?」
 ぎょっとした明里の様子が、問いの答えだ。依織はどんどん自分の頭から血の気が引いて冷静になっていくのを感じた。一方で、じわじわと心に宿る怒りの熱は温度を上げていく。
 ――香坂って、変なヤツ
 あの日の見た、流川の淋しさを称えた瞳の色を思い出す。柔らかく色づいた笑みを思い出す。
 気づけば、依織の口から低い言葉が繰り出されていた。
「楓くんをαとしてしか見てないなら、他を当たってください」
「え? なんで?」
 きょとんとした声音。心底不思議そうな明里は、αであることに重点をおいて人を選ぶ行為に全く疑問を感じないらしい。
「あ、もしかして香坂くんも流川くんのこと狙ってるの? そりゃこんなαが身近にいたらワンチャン狙いたくなるよね」
 きゃっきゃっとはしゃぐように言う明里は、まるで学校の外で同級生を見つけたようなはしゃいだ声だった。
 Ωが流川を番いにしたいのは当然、だとでもいう発言に依織は咄嗟に吐き出しそうになった言葉を、唇を噛みしめてこらえる。自分の恋心を、土足で踏み荒らされた気分だ。
(俺は、楓くんがαだから好きなんじゃない)
 流川の耳を塞いでいた手に力が入った。こんな言葉、流川に聞いてほしくない。
 黙った依織に首を傾げていた明里だったが、チャイムが鳴ったので慌てた様子で教室を出て行った。
 彼女の姿が廊下の奥に見えなくなってから、依織は流川の頭を抱いていた腕から力を抜く。まだ心にべったりと泥をつけられたような不快感があったが、教師が来てしまう前に席に戻らなくてはと流川の肩を叩いた。
「楓くん、起きて……チャイム鳴ったよ」
 むずがるように流川が頭を揺らして依織に擦り付けた。それを宥めるように頭を撫で、依織は流川の膝から下りようとした――のだが。
「ぐえっ……ちょ、楓くん? く、苦しいよ?」
 くるりと彼に背中を向けてひょいと立とうとしたところ、後ろからお腹に手を回されて抱き寄せられた。ぎゅうぎゅうと苦しいぐらいの強さで、弱い力で流川の腕を叩くが全く応答がない。
「楓くん……!? まだ寝ぼけてるの? 授業始まるってば!」
 首を捻って様子を窺うが、依織の肩にうずまっていて表情が見えない。ジタバタと浮いた足を動かしたって、流川と依織の体格差じゃたいした抵抗にはならないらしい。
 しかも、依織が離れようとすればするほど、腕の力が強くなって抱きしめられてしまうから、心臓はバクバクしているし、お腹は苦しいしでいっぱいいっぱいだ。
「いま、離したくねー」
「え? なに? って楓くん起きてるでしょ? 先生来てるよ!」
 背後の呟きは小さくてはっきりとは聞こえなかったが、明確に意志を持って発言しているのは分かった。いつの間にか教壇に構えていた教師が
「流川〜また寝ぼけてるのか〜? もう授業始めるぞ〜?」
 と呆れた声で言った。
 さすがに教師に言われては離すしかなくなったのか、ちょっぴり不機嫌そうな気配がしたものの、するりと流川の腕から力が抜け、依織は圧迫感から解放された。
「……さんきゅ」
 依織が離れる刹那、うなじのあたりに流川が額をこすりつけたのか、さらりとした髪のこそばゆさに、背筋の粟立つような未知の感覚が依織の身体に走った。
 反射的に喉が震えそうになって、すんでのところで口を押さえて事なきを得る。
 そのせいで依織は、流川が最後に呟いていたことにすら気づかなかった。


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