07


 明里は依織の発言にもめげた様子は見せず、その後も隙を見ては依織たちのクラスへやって来た。その度にもやもやとした思いを抱えていた依織だったが、急に流川が明里と距離を取るような素振りを見せるので、そちらのほうへ目がいった。
(どうしたのかな、楓くん……)
 今では明里が来ていようが平気で寝に入るし、流川に会いに教室に来た明里にぺこりと会釈だけして依織を屋上に連れて行くこともある。
 十月に入って少しずつ残暑も落ち着きを見せ始めたころ。依織は今日も流川に手を引かれて屋上に一休みしに来ていた。
 ちょうど教室を出るときに明里が来ていたのだが、流川は「ッス」と小さく挨拶をして通り過ぎてしまって、あまりの素っ気なさに依織が慌ててしまうぐらいだ。
 校舎の影に並んで座り込み、依織はそっと流川を窺い見た。
「明里先輩、いいの?」
 同じバスケ部の生徒だし、あんなふうに接して怒りを買ったりすれば、部活内で流川が居心地悪くなるのではないか。
 それに流川に避けられるような態度を取られたときの明里が、まるでこの世の終わりのような顔で真っ青になっているから心配にもなってしまう。
 けれどそれは、流川に避けられて――というよりも、αの不評を買ったかもという恐怖心の現れに見えた。
(先輩の中では、αの存在ってそんなに大きいんだ……)
 目の当たりにすると、憐れみにも似た感情が依織の胸に滲んだ。そして、自分が好きな人――明里は好きとは違うかも知れないが――に、同じような態度を取られたらと思うと、心臓をぎゅっと握りつぶされたように息苦しくなる。
 しかも、明里の中ではαが絶対的支配者として君臨しているようで、流川の態度が素っ気なくなってからというもの、選んで貰えなければ死んでしまう……とでもいうような気迫さえ感じるようになってしまった。
(切羽詰まって見えたけど……大丈夫かな……)
 つい、心配になってぼんやりしていると、そんな依織の様子を見かねたのか、流川が重い口を開いた。
「あの先輩、初めてヒートになってからフェロモンの関係で入院してたらしくて、夏休み中に戻ってきた。たまたま見かけて具合悪そうで声かけたら、αのそばにいると落ち着くらしくて、しょうがねーから付き合ってたけど、最近は元気そうだからもういいだろ」
 お前が気にすることない、と断言して、流川は話は終わりだというように依織の膝にごろりと横になった。
「……そっか。明里先輩ってヒート重いんだね……楓くん優しいね」
 だから寝ないで付き合ってたんだ。
 理由が分かってほっとしたのと、やっぱり流川は優しい人なんだと実感して胸がぽかぽかと温もりに包まれた。
 流川は、開いた片目で依織を見てから、罰が悪そうにそっぽを向いた。。
「知ってくれてると、嬉しいって言ってたろ」
「……もしかして、前にヒートの話したとき?」
 依織の父――尚人が発情期だから……と、昼休みに話したときのことだ。たしかに依織はΩの発情期の大変さを知ってくれるだけでも嬉しいと言ったのを覚えている。
「だから、優しくされたらもっと嬉しいだろ?」
 ただでさえ大変なんだから……とぼそぼそと言葉が続いた。
 口が尖るようにすぼめられたのが、照れているせいだと遅れて気づいた。
 流川はしばたたく依織をちらりと見たと思えば、寝返りを打って横向きになってしまった。そのせいで表情が見えなくなってしまったが、うずうずとしたむずがゆさが足元からのぼってきて、依織は自分の上で横たわる流川に向かって上体を預けた。
 驚いたのか、流川はびくりと身体を揺らして、目を見開いていた。あはは、と依織は笑い声を上げる。
「ありがとう、楓くん……俺が言ったこと覚えててくれて」
「……おう」
 バスケ以外にはひどく無関心に見える流川だが、その心根が素直で優しいことを知っている。それでも、こうして自分の言った言葉を覚えていてくれたのがすごく嬉しかった。
「……たぶん、先輩も嬉しかったと思う」
 たしかに明里にはα以外の人間は眼中にないのかも知れない。それでも、αの中から流川を選んだのは、自分に優しくしてくれたという思いから始まったはずなのだ。
「でも、寝る時間減るのは勘弁……」
「そっか」
 渋い顔で言った流川は、依織の相づちに「ん」と頷いたが、しばらくすると小さな寝息を立て始めた。膝の上の温もりを感じながら、ドキドキと小さく、けれどたしかに存在を主張する鼓動に、依織はじんわりと頬を染めたのだ。


 予鈴が鳴る前に、寝起きの流川とともに階段を下りているときのことだ。
 廊下には女子や男子が混在していて、廊下の奥を気にしていた。その先に進むのを躊躇うようにみな足を止めていて、ざわざわと遠巻きになにかを眺めている。普段の学校生活とは違う、異様な空気が漂っていた。
 なにがあったのだろうと、首を傾げて階段を下りきったところで、ちょうど廊下の奥――騒動の元と見られる場所から、複数の生徒が駆けてきた。その生徒は、振り返りつつも慌てた様子で「先生呼んでくるから!」と叫ぶ。
 様子を窺いに近づくと、廊下にたまった生徒たちの声が聞こえてきた。
 ――ヒートだってよ。二年の女子だって。
 ――まじ? じゃあこの変な匂いってフェロモンてこと? やばっ、初めて嗅いだわ。
 巻き込まれるのはごめんだと距離を取っているくせに、野次馬根性は隠せていない生徒の声。からかいと、嘲るような笑いまじりの言葉たち。
 脳裏に、自分が受けた言葉が次々と蘇るが、今周囲を固めている人々の眼差しは、もっと直接的に性欲を向けていた。
 自分のことでもないのに、ゾワリと鳥肌が立つ。
(二年の女子でヒートって……)
 もしかして明里先輩? と、依織の頭を掠めた。Ω自体、数が少なく、そう簡単に出会えるわけではない。明里である確率は高いだろう。
 人垣の向こうを見る。発情期を起こした生徒は廊下ではなく、少し先の空き教室にいるらしく、一つの教室の扉付近に人がより多く集まっていた。心配、というよりも、好奇心で見物する生徒たちの様子に、依織はいても立ってもいられなくなって人垣に足を踏み入れようとした、が――。
「楓くん?」
 その腕を背後から引き留められた。急いでるのに、と振り返ると、流川がぐっと鼻頭に皺を寄せて苦い顔をしている。つい、気が削がれて流川を心配してしまった。もしかしたら、依織には分からなくても、αの流川にはこの距離でもフェロモンが感じ取れるのかも知れない。
「依織も変な目で見られるだろ」
 暗に、目立つことをするな、行くな、と言われている。たしかにこの状況で向かえば、同じΩである依織にも同様に好奇と性的な視線に晒されるだろう。
(でも明里先輩は今、一人でこの人たちの目を向けられてる)
 体調は万全ではなく、ぼやけて頭も働かない中で、自分に刺さる良くない意味合いの視線だけは分かってしまう状況で、どれだけ怖くて怯えていることだろうか。
 それを思うと、依織の胸は絞られたように痛むのだ。
 ――Ωはセックスするために産まれて来たんだろ?
 なにより、Ωに向けられる差別や侮蔑をたった一人で受け止める孤独を、淋しさを、依織はよく知っていた。
「ごめん、楓くん。おれ、行ってくるね」
 握ってくる大きな手にそっと自分のものを重ねて外し、依織は微笑んだ。心配してくれたのは嬉しい。でも、放っておけないのだ。先生がすぐに来てくれるかも知れない。それでもたった一秒だって、明里を一人であそこにいさせたくなかった。
「……じゃあ、俺も行く」
 楓くんは待ってて――そう言う前に、決意した顔で流川が動いた。ずんずんと人波を分けて進んでいく長身の男を、依織は慌てて追いかけて止めようとする。
「待って! 楓くんはαなんだよ!? そばに行ったらダメだって!」
 さっき依織がされたように、今度は流川を引きとめた。振り返った流川は、やはりフェロモンがきついのか険しい顔をしている。
「俺はΩだから平気だけど、楓くんはきついでしょ? 万が一があったら……」
 言い切る前に、流川の長い腕が依織をすっぽりと胸におさめしまった。混乱した依織が声を出すよりも早く、肩口にすり寄った流川は、深く息を吸い込んでふんと鼻息を飛ばす。
「もう大丈夫。でも、近くにいて」
「え、え……ちょっと楓くん」
 今度は依織の手を掴んでズカズカと進んでいく。上背があって中一ながら三年生にも勝るような体格の流川が突き進めば、気づいた人間は自分から道を開けていった。
 そうして行き着いた空き教室は、カーテンが閉めきられていて薄暗かった。その暗闇の隅にうずくまる影があった。
「明里先輩!」
 荒く息をする明里に駆け寄ると、彼女は依織の声に気づいて顔を上げた。真っ赤に染まった顔は、陶然としつつも辛くしんどそうだ。身体に力が入らない様子で、すぐに首を倒してしまった。
「先輩、薬持ってますか?」
 Ωには、発情期の抑制剤が存在する。薬を飲めば、まだ自分の理性を保てるし、フェロモンも多少落ち着く。
 声が出せないのか、明里は力なく首を振った。移動教室だったのか、それともまた依織たちのクラスへむかうつもりだったのか。とにかく、今は手元にないらしい。
(どうしよう……俺はまだヒート来てないから薬は持ってないし……)
 抑制剤の種類は多岐にわたり、人それぞれ相性がある。本人の遺伝子やフェロモンの性質などを考慮して処方されるので、発情期が一度でも発現してからでないと処方できないのだ。
 尚人がいたら、もっと的確な指示がだせるだろうに。どうしよう、と初めての事態に、依織は混乱して泣きたくなった。
 すると、不意に流川が明里の身体を抱き上げた。本人は状況が分かっていないのか、弛緩した身体を素直に預けている。
「保健室に連れてけば、とりあえずなんとかなる」
 そのまま教室を出て行こうとするものだから、ぎょっとしたのは依織のほうだ。廊下の野次馬たちは、騒動の根源が出てきたからと、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。慌てて追いかけて流川の隣に並ぶ。
「楓くん、大丈夫?」
 ハラハラとした気持ちで、いまだ渋い顔をした流川とぐったりした明里を見やった。
「……依織がそばにいれば大丈夫」
 それはつまり、二人きりになったらフェロモンに当てられるということだろうか。ちらと横顔を見ると、彼の息はかすかに荒く、額には汗をにじませていた。
 平気なはずがない。Ωのフェロモンは、通常であればαの理性をなくし、性欲をかき立てるものだ。今は第三者――依織の目があるからまだ理性を保てているが、それがなくなれば自制できないということなのだ。
 ――なら、止めたほうが……。そう言いたくて、でも苦しそうな明里が目に入ると言葉に出来ない。依織では明里を運べないし、あのまま衆人環境で人目にさらしておくのも気が引ける。
 結局、流川を止めるか止めまいか迷っているうちに、保健室に到着してしまった。
 両手の塞がっている流川の代わりに依織がノックして扉を開けると、中の保険医は突然現れた三人の様子に驚いて立ち上がった。
「先生、明里先輩、ヒート起こしてるみたいで」
「あらあら大変。ちょっと待ってね。緊急用の薬があるから、とりあえずそれを飲みましょう」
 戸棚を漁り始めた養護教諭は、「そこに寝かせて」と一つのベッドを示す。流川はこくりと頷いて、明里をベッドに横たわらせた。
「流川くん、うなじ噛んで……私を番いにしてえ?」
 離れようとした流川の首に腕を回し、明里が熱に浮かされた声で囁いた。依織や養護教諭が間に入るよりも早く、流川は乱暴に明里の細い腕を引き剥がし、そのままベッドに押しつけた。
「おれ、アンタを番いには出来ねえから」
 呻くような、苦しそうな声。動き出しそうな身体を押さえつけるように身体を震わせながら、流川は吐き出した。
「なんで? αは何人でも番い作れるんだから、いいでしょお? お願い……流川くん、私に優しくしてくれたじゃない」
「俺は、アンタだから優しくしたんじゃない。Ωだから優しくしただけ……番いになるなら、アンタだから優しくしてくれる人にしたほうがいい」
 涙ながらの明里の訴えにも、流川は首を振って懇々と諭すように言った。その言葉に、依織の心臓はスッと冷えていった。
 発情期のせいか、それとも拒否されたからか、はらはらとは涙をこぼしながら、明里がひきつった喘ぎを漏らした。彼女の手から力が抜けたのか、流川も押さえつけていた手を離した。
 ベッドから一歩離れた流川の身体がふらついたので、依織が受け止めるように腕を差しだしたが、それよりも早く彼の手が背中に回った。
 苦しいほど抱きしめられ身じろぎしたが、悲痛そうな流川の呼吸が耳に届いて、依織は途端に抵抗をやめた。
 宥めるように広い背中をさすり、そうして出来るだけ柔らかな音で声をかける。
「楓くん、先輩のこと運んでくれてありがとう……歩けそう? 出来そうなら、ちょっとでも離れたほうが楽になるかも……」
 その言葉に、流川は一度頷いた。ゆっくり依織が足を動かすと、くっついた体勢のまま、流川も歩き出した。
「先生、あとお願いしても大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。もし出来たら、この子の担任に一言伝えて置いてくれる?」
「分かりました」
 ベッド脇からの養護教諭の声に答え、依織は「失礼しました」と律儀に言ってからドアを閉めた。
 扉一枚隔てた分、楽になったのか、流川は深呼吸をして息を整えた。けれど、依然として身体に力が入らない様子で、依織はだんだんと支えるのが難しくなってきて、正面から流川を受け止めた姿勢でズルズルとしゃがみ込んだ。
「ごめん楓くん……おれ、ちょっと腕が限界で……」
「いい……ちょっと休めば治るから」
 けど、今は無理……、と、流川は身体を預けたまま呟いた。
 腕に伝わる体温は、いつもよりも高くて心配だけれど、本人が申告しているので回復のめ目処はあるのだろう。
 首元を流川の息が掠めるたびに頬に熱が集まってきて、ドキドキと心臓が速く動いた。それなのに、身体の深いところでは、氷を押し当てられたように冷えていて、ある言葉が何度も頭を巡っていく。
 ――Ωだから優しくしただけ……。
 あの切羽詰まった状況での言葉。きっと本心だろう。
 心臓がドキドキと音を立てるたびに、同じぐらい息が苦しくなって身体に痛みが伝わった。
(どうしてだろ……屋上ではあんなに嬉しかったのに……)
 自分の言葉を覚えてくれていた。自分が流川に影響を与えていた。それぐらい、依織の存在が流川の中にちゃんといる。
 嬉しかった。幸せで、世界に急に花が開いたように華やかな気持ちになった。
 それなのに、明里を諭した言葉には喜ぶどころか身体の熱が一瞬で失われた。
(俺に優しくしてくれたのも、Ωだから?)
 浮かんでしまった言葉が、ずっと頭の中で主張してくる。
 流川の中に依織が存在できるのも、Ωだからではないか?
 一緒にいてくれているのも、Ωである依織の身体を気遣ってかもしれない。
 否定の言葉が欲しい。けれど、もし肯定されたら――そうなったらと思うと、依織の喉は途端に言葉を忘れてしまったように塞がってしまった。
 少しずつ流川の汗がひいていき、体温が正常に戻っていく。それを肌で感じながら、依織はどこか青ざめた顔で彼を抱きしめる腕に力を込めた。

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