08


「朝、なんで来ねーの」
 朝練終了後に教室にやってきた流川は、真っ直ぐに依織のところまで進んで来て、そうこぼした。
「えっと、それは……寝坊しちゃって……」
 頬杖を解いて、依織は呆気にとられていた顔を取り繕って言った。
「一週間もずっとかよ」
 責めるような声。心の内まで見透かされた気がして、依織はドキリとした。肩が揺れそうになるのをどうにかこらえた。
 じっと机の上に下ろしていた目を上げていくと、流川は意志の強い瞳で依織を見据えていた。鞄も置かず、寝ることもしないで問い詰めに来るぐらい、ご立腹な様子だ。心なしか、いつもより険しい顔つきをしている気もする。
(たしかにここ数日は物言いたげに見てきてたけど……)
 まさかこの話だとは思わなかった。
 学校への登校時間を、流川の朝練と同じ時間にしていた依織だったが、この一週間はそれよりも遅い時間に登校していた。そのため、朝の二人での通学時間はなくなった。
(……楓くんは、気にしないと思ってた)
 いなければいないで、気にもとめないものだと……。トクトクと、心臓が普段よりも駆け足になる。それが嫌で、依織はぐっと歯を食いしばった。
 登校の時間を変えた――以前に戻した――のは、流川と会わせる顔がなかったからだ。
 顔を見ればいらないことを言ってしまいそうで、出来るだけ二人になることを避けていた。
 ――Ωだから優しくしてただけ。
 耳に奥に返ってくる言葉が、幾度も依織の胸を締めつけ、息苦しくさせた。その度に流川の顔を見ることが辛くて、向けられる優しさの先にいるのが、依織ではなくΩなのだと突きつけられ、泣きたくなった。
(馬鹿だな、俺……好きになって貰えるって期待でもしてたのかな……)
 流川のあの発言で傷つくと言うことは、そういうことなのだろうか。
 自分だから優しくして貰えていると自惚れていたのか。心の奥では両思いになることを望んでいたのか。
 そんな浅ましい自分がいることにも、依織はうんざりと打ちのめされた。
「ちょっと最近、寝坊気味で……ごめんね?」
 半分嘘で、半分は本当だ。顔を合わせたくなくて時間をずらしてはいるが、最近なかなか寝付けずに起きる時間が押されているのは事実だった。
(夏バテが残ってるのかな……なかなか本調子に戻らないんだよね……)
 十月に入ってしばらく経つが、陽光が温かく包んでくれるような気候になっても、依織は食欲の減退や、睡眠の質の低下に悩まされていた。自分の身体の中で、得体の知れないざわめきが少しずつ大きくなっているような、そんな不穏さを感じる。
「……ずっと顔色悪い。大丈夫かよ」
 きつい顔つきが、凜々しい眉が下がったことで幼さを垣間見せた。流川は憂い気な表情で、依織の頬に手を伸ばした。ゆっくりと親指で目元を撫でられる。きっとそこには、うっすらと隈があることだろう。
 優しい手つきに胸が高鳴り、同時に爪を立てられたように心臓が痛んだ。
「大丈夫だよ。ちょっと寝付けなかっただけだから」
 そっと流川の手を両手で掴んで外す。ニコリと笑えば、どうしてか流川は厳しい表情に戻ってしまった。
(もしかして意図的に接触を減らしてるの、バレちゃってるのかな……?)
 だって仕方がないじゃないか。
 流川に優しくされる度に、好きだなって思い知らされて、そうしてこの優しさは自分にだけ向けられるものではないと突きつけられるのだから。
 夏休みの一ヶ月で自分の気持ちに割り切りをつけたつもりだった。同じクラスであるこの一年間だけは、そばにいたいって。
 けれど心というのはあまりにも自分の思い通りには行かなくて、そばにいるだけで幸せだと分かっているのに、流川の優しさの先が自分でないと苦しくて仕方ないのだ。
(このままじゃ、一緒にいるのすら苦しい……)
 また食い下がられるかとドキドキしていたが、流川はじっと見つめてくるばかりでなにも言わなかった。そのうち教師がやって来て着席を促したので、それに倣って流川も自分の席へと戻った。
 隣の気配がなくなったことに、依織はほっと息を吐いた。


 一緒に移動もするし、昼休みだって二人で屋上で過ごす。ただ、手を繋ぐことがなくなり、流川が差し出す優しさから依織が距離を取っているだけなのだ。
 クラスメイトたちが見る分には、依織と流川が距離を取り始めたとは思わないだろう。
「あら、依織くん。こんにちは」
 廊下ですれ違った彩子は、癖のある髪をなびかせながら依織に笑みを向け、ふとその背後に目をやってしばたたく。
「あら? 一人? 流川は一緒じゃないの?」
 何度も周囲を確認するようにきょろきょろと見渡すので、そんなに一人でいるのが意外だろうか、と依織は微苦笑してしまう。
「ちょっと呼び出されてて……楓くんは教室で待ってます」
 本当は一緒に行くと駄々をこねるように押し問答したが、さすがに流川だって先輩にバラされたくはないだろうという配慮だった。最後は子犬が拗ねたようにどよんと空気を濁らせながら自席から依織を見送っていたので、なんだか悪いことをした気分になった。
(だって千弘くんが一人で来てねって言うんだもん……しょうがないよ……)
 昼休みは流川と一緒に昼食を取るが、今日は教室で早々に終わらせ、今は校舎裏に向かっているところだった。
 待ち合わせ相手は、和樹の友人である千弘だ。穏やかそうな雰囲気の好青年で、和樹と同じサッカー部の所属。顔を合わせる度に依織に近づいて嫌味を言う和樹を、友人だからと傍観せずに厳しい言葉で止めてくれる。
 和樹のことは苦手だが、千弘のことは嫌いではなかった。むしろ、和樹がいないときに会うと、立ち話をするぐらいには仲がいい。
(楓くんとクラスメイト以外だと、ちゃんと友達らしいのって千弘くんぐらいかも)
 その千弘が、和樹や流川の目を盗むようにこっそりと依織に近づいて、話があるから一人で来て欲しいと言われたのが、今日の昼休みだった。
「それって、女の子? まさか告白の呼び出しじゃないの?」
 にんまりと笑った彩子が耳打ちした。
「あ、でも依織くんみたいに綺麗な子だと男の子相手ってこともあり得るわよね」
 と、納得して彩子は一人で頷いている。
「告白ではないと思いますけど……彩子さんは、男同士とか変だと思わないんですか?」
 あまりにさらりと言われたので、つい訊き返してしまった。彩子は一度目を瞬いて、「んー」とその厚い唇をわずかに尖らせる。
「まあたしかに珍しいことかもだけど、αやΩの間じゃ当たり前でしょ? 私らβの間でも、全くないわけじゃないだろうしね〜」
 みんな好きに恋愛すればいいんじゃない? と、普段のカラリとした笑顔で言われて、依織は衝撃を受けた。
(そんなふうに言ってくれる人もいるんだ……)
 今まで依織の周りには、変だ変だと騒ぎ立てる人しかいなかった。彩子の笑顔を見ているうちに、なぜだか記憶の中の彼らがひどく子どもっぽくて幼稚に思えてきた。
 すごいな、と依織は感動した。年が一つ違うだけで、こうも大人に見えるものか、と。
 果たして来年、依織は彩子と同じような広い視界で世界を見ることが出来るかと、不安に思いもした。
「彩子さんは、優しいですね」
 小学生のとき、この人と同じ学区内だったなら、自分は少しでも救われただろうか?
 彩子のことだから、きっと昔から面倒見が良かっただろう。
 先日、明里の学校での発情期の際も、あのあと彩子が荷物などを保健室まで届けて面倒を見ていたと聞いた。その後、明里は以前のように一年生のクラスに来ることはなくなった。けれど、校内で見かけたときにはいつも彩子がそばで笑っていたから心配はないだろう。
 きっと依織のこともΩだからと色眼鏡では見ず、困ったときには頼れる存在になったはずだ。
 ――でも、実際は彩子みたいな人はいなくて……。
 切なく笑った依織に、彩子は息を呑んで、そしてすぐに依織と肩を組んだ。
「ま、流川は同じ部活の後輩だし、その流川と同じクラスの依織くんだって私の大事な後輩よ〜? 困ったことがあったら何でも言いなさい?」
 ニッとつり上がった瞳が片方、パチンと閉じられる。笑みは頼りがいのある姉のように思えて、依織は嬉しくて泣きたくなった。
「ありがとうございます。彩子さん」


 依織が着いた頃には、すでに千弘は待っていた。校舎の外壁に背中を預けていたが、依織に気づくとハッとしたように姿勢を正してぎこちなく笑った。
「ごめん、急に呼び出して」
「ううん、大丈夫……それで、急にどうしたの?」
 いつだって穏やかで余裕な笑みを浮かべている千弘だが、今日は視線が泳いでいるし、様子が変だ。
(そもそも二人で話ってなんだろ……)
 相談事をされるような間柄でもないので、ますます呼び出された理由が分からない。
 ひどく動揺した様子の千弘が口を開くまで、依織は静かに待っていた。敷地内に埋められた木々がさやさやと秋風に揺れ、その葉音が静まったころ――。
「好きなんだ」
 意を決した様子で千弘が言った。
「え?」
「おれ、依織くんのことが好きで……それを伝えたくて、呼び出したんだ」
 頬が僅かに赤らんでいて、けれどその瞳は真っ直ぐに依織を見据えているので、嘘だとは思えなかった。
(好き? 俺のことが……?)
 上手く頭が回らなかった。好きだという言葉を、家族以外から貰えるとは思ってもいなかったからだ。
「なんで……おれ?」
 思わず口から疑問が飛び出た。それが千弘には本心なのかと疑うように聞こえたのか、必死になって言葉を重ねた。
「本当に好きなんだ! 依織くん、困ってる人がいるとまず声をかけるだろ? この前も、Ωの先輩のこと一番に駆けつけてたし……」
 先日の明里の発情期のときのことを、見られていたらしい。
 恥じらうように千弘の目が伏せられ、指で頬を掻いた。
「俺、βだから依織くんのヒートとか軽くしてあげることは出来ないけど、そばにいたいと思ってる……もし良かったら、付き合って欲しいんだ。Ωだからとか関係なく、依織くんのことが好きだから」
 千弘は、最後にはひしと依織を一心に見つめて言い切った。その瞳が不安や期待で艶を多くして揺れているから、どうしてか居たたまれない気持ちになって、ずりっと後ずさりしかけた。
 ドキドキしているのは、初めて家族以外から好意を向けられたせいか。それとも――。
 ――Ωだからとか関係なく……
 ずっと欲しかった言葉を、もらったからかも知れない。
(千弘くんは良い人だけど、恋してる好きじゃない)
(どうしよう……)
 好きだと言ってもらえるのは嬉しいし、千弘くんは良い人で、一緒にいるのも楽しいと思う。けれど、同じ好きではないのに、その気持ちを受け入れるのは不誠実な気がした。
(うん……ダメだよね……断ろう)
 素直に謝罪して、頭を下げようと依織が佇まいを整える。その気配に断られると察した千弘が、「返事は今じゃなくいいから!」と勢いよく遮った。
「依織くんが俺のことそういう意味で好きじゃないの知ってるよ……けど、それでもいいから考えて欲しいんだ。今は好きじゃなくても、もし少しでも希望があるなら、付き合って欲しい」
 そう言って、千弘は頼み込むように頭を下げて校舎に戻っていった。彼の足音が遠くなって聞こえなくなるまで、依織はその場で立ち尽くす。
(好きじゃなくても……)
 そんなこと、許されるんだろうか。ダメだよ、と理性的な自分の声が頭に響いた。けれど、いいんじゃない? と甘い言葉を吐く自分もいる。
 俺のことを好きなんて言ってくれるのは、千弘くんが最初で最後かもしれないよ? この機会を逃せば、あとは疑似パートナー制度を利用するしかないかも……。
 どうせ一緒にいるなら、自分のことを好きになってくれた人がいい。
(こんな打算的な考え、ダメだって分かってるのに……)
 それでも、この先の人生がもし一人ぼっちだと思うと、淋しくてたまらなくて、差し出された手に縋ってしまいたくなるのだ。
(俺は、千弘くんのことを好きになれるのかな……?)
 そうなれたら、きっと両思いで幸せだ。βとΩの恋愛は、きっと大変なことも多いと思う。けれど、好き合っていれば、きっと乗り越えていけるはずだ。
 混乱していたが、前向きなほうを見れてきた。好きになれる可能性があるのなら、千弘の手を取ってもいいのかもと思えた。
 そんな思いの中でも、頭の隅にはどうしても流川の美しい姿がちらついた。


 依織も遅れて校舎へと戻ったが、教室に入る前に流川が壁のように立ちはだかった。
「遅い」
 責めるように言われて、依織はつい「ごめんね」と謝ってしまった。
「なんの話してたの?」
「え?」
 まさかそんなことを訊かれるとは。千弘に呼ばれたと言ったけれど、その内容を流川が気にするとは思っていなかったので、告白のことを思い出して咄嗟に裏返った声が出た。ほんのり頬が紅潮した依織に、流川が小さく目を瞠った。
「なにその顔」
 ぐっとしかめた顔で、流川が依織の両肩を掴んだ。ぐいっと身を乗り出してきたので、涼しげな美貌がすぐ目の前に迫った。
「なんの話してたんだよ」
 ムスッと不機嫌そうな流川から目を逸らし、依織は伏し目がちに「なんでもないよ」と答えた。
(浮気した気分てこんな感じなのかな……)
 好きな人がいるくせに、他の人との未来を模索しているからか、流川の顔を真っ直ぐに見られなかった。恋人同士でもないくせに、後ろめたさが募る。
「告白でもされたのか?」
 ぽつりと落ちた呟きに、驚いて顔を上げてしまい、依織はしまったと後悔した。これでは、まるで正解だというようじゃないか。
 流川もそれが分かったのか、さっきよりもさらに厳しい顔で依織を見下ろしていた。ぐっと空気が重くなった気がする。これがαの気迫なのだろうか。
 息苦しくて、膝をつきたくなるほどだ。それなのに、なぜか心の奥がじんわりと温まって、αのその気迫に包まれることを望んでいるような、安心するような気分に陥った。
 ごくりと喉が鳴る。うなじが熱をもっている気がした。その熱が、ひりひりとしたむず痒い痛みとなって全身に広がっていく。小さく身体が震えてきて、肩を掴んでいた流川もそれに気づいた。
「依織……? ごめん、俺……」
 我に返ったのか、さっきまでの重苦しい空気が霧散した。ふらりと揺れた依織の身体は、流川に両肩を支えられていたので倒れることはなかった。
「大丈夫だよ、楓くん」
 そんな真っ青な顔で謝るようなことじゃない。
 実際こうなっているのは、依織がΩでαのオーラに弱いからいけないのだ。ちらりと教室内のクラスメイトを見たって、みんな平気な様子で雑談に励んでいる。廊下近くの数名だけが、ちらちらちと依織たちのことを気にしたふうに視線をやっていた。
「ほら大丈夫だから。ね?」
 両足でしっかり立って、元気だとアピールする。それでも流川の顔色は晴れないが、両手は放してくれた。
「あ、先生来た……席に行こう?」
 立ち尽くした流川と扉の隙間から教室に入った。そのまま前進しようとしたが、さっきまでとは正反対な弱い手からで指先を包まれて引き留められた。
「楓くん?」
「なんて答えたの」
「答え?」
「告白」
 じっと見つめてくる流川の瞳が、なぜだかゆらゆらと揺れていて、依織にはそれが泣きそうになっているように見えた。だから、考える前に素直に答えてしまった。
「まだ保留中……」
 刹那、触れ合った指の力が強くなった。そのまま流川は黙り込んでしまって、教壇にたった教師が声をかけてくるまで、依織はずっと困った顔で流川の様子を窺っていた。

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