ゼア・ゼア1
ある夏の夜である。湿やかな常闇を掻き分けてひた走る少女が一人。
気持ちだけが逸って追いつかぬ足が、何度も木の根や土の窪みにつまづき、もつれ、転げてしまいそうになる。少女はその度に奥歯を噛み締めて、ぐっと体勢を立て直す。衣服や薄肌が枝葉に裂かれ、いくつもの擦り傷と切り傷をこさえながら、振り返ることもせずひた走るのである。
それが果たして前に向かっているのかすら、当の本人には分かっていないのであろう。傍から見れば滑稽極まりない彼女の疾走であるが、それには当然ながら訳がある。とは言え、か弱い少女がその身に合わぬ全速力で木々の間を駆け抜けているのであるから、理由は想像に難くない。きっと何者かに追われているのであろう。
では、追いかけているのは何者か。盗賊か?恋敵か?野犬か?はたまた稀代の変質者か?彼女の逼迫した表情を見れば、余程の者に追われているに違いない。さながら悪夢でも見ているかのようだが、彼女はつい先ほど目覚めたばかりなのである。
数十分前の事だ。彼女は湿った洞穴の中で目を覚ました。気怠い身体をむくりと起き上がらせ、間抜けたあくびを一つ。暗がりの中で瞼は重く、眠気は未だ全身を巡っている。しかし、身体の節々が鈍い痛みを訴え、彼女が再び横になるのを阻害していた。
『どこか寝違えたのかな?そういえばベッドの肌触りがいつもと違うし・・・』
彼女は気になって、ぼやけた視線を自分の体に向けてみた。すると、病衣のような服を纏った身体が、粗雑な麻布の上で鎮座していた。頭がまだ寝ぼけているようで、その身体が自分であるのに気づくまで数秒の時を要したほどだ。
しかし、そんな状況であるにも関わらず、彼女はあまり驚いた様子を見せない。まるで意識の覚醒が、彼女の日常を夢と共に霧散させていくようである。
辺りを見回しても、この洞穴が元来の住処であったような気がしてくるのだ。彼女はまた緊張感の無いあくびを一つ。
すると、少し寒気を感じて肌をさする。洞穴の先には、誂えたような暖かい光りがたゆたっていた。光りの下では狸の家族がテーブルを囲んで、暖かいシチューを頬張っている。
彼女はそんな童話のような情景を思い浮かべながら、まるで誘蛾灯に惑わされるようにして、光の元へとぼとぼと歩き出したのであった。
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