さよならの眷属

 ユラはまた夢を見ていた。
 水の中のように、自分が鳥になって中を自由に舞うように、ユラの体は少ししか重力を感じていなかった。香った懐かしい匂いにユラはそちらを振り向く。そこには5人の人影があった。ユラはその中の一人にふにゃりと笑いかけ名前を呼ぶ。その人もユラを呼んで両手を広げてユラが来るのを待っている。今行くからね。ユラは早く触れたいと手を伸ばし走り始める。重苦しい衣装がいつの間にか露出が多く軽やかなものになっていた。手が触れる、その刹那。

 ユラはハッと目を覚ました。ずきりと痛んだ頭にユラは顔を歪め、夢を忘れた。見知らぬ天井、人の呻く声、少しばかり大きく怒鳴るような声、泣く人。阿鼻叫喚とまではいかないが、それに近いものを感じた。

「目が覚めた?」

 薄い髪色 柔らかな瞳。彼は傷だらけだが割と元気そうだ。ユラを気遣わしげに見下ろしている。ユラはそっと起き上がりキョロキョロと辺りを見回した。

「ここは風牙の都。君たち商団は賊に──って言っても火の部族の奴らなんだけど に襲われたんだ」

 ユラはようやく覚醒した。城を出たユラに行く当てはなく、ただ闇雲に夜の森を駆け抜けた。といっても長い事自分の部屋から出ていないユラの体力はたかが知れていたのだが。その後ユラは自分が引きこもっていたお陰で城の人間にすら顔が割れていないのを生かして街に降り、持ち出した装具を幾つか売って商団に同行することになった。
 行く当ては確かにない。だけれども、幼少の頃風の部族長であったソン・ムンドクは知恵や力を貸してくれるだろうし、ヨナが生きているとしたら彼の孫で護衛を勤めるソン・ハクと共にそこに行くだろうと思ったのだ。そして、もう直ぐ風牙の都に着くという時、商団を賊が襲った。きっと母が死ぬ時もこんな風だったのだ。ユラは震える手で弓や短剣を構えた。ヨソンと生きると約束した。ここで死ぬわけにはいかないのだ。何人か人を殺めてしまった。その事実が優しいユラに重くのしかかる。そしてユラはいつしか意識を手放してしまったのだ。

「大丈夫?傷が痛む?」

 ユラはふるふると首を横に振って否定し、いたわるように心配する彼の頬の傷に触れた。彼は一瞬目を丸くしたあとに、ユラを優しく見つめ返した。

「心配してくれてるの?」

 ユラはこくりと頷く。

「ありがとう。でも、俺 頑丈が取り柄だから大丈夫だよ」

 そう言って笑った彼にユラも笑い返す。そこでユラはムンドクやハクの事を思い出して慌てて立ち上がる。疑問に思うところもあるが、第一に心配した彼がユラの隣に並ぶ。ユラは扉に手をかけて外に出る。全くわからない建物。挙動不審に見回して彼を困ったように見つめる。

「どうしたの?」

 ユラは喉を詰まらせた。彼に話しかけて良いのだろうか。商団の時は身振り手振りでなんとか伝える事ができた。どうしよう、とユラが悩んでいると彼は気づいたようだった。

「ごめん、嫌な聴き方だったね」
「…ちが、の」

 ユラは意を決して口を開く。彼は驚いた顔をしてなんだ、喋れたのか。と思ったのだろう。少しほっとしていた。

「ここに、ムンドク、様やハク将軍は…いらっしゃいますか?」
「二人とも今は長老の部屋にいると思うよ。こっち」

 彼はユラの手をとって歩き始める。道中彼の話は尽きなかった。そういえば名乗ってなかったね、から始まって彼がヘンデという名前だと知った。ヘンデは馬を駆るのが得意で風の部族の中で誰よりも早いらしい。身のこなしも軽く、ムンドク仕込みの槍はテウという子の方が上手いらしいけど避ける事には自信がある。テウとは仲良しで一緒に門番を任されたりしているけれど、門番なのにお互いに背中を預けあっていつも寝ているのだと言った彼がおかしくてユラはころころ笑った。

「ヘンデ、ありがとう」
「いーってことよ!風の部族はみんな家族だから…君も…って、俺名乗ったのに名前聞いてなかったや、ごめんごめん」
「……ヨソンよ」

 ユラは少し悩んで、申し訳なさを感じながらヨソンの名を名乗った。姫だと言わなければきっと分からない。巻き込む事もないはずだ。
 ヘンデはにっこり笑ってガラリと戸を開け、ユラを中に通す。戸のところでひらひらと手を振るヘンデに手を振り返し、ユラはそっと息を吐いた。ヘンデの気配が遠のいて、ようやくムンドクが切り出した。

「貴方様は、もしや…ユラ姫であらせられますか?」
「はい。お久しぶりです、ムンドク長老、ハク将軍」

 次の瞬間ユラはムンドクの腕の中にいた。温かく、服の向こうで脈打つ拍動が感じられる。生きてる──。感極まったユラの瞳から涙がこぼれ落ちた。安堵から、やっと張り詰めた糸を緩める事ができた。すると体全身から力が抜けてユラはムンドクに支えられた。

「よくぞご無事で」
「ヨソンが身代わりになってくれたの。なのに、私…ッ」

 その時ハクは驚愕に目を見開いていた。ヨナと幼馴染であるハクはもちろんユラとも幼少から知り合いであった。だが、ユラが心の病にかかり体調を崩すようになって部屋にこもり始めた時から溝は広がり深まり、ハクとの距離は開いてしまった。ゆえにハクの中でユラの存在は年上といえど幼い少女のままだったのだ。
 それがどうだろう。背も伸び身体つきは色香を漂わせる大人のそれになり、長く伸びた艶やかな髪も、ポッテリとしたくちびるも、優しげだがキリッとした目も知っているようで知らない女性のそれだった。
 ハクは戸惑っていた。あの少女が、こんな美しい妙齢の女性になっているとは想像に容易いが、そこに至るまでが難しかった。記憶の中にいる少女特有の高い声はいつの間にか落ち着いて高いのにどこか低くも感じる。まるで別人だと思った。

「あの、ハク…。ヨナは、ヨナは無事なの?」
「ああ。でも心が…」
「仕方ないわ。あの子はまだ子供だし、想い人に裏切られるなんて…」
「しかも姫さんは、王が亡くなるところを見たらしい」
「…そう、父上は間に合わなかったのね……」

 ハクは言ってから自分のしでかした失言に焦った。ムンドクも同様でハクにゲンコツを落として叱りつける。ユラはそれを制止して、彼らが今掴んでいる情報を聞き出した。

「ムンドク長老、スウォンを王に承認してください。ハクは表向きには父上と私を弑逆し、ヨナを人質に逃亡した極悪人だから誤解を解けないのは申し訳ないけど、私はこれ以上私のせいで傷つく人を見たくない。犠牲は最小限に抑えたい」
「しかし、」
「元々俺はその事を話しに来た。俺もユラに賛成だ。俺だけでいい」

 ハクは明朝風の部族を去るという。それに当たってハクはムンドクにソンの名を返し、ヨナを風の部族の人間として生かしてほしいと頭を下げた。
 ユラは止められなかった。ハクは強いから賞金首になっても生きてられると思ってしまったし、少し考えたらハクを犠牲にするしか道がないことも分かった。

「嫌ぢゃ」

 ムンドクは初めこそ強く否定した。けれどムンドクもユラと同じようにバカではないから分かってしまうのだ。

「部族長の命ならば従わん訳にもいかんが…」
「風の部族長ソン・ハクの 最後の命令だ」
「御意」

 ムンドクは静かに涙を流した。手塩にかけた愛孫の一人が、人柱となって全てを背負うのだ。当然だろう。一方のユラは罪悪感に苛まれていた。ハクを生贄にした。ユラが言わなくてもハクはそうしただろう。だけどそこに関わってしまったし、そういう考えに至った自分の性根の腐敗を見て嫌気がさしたのだ。部屋を出たユラはハクの背を見た。

「ハク 本当にいいの?」
「ああ。これしか道はない」
「ごめんなさい。貴方を犠牲にしてしまった。所詮私は誰かの犠牲なくしては生きられないのかしら」

 ユラの胸に新たに後悔が生まれた。ハクは聞き辛そうに、ユラに問いかけた。

「私の従者のヤオ・ヨソンは今回の謀反に気付いていたみたいでね…」

 語り出すのはヨソン視点の、客観的な話だ。けれどヨソンの最期を伝えようと口を開いた時、鼻がつんとあつくなって涙がまたこぼれだす。ハクはそんなユラの肩を掴んで抱き寄せ腕に閉じ込めた。ユラはハクの胸にすがる。

「私 ヨソンから目を逸らしたの!死が 血が強くておぞましいと思ってしまった!私のために命を投げ打ったというのに…!」

 ぽんぽんとハクの手がユラの頭を撫でる。

「それに、私 火の部族の人を殺してしまった…!父上があれほど認めなかった武器を持って、殺される前に殺してしまえって!その人を背負う覚悟も命を奪う勇気もないくせに、私は…!」
「仕方なかった。ユラ姫様は生きなくてはならなかった。ヨソンとの約束を守るために必死だったんだ」
「仕方ないで人の命を奪ってはいけないわ!その人たちにだって家族はいて、友人も仲間も!憎しみが生まれていくばかりよ…!」

 ユラが落ち着くまでハクはそのままでいた。その中で芽吹いたのは、随分長いこと氷漬けにしていた淡い恋心だった。
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