潮風に錆びた指
ユラとヨナ、ハクの三人は北山にいた。北山は随分痩せた土地らしく木々が少ないし土も硬くて脆いし乾燥している。そんな中、何故三人で歩いているのか──。「お前を私に頂戴!」
早朝 ユラがハクを見送りに出るとヨナがやって来た。私も行くと言って聞かないヨナにハクは根負け。ヨナが行くならばユラも行く。そうして三人であてのない途方もない旅に出た。
ちなみにユラはできる限り口を利いていないし、ヨナにも自分がお前の姉だと言えていない。二人はあくまでヨソンとリナとして接していた。
ちょうどその頃、火の部族長の第二子であるカン・テジュンは父に、商談を属を装って襲ったことについて「余計な真似をするな」と怒られ落ち込んでいた。そこに部下から告げられた朗報は、ユラたちにとっては都合が悪いものだった。
──北山に向かう赤髪の少女とハク将軍、見慣れない女を見たと。
ユラは地面に座って疲れた足を揉みほぐしていた。ハクは遠方を眺めている。というのも、ムンドクから古より高華国の未来を見据えていた神官が風の地のどこかにいると聞かされて、行き場のないユラたち一行に道を示してもらおうとユラたちは探していた。
神官は王宮の神殿に住まい国政に携わっていた。その権力は中々に大きいもので、イルの兄である(スウォンの父)ユホンが神官を弾圧して以来、城を出て人里離れた場所にひっそりと暮らしているそうだ。
人里離れた、ということで何もないことで逆に知られる北山に来てみたはいいが、手掛かりは未だに掴めていない。
「この辺をしらみ潰しに探すとなると野宿になるが、どーします?」
「野宿?少しは慣れたわ」
ユラもこくりと頷く。
「城の裏山と違ってここは冷えますよー」
「その時はハクにくるまって寝るから」
ハクは明らかに動揺して振り回していた愛用の大刀をぶん投げた。それにユラの胸はつきんと痛む。
昔 ユラはハクが好きだった。だけどハクはヨナを想っていたし、ユラは誰とも顔を合わせない 話をしない暮らしを始めた。初めの方はハクもユラを心配して部屋を訪ねてきたが、ユラは頑として戸を開けなかった。その内にユラとハクの距離は開いていき、逆にヨナとハクの距離は縮まっていった。ユラも長いこと会わない内に気持ちが落ち着いて恋など忘れていたのに、あの夜、再び凍り付いていた想いが再び芽吹いてしまった。
「いーけど、イタズラしますよ?」
「いたずら?」
「いたずらってのは、こーゆーこととか」
ハクはヨナの首筋に唇を寄せる。ヨナは驚き戸惑い身じろぎするがそもそもの体格差があるので無意味だ。ユラは胸が痛むのを無視して、ヨナを助けるという大義を掲げてハクがすっ飛ばした大刀でハクの頭を叩いた。「いってぇ!」と声をあげハクは額を崖の断面にぶつけた。その隙にヨナはそそくさと逃げてきてユラの後ろに隠れる。しばらくの沈黙が続き、そんなに痛かったのかとユラが心配になってきた頃。
「足音…40、いや50。追手だ」
すんなり風牙の都から北山まで来られたのでてっきり追う気はもうないと思っていたのだが、随分と気合の入った数にハクは不敵に笑う。ヨナが恐怖から顔を曇らせると目立つ赤髪に外套のフードをかぶせて隠させ、軽口を言って気を紛らわせていた。ユラも怖いと感じていたのだが、ハクは高華国の雷獣と評されるほどの実力者で国防の要を担っていたくらいだし、と軽く構えていた。ハクならばきっと問題ないと、信頼を置いていたのだ。
周囲にある少ない木々の影から金属が触れ合ったり鎧の接合部が軋む音がする。追手の火の部族がやって来たことを表していた。ハクはユラとヨナの前に立ち塞がり、ユラとヨナは互いに手を握り合った。
いっせいに襲いかかって来た火の部族の兵たちを大刀の一振りで退けるハク。四方から押し寄せる兵、剣、矢。その全てをハクはユラとヨナを庇いながら戦っていた。ハクの戦いに惚れ惚れとする中、ユラの中で熱い何かが滾っていた。心臓から指先まで、熱い熱い熱い。なんてもどかしいのだろう。
「あっ」
「姫を狙え!」
「ヨナ!」
ユラは段差に躓いたヨナを咄嗟に本当の名で呼んで、背に庇う。矢が迫る。どん、と軽く押されたかと思うと、ユラは頬にぬくもりを感じていた。ハッとして見上げると、ハクの左の肩に矢が刺さっていた。
「ハクっ」
「心配なんてしないで下さいよ、気持悪い」
「お前は…っ」
「ヨソンサンしっかりついて来て下さいよ?」
ハクはヨナを片手に抱え、跳躍した。そんな無茶な と思いながらも、ユラもそれに従ってついていってしまうのだから、ユラも過剰に分泌される脳内物質に助けられているのだろう。
ヨナはそっと痩せた土地にわずかに茂る場所に隠された。ハクはユラを最後に見て、「頼む」と一言残してまた戦場に舞い戻った。二人で息を潜める。そんな時、案外近くに居たカン・テジュンと参謀の会話が耳に入った。
「雷獣も人の子よ。だいぶ疲れがあるようだな」
「先程当てた矢は毒矢です。常人ならばまず動けません。恐ろしい男です」
「何!?それを姫に向けたのか!?」
「向ければハクは身体を張ってでも矢を止めると確信がありましたから」
「じゃあ次に背中を向けた時を狙え」
毒を受けた状態で動き回るなど言語道断。戦いで使う毒はやがて死に至らしめる恐ろしいものだというのに。そんな状態で一人戦うなど、無謀にも程がある。ここでハクが死んだら、どうなるのだろう。ユラは、ヨナは。間違いなく死んでしまう。旅なんて出来ない。
生まれて初めてユラは力を渇望した。ユラはイルによく似て、穏やかで心優しい性格をしている。言霊の力を持つユラは力の恐ろしさを知っていて、余計に人を傷付けることを恐れた。今はどうだろうか。自分の守りたいもののために傷付けることを善しとした。双方無事な道など、この世に存在していないのだ。世界はそんなに、甘くない。
ヨナが飛び出した。ハクを狙っていた弓兵を後ろから体当たりして谷底に突き落としたのだ。テジュンは出て来たヨナに話しかける。迎えに来たのだと。父を亡くし 城を追われたその事実に同情して、一緒に謀反についてを公表して仇を討とう、と。ユラの思考は冷静だったが、それでも全身怒りのあまり燃えるように熱くなった。
「そこまで知っていて、火の部族は何故風の部族に圧力をかけたの?」
「えっ…いや、あれは父上の指示で…。私の意思では…」
「何故商団まで襲ったの?
真実を知っているのなら、風の部族を追い詰める前に、罪のないハクを殺す前に、お前のすべき事がある筈だ!
私は何も知らない姫だが、道理もわからぬ者の言葉に耳を貸すほど落ちぶれてはいない!」
まだ16歳だと思っていた。幼く 無知で 純真で か弱くて。けれど今のヨナ背中はどうだろう。ハクに押し込まれた戦いから少しばかり離れた茂みの中で、呆然と立ち尽くす私に向けられた背中はどうだ。芯の通った、力強さがあるではないか。その背中で伸びた紅い髪が揺れて、己の臆病を責める紅蓮の炎に見えた。