不可視の焼き印

「来いッ "カラヴィンカ"!!」

 ユラの手に美しい扇が現れ、それを大きく地面に向かって扇ぐように振りかざす。すると、ユラの落下していた速度は落ちて地面にふわりと着地することが出来た。カラヴィンカは風を操ることのできる扇で、ユラはこれを利用したのだ。しかし、以前と比べるとその力は随分劣ったように感じて、ユラは思わず自分の手を見る。
 もしかしたら、ここは魔法や神の御力が薄い世界なのかもしれない。だとしたら、さっきハクとヨナの着地を緩和するための風は届いていない可能性がある。無事を確認するためにも、ユラは意外にも緑の茂る北山の谷底を駆け出した。

 はるか上にある崖の縁を参考に、二人のいそうな方向に目星をつけて足を進める。道中獣や木の実、山菜で飢えを凌ぎ、休憩も余りとらず歩き続けた。

「あれは…ハクの大刀…」

 そう言えばさっき木の太くてしっかりした枝が折れていたのを見つけたが、もしかしてあそこに二人は落ちたのだろうか。木々が緩衝材になってくれたのなら、生きている可能性は高いし、あの場にいなかったことが生きていることの証明になる。大刀を肩にかけて進む。
 日はいつの間にか沈んで、昇って、また沈んでいた。いよいよ限界のきたユラはいつの間にか大刀を抱いて眠りについた。
 がさり、木の葉を踏む音が聞こえてユラは目を覚ます。そこには目を丸くして木の影から姿を現すハクの姿。ハクの身体には包帯が巻き付けられていて、きちんと適切な処置が施されていることを示していた。ハクが無事ということはヨナも無事なのだろう。ユラはほっと息をついた。

「ユラ、姫様……ご無事で…」
「ええ、ハクもきちんとヨナを守った上で息災なようで。もう身体は良いのですか?」
「はい、ご心配かけました…」

 ハクはどこか心ここにあらずといった様子でユラと会話を交わす。まるで幽霊かなにかを見ているかのような、そんな浮ついた具合でユラに疑問を与えた。ハクとヨナが身を寄せているらしい民家があるとのことで、ユラはハクに導かれながらそこを目指す。静かな月夜に、二人の足音だけが在った。

「ハクのバカ!!」
「心外な」

 暗闇でヨナが座り込むのを偶然見つけた。ハクはこめかみの辺りをひくつかせてヨナの前に姿を見せる。目をうるませながらいつになく弱腰なヨナを、ハクは軽口を叩いていつもの調子を引き出そうとする。


「どこ行ってたのよ」
「ちょいと槍を探しに」
「だったら私を起こしなさい!!」
「…成程、一人じゃ寝れないんですね。添い寝しましょうか」
「たわけ者っ!そんなケガでどこ行ってたの!?こんなボロボロになって、無茶して…っ 死んじゃうかと思った…っ 勝手に、行かないで。ハクだけはそばにいなきゃダメ」

 そう言って泣くヨナに、ハクは愛おしげな視線を向ける。そして、ユラはハッとした。バクバク心臓が早鐘を打って、痛い。この痛みは恋情だ。高華国の姫である"ユラ"の感情に引きずられて、涙が溢れてしまいそうなほど狂おしく、深い想いだった。もう二度と会えないと言ってもユラには心に決めた人が居るのだ。それは揺るがない。
 ユラは、ヨナがどれだけ泣くのか見たいから死んでみたいなどと馬鹿な事を言ってヨナに口づけようとしているハクの肩に手を置いた。ぐっと力を込めてヨナから引き離し、座るハクを黒い笑顔で見下ろす。

「こほん、」
「…はぁ……姫さん、申し訳ありません。髪は、俺の落ち度です」
「平気よ、軽くなったし。それに私、この赤毛がずっと嫌い…だったんだから」

 悪くないでしょ、そう笑った笑顔は見る人によっては眩しいものだろう。しかし、陰ながら見守って来た姉には、その内側を見透かされる。先に立ち上がって歩くヨナは一瞬ユラと話しそうな雰囲気を醸し出したが、そのまま歩き続ける。その背にハクは一人想いを馳せる。

「(『そばにいなきゃダメ』だなんて簡単に言ってくれる。束ねる髪がなくなっても、まだあの簪を捨てていないくせに)」


 翌朝、ユラが目覚めると家の主の一人の少年、ユンしか起きていなかった。早いのね、と声をかけると彼は驚いたようでビクリと肩を揺らした。

「ごめんなさい、驚かせてしまったかしら」
「別に…。アンタこそ早いんだね」
「何だか目が覚めてしまったの。ユン、というのよね?」
「そうだけど」
「ヨナとハクを救ってくれてどうもありがとう。あの子は私の大切な家族で、失ってしまったら私はきっと空っぽになってしまう」
「めんどくさいけど、目の前で虫の息だけど助かる見込みのある奴がいるのに助けないほど、俺は冷酷じゃないよ」
「うん、貴方の優しさと聡明さに救われたわ。だから、ありがとう」

 ユンは照れたようでそっぽを向いてしまう。それすらも微笑ましく思えてユラは忍び笑いを漏らす。あらぬ方を向いているせいか、彼はそのことに気付かず、やがて別の話が始まった。

「ねえ、アンタってさ」

 その先の言葉は聞かずとも分かった。皆まで言うなとユラは片手をあげて制し、名乗る。

「私は第一皇女の…、先王イルの娘 長女のユラよ」
「ふぅん、引きこもりで居るか居ないか分からないって噂の?」
「ふふ、意地悪ね。そうよ、十年間は部屋にこもっていたから誰も私の顔を知らないの。城の中を侍女の格好で走っても誰も気に留めない、幽霊みたいな存在」
「何でそんなことしたの?」
「あの頃の私はそれで守った気になっていたのよ。結局は自分で自分を責めたくて、許されたくて、ただの自己満足だったのでしょうけど」

 ユラは隣に眠るヨナの目にかかる髪を払ってやる。そして少し汚れた頬を撫ぜるのだ。愛おしくてたまらない。ユラの聖母のように穏やかで温かな眼差しはそう物語っていた。思わずそれに圧倒されたのはユンで、言葉が出なかった。
 その後ハクとヨナも起きだし、ヨナはハクにここが神官の家だと告げた。それにはユラも驚いて、次元の魔女がかつて口にした "偶然なんてものはない。あるのは必然だけ" その言葉を思い出した。これも決められた運命だったのであろうか。

「神の声を、聞きたいですか?」

 神官のイクスは滝を、流れ行く水を見ながら涙を流していた。朝から姿が見えない神官を探していたヨナは、それを見て心配する。陰ながら付き添うユラとハクは、その問いに顔を合わせた。

「ムンドクに神官様に道を示して頂くよう言われたの。……道とは、誰かに示してもらうものですか?」

 ヨナの言葉にユラの背筋はぞくぞくとした。いつの間にヨナはあんな静かな、達観したような目をするようになったのだろうか。全て、スウォンのしでかした事が原因なのだろうか。
 ヨナはぽつりぽつりと語る。何もしないでじっとしているべきなのかと思っていた事。けれど追われ、ハクを失いそうになって、自分も命を落としかけて。血が熱くなって、沸騰しそうに熱くなって、私だって自分の足で立って歩けるのだと、思ったこと。

「生きたいと思ったの。私もハクの命も決して奪わせやしない。私の願いは今はただそれだけ。神様に聞くことなんて…」
「いいえ、あなたが"生きる"という事は、普通に平和に暮らすのとは違う。あなたが生きるという事はこの高華国の大地を揺るがす嵐を起こすという事。あなたがただ真っすぐに生きたいのなら、熱き血潮を止められぬのなら、あなたに神の声を伝えましょう」
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