※「残り香で包む 前」の後編


「いらっしゃいませ」

お客様が店内に入ったらまず挨拶を。それはこの甘味処で働き始めて一番に教えられた事だ。当初は机を拭いたり食器を片付けたりしながらこれを行う事が意外にも難しかったのをよく覚えている。けれど今では手と口で別々の事をする事にも慣れ、わたしはテキパキと食べ終えられたお皿を左手に抱えながらお客様に声をかける。

「お2人様ですか?ご案内いたします」
「………」
「ええ、お願いします」

黒い外套に深く笠を被った2人組。1人は細身で口数は少ないようで、もう1人はとても背が高くガタイが良いがわたしの言葉に物腰柔らかに返した。かつて現役の忍であったわたしはこうしてついお客様を観察してしまう癖があった。虫の垂衣のようなもので覆われた笠によって2人組の顔はこちらからは見えない。この辺りでは見かけた事のない格好であるが、忍や所謂旅の者もよく訪れるこの店ではそう珍しい光景ではない。わたしはひと時の観察をやめて2人を空いている席へ案内する。

「ご注文が決まったらお声がけください。では」
「団子と茶を頼む」
「え…?あ、はい!お団子とお茶ですね」
「私は後で頼みますから、先にどうぞ」
「かしこまりました」

席に着いた途端に細身の男が口を開いた。こんなに早い注文は初めてだ。相当急いでいるのか、それともお腹を空かせているのか。とにかくわたしはその勢いに驚きつつもすぐに厨へと急いだ。幸い団子は先ほど作ったばかりのものがあるし、茶もすぐに用意ができる。わたしは他の店員達が別のお客様の対応をしているのを見て自分でそれらを準備した。

「…………」
「どうかしたんですか。アナタらしくない。あの娘、お知り合いなんです?」
「…………」
「…まあ、私には関係ありませんがね」




団子と温かい茶をお盆に乗せてわたしは先ほどの席へ向かう。相変わらず2人は笠を被ったままで、何らかの事情で顔を隠しているつもりなのだろうが逆にやや目立っているような気さえする。

「お待たせいたしました。お団子とお茶で…っ!??」

お盆からコトリと食器を机に置くとほぼ同時に男に腕を引かれた。皿が倒れる事はなかったがわたしの身体はそのまま男に向かって倒れ込んでいく。何とかもう片方の手で机に手を付き体勢を整えようと顔を上げると、いつの間にか至近距離に近づいていた男の笠の合間から2つの赤い目が覗いた。わたしはそれに見覚えがある。忘れるはずが無い。わたしが愛した彼と同じ目だ。すると急に視界が渦巻いて身体に力が入らなくなる。突然の事に声を上げそうになったが、力のない喉から吐き出されるのは荒い酸素だけ。男の顔が見たい。彼は、うちはイタチなのだろうか。

「はあっ………」
「すまない、手荒な真似をした」
「……!?イタチっ、貴方はイタチなの…?」

わたしは乱れる息を何とか押し殺して男に向き合う。辺りには何もなく、この不思議な空間にいるのはわたしと彼の2人だけ。幻術の類だろう。だって彼にはそういう事が出来た。
そして目の前に立つ男をもう一度しっかりと視界に捉える。わたしの記憶にあるそれより少しばかり背が伸びて体格が良い気がする。そして本人に言う事はなかったが女の立場から見ても美しかったかんばせは、強さを感じる男性そのものに変わっている。しかし確かに目の前の彼は、うちはイタチだ。

「久しぶりだな、なまえ」
「どうして…!本当に本物のイタチなのね?無事で、よかった。イタチ、イタチ…」
「少し落ち着け。…ここは俺とお前だけの空間だからな。時間はあまり費やせないが」

あんな酷い振り方をして今さら何だとか、どうしてあの日の事を何も教えてくれなかったのとか、そもそも抜け忍で犯罪者として手配されているのにこんな所にいて大丈夫なのかとか、言いたい事は山のようにあるのに結局言葉となってわたしの体内から出て行くのは彼の名前ばかり。ずっと貴方の名前を呼びたかった。過去の事としてけじめをつけたはずなのに、タガが外れたように涙が溢れて止まらない。イタチは座り込んで啜り泣くわたしの側に膝をついて昔と同じようの優しい手で背中をポンポンと撫でた。

「まさかなまえがこんな所にいるとは思わなかった。…忍は、辞めたのか?」
「休みを貰っているの。身体が鈍らないようにたまに任務には行ってるけどね。貴方が里を抜けた後、色々大変だったんだから」
「何か疑われたのか?お前はうちはではないし関係ないだろう。俺たちはその時には既に……まさか言わなかったのか?」
「カカシさんや夕顔さんは知っていたけれど、口止めして貰っていたの。わたしのわがままだからそこはあまり気にしないで。それに今はこの生活も気に入ってるしね」

あの後イタチは凶悪な犯罪を犯した罪人として里中の者から恐れられた。わたしはその彼の身近な恋人という立場から事件への関与を疑われ尋問が行われたが、結局何の情報も持ち合わせていないわたしは暫くして解放された。しかしその後もわたしは疑惑の目を向けられ続ける事についに居心地が悪くなり夕顔さんやカカシさん達の勧めで忍の仕事を休む事にした。わたしは忍でいればどんな形であれまたイタチに会えると心のどこかで思っていたから、前線を退く事は躊躇った。だが夕顔さんとカカシさんに「何の為にイタチが別れると言ったかわかる? 」「アイツは口数は少ないが口を開けばなまえちゃんの話ばっかりだったよ」と言われわたしは何と返せば良いのかわからなくなった。そんな都合の良い解釈をしていいものか。それでも、最後にこの世で一番幸せだったと言ったイタチの背中を思い出しては涙が流れた。彼はとても優しいのだ。それこそ恐ろしいくらいに。わたしは結局長期休暇という形で前線から身を引きつつ彼の好きだった、甘味処というこの場所で働き始めたのだ。
わたしはそれを掻い摘んでイタチに話すと、彼は困ったように笑った。

「なまえには、関わって欲しくなかったのだが…結果的には良かったのかもしれないな」
「どういう事?それにイタチこそ今はどうしてるのよ」
「やるべき事があってこの里へ戻った。サスケにもやらなければならない事がある…。俺は皆が言うような一族殺しの犯罪者で間違いない。此処でお前に会えたのは想定外だ」
「じゃあ…本当はもう会ってくれるつもりはなかったのね」
「ああ…」

わたしのことはもう愛していないのかと聞いてしまいたかった。でもそれが出来なかったのは彼の目を見たときにそれが野暮であるとわかったからだ。

「…貴方が何をしようとしているのかわからないけれど、もしかしたらこれが最後になるかもしれないから言っておく」
「……」
「わたしがあの時も、今もずっと、貴方を愛している事はどうか忘れないでいてくれる?」
「……ありがとう」
「うん。がんばってね」

彼が少し笑った気がした。気のせいかもしれない、でも確かにそう見えたのだ。
次第に辺りの景色が元の甘味処へと戻って行く。これが本当に最後の時間になるかもしれないと思ったわたしは必死に彼の姿を目に焼き付けた。

「なまえ」
「なあに」
「俺も、愛してる」

魔法が解けて行くように彼が消えた。元の景色に戻ったもののいつの間にかイタチも大柄の男も消えていて、目の前にあるのは団子と温かい茶だけだった。
彼は本当に言い逃げが得意なずるい人だ。