Re:スタート

 鼓膜が破れそうだと思った。この時期の蝉、時期といってもあの生き物は夏にしか見かけないが、兎にも角にもあの鳴き声は耳に優しくない。
 何年か前、バイクをメンテナンスするという父に付き合ったバイク屋さんで顔に飛んできてから私はあの生き物が大嫌いなのだ。私はそれ以来あのバイク屋さんに付き合うことをやめてしまって、父は酷く寂しそうにしてきたけど、嫌な思い出のあるところには近寄りたくない。
 
 でもバイク屋さんに行かなくなったところで、蝉が一切合切いなくなるわけではない。今だって昨日休んでしまった分のノートのコピーを取りに向かうコンビニまでの僅か5分。何匹もの生きた蝉と、抜け殻と、そして力尽きてしまっているように仰向けで転がる蝉を見掛けた。必要以上に遠回りをして歩くために徒歩5分の距離をもうかれこれ10分ほど歩いている。
 家にプリンターくらい置いてくれたらいいのに、そうぶすくれる私をお母さんは呆れた顔で見つめた。じゃあ休まない努力をしなさい、ほら暗くなる前に行っておいで、と言われてしまうと返す言葉は無い。ご尤もである。
 でも私だって好きで休んだわけじゃない、熱が出たからだし。夏風邪は馬鹿が引く、なんて誰が言ったんだか。
 
 
 夕方。もう日が暮れて地上への殺意に満ちた太陽もその形を潜めているというのに、じわじわと暑さが身を包む。制服のまま来てしまったからシャツに汗が染みて気持ちが悪くなってきた。コンビニはきっとエアコンが効いていて涼しいだろうから、早く行こう。
 そう思って動かしていた足の速度を上げた。蝉は相変わらず、どこで鳴いているのか、このコンクリートジャングルでも逞しく生きている。
 
 
「マイキー、今日どーすンだよ」
「どーって……いつも通りじゃん?バイク流そーぜ」
 
 
 バイクって流すものなんだ。前方から聞こえた声に感心する。初めて聞くような言い回しだった。父はバイクが好きだけれど、バイクの話はあまりしない。母がいい顔をしないから。それにしてもバイクかあ。ふ、と記憶に蘇るのはあの暑い日、蝉が私の顔にぶつかった、あのバイク屋。確か店長さん?なのか、若いお兄さんで少しカッコよかった。
 バイクに乗る人はみんなかっこいいのだろうか、そう淡い期待を込めてちろり、と視線を話し声のした前方へと動かして、すぐに逸らす。
 
 あの人たち知ってる。知っているというか聞いたことがある。金髪の辮髪、こめかみに龍の刺青。前髪を結んだ金髪の小柄な綺麗な顔の男の子。きっと、あの、みんなが騒いでいるトーマンだ。トーマンのソーチョー、無敵のマイキーと、フクソーチョーのドラケン。
 ここら辺の不良はほとんど、このトーマンに属していて、喧嘩上等、バイクは無免が当たり前と。
 特にこの2人は、ヤバい、と称される程喧嘩が強いらしい。マイキー、と呼ばれた方の彼なんて負けたことがない、とトーマンがどうの、と雄弁に語っていた隣の席の男子が言っていた。
 
 おそらくドラケン、くん、だと思われる彼はバイクを流す、と言ったマイキー、くん、に若干呆れたような声を漏らしつつも嬉しそうに笑っている。きっと口では否定しつつも、嬉しいのだろう。バイクを流すという行為か、それともマイキーくんのことか、私には分からないけれど。
 彼らは確か学区で言うと隣の中学校だったはず。私はどちらでも通えるような位置に家があって、特に理由もなく彼らとは違う学校に通っている。こんなにすぐの所で歩いているのだから、彼らの家もそんなにここからは離れてはいないのだろう。
 
 割りと近くに住んでいたんだ、明日友達に話そう。隣の中学校に通う有名人。彼等とこんなに近い距離で擦れ違い、さらに話す声を聞くことなんて、きっともう二度とない。
 目が合ってしまうといけないので、あまりジロジロと見すぎないように私はそっと彼らへ視線を戻す。ふたりとも不良だと言うのにとても綺麗な顔をしていた。特に、マイキーくんなんて日本人らしからぬ肌の白さで、アイドルみたいな可愛らしい顔立ちをしている。
 
 住む世界が違うんだ。なんとなくそう思った。私と彼ら、とではそもそも住む世界が違う。見えているものも見たいものも、欲しいものも何もかもが違うのだろう。
 パラレルワールドみたいなものだ。同じような世界で息をしているけれど、私たちの世界は交わったりしない。
 自分でそう思ったのに、なぜだか、少しだけ寂しく感じる。きりきりと、心臓の奥が痛んだ。なんでだろう。わからない。首を傾げつつ私は前へ前へと歩みを進める。
 
 
 彼らとすれ違う瞬間、バチリ、と何かが音を立てた。
 
 
 

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