暇つぶしの始まり
人生は死ぬまでの暇つぶしだという人がたまにいるけれど、もしそうなのだとしたらどうして苦しいことばかり訪れる人と、なんだかんだ誰かに救ってもらえる人がいるんだろう。何が違うのだろう。振り下ろされる拳をぼんやりと濁る視界に捉えながら考えたけど、答えは出なかった。
神様、もしもいるなら答えてください。前世の私ってそんなに悪い奴でしたか。動かすたびに痛みを訴える腕で包丁を握りながら問い掛ける。もちろん答えなんてない。私の背後で機嫌良さそうにお酒を煽って、テレビを見ている男にこの包丁を振り翳して、何度も何度も背中に突き刺せば、私はこの狭い家から出ていくことができるだろうか。そんな下卑たことばかり考えていると、男が、まだか、と大きな声をあげる。びくりと肩が鳴ると軋むように痛む背中。必死に押し殺して口元に笑みを貼り付けて、私は振り返った。
「ごめんなさい、お父さん。すぐに用意するね」
その男を父と呼べ、と言ったお母さんは男の酒癖の悪さと振るわれる暴力に辟易したようですぐに新しい若い男を、父がいない間に連れ込むようになった。その間私は狭い押し入れに押し込められて、声を出してはいけない、息を殺して、いないもののように振る舞いなさい、と何度も何度も言われた。まだ幼かった私にとってお母さんはたったひとりの神様だったから、私は何度も何度も首を縦に動かし、押し入れの中で必死に自分の口と鼻を手で抑えて息を殺したものだ。
お母さんにとって、どっちが火遊びだったのだろう。それはもう今となってはわからない。母が若い男を連れ込んでいるのは暫くすると父に知られて、お母さんは酷く殴られた。ごめんなさい、もうしない、もうしない、と泣きながら繰り返すボロボロの女は、私の知っているお母さんではなかった。ボロボロで情けなくて汚い、まるで使い古された雑巾。真っ直ぐに見つめることに耐えかねて目を逸らした私に、母がどんな顔をしたのかももう覚えていない。
最後、お母さんは当時の私も入れられるような大きな大きなボストンバッグに自分の洋服を詰め込んでいた。元々お金がたくさんあるような家ではなかったから、お母さんの服なんてその半分にも満たなくて、あと残りのスペースになにを入れるのだろうと見守った。するとお母さんはそんな私を見て、涙をひとつ流した。目の周りが青く腫れているのは昨日も父に殴られていたのだろう。かわいそう、と呟いてそこに触れると、その手をお母さんの手が撫でた。
「お母さんね、かわいそうだから、旅行に行って楽しむことにしたの」
「……そっか」
「ナマエのことは、連れて行けないの。まだ、こどもだから」
それがお母さんがついた嘘だということに私は気付いていた。ごめんね、と何度も動く口は端が切れていて瘡蓋になろうとしている。そこに手を触れたら痛むだろうか。痛いことをすれば、お母さんは私を叱るのだろうか。叱られたいわけでもないのに、なぜか困らせたくて、そこに触れるとお母さんはただ私を抱きしめて泣いた。幸せになってね、大好きよ。そう言ってお母さんはほぼすっからかんのそのバッグを持って出ていく。
ねぇ、大好きなら、私のこともそのバッグに入れて連れて行ってよ。ねぇ、大好きなんでしょう。ねぇ、ここに、幸せがあるなんて、本当に思っているの。
きっと今、私がその人に会ったなら、そう尋ねる。でも、あの人がここに近寄るはずなんてないのだ。だってここには、この男がいるから。
今日も私はこの男に殴られ蹴られ、それでもこの男にご飯の用意をして、この男が不便を感じないように世話をする。それが、この男の元に残された私が唯一生き残る道だった。
その人との出会いは偶然だった。学校にも行けず、どこにいくことも許されず。唯一行くのは家から歩いて10分のところにある老人が営むコンビニのようなスーパーのようなお店だけ。もう目の不自由な老人には私なんて見えていないから、そこで買い物をしろ、と言われているからだ。だから、その日は本当にたまたまだった。
パチンコに勝ったんだ、お前にもやるよ、ともう既に外でお酒を飲んで帰ってきたその男は随分と機嫌が良さそうに私にお札を何枚か握らせる。距離はいくらかあったのに、鼻につくアルコールの匂いに顔を歪めても、臭いのか、オマエは本当に可愛くねぇなと笑うだけだったので相当酔いが回っているようだった。きっと私にお金を渡したこともすぐに忘れるだろう。
極たまにこういうことはあるのだ。それがその日だった。男は機嫌良さそうに缶チューハイのプルタブを開けると、服でも買ってこいよと笑う。本当に、外に出ていいの、と聞くと行け行け、と手を払われ雑に家の鍵を投げられた。急いでそれを拾い上げて、私は男の気が変わらない内に家を飛び出す。きっとあの様子だと何本か飲んで、そのまま眠るはずだ。きっと目を覚ますのは明日の昼頃。まだ時刻は夕方で、私は久しぶりの外出に心を躍らせた。
だけど本当に前世の私はどんな悪さをしたのだろう。きっと神様を殺そうとしたのかもしれない。電車の人混みに押されるように降り立った六本木ですぐに柄の悪い人たちに囲まれ、汚い女、なんにもする気にならない、どうするんだ、有り金出せよ、と脅された。家でも外でも、やっぱり私は誰かにそうされる運命。そういう星の元に生まれたに違いない。悲しくなるが、ポケットに入っているなけなしのお金に手を伸ばす。元々私のお金ですらないから、全く惜しくはない。なんならそれを渡すことで殴られない未来があるのなら、家より幾分かマシ。私の前に立つ男がニヤニヤと私の掌に乗ったお金に手を伸ばした瞬間、間延びした声がその空間を切り裂いた。
「楽しそうなことやってんじゃん。オレも混ぜてくれよー」
「は、灰谷、蘭……」
綺麗な金髪を三つ編みにした、男の子。灰谷蘭。私は彼とそこで出会った。彼はどうやらその男達に恐れられているようだった。灰谷蘭が楽しそうに笑いながら私と男を横から見つめる。ふーん、女からも強請ってんだ。ダセェーなぁ、と笑う声、その鋭さに強請られている私の方が恐ろしくなり手が震えた。すると目の前の男が真横に吹っ飛んでいく。私の目の前に残ったのは、灰谷蘭の握った拳だけ。殴ったんだ、と理解できた頃には、もう灰谷蘭は他の男を伸していた。あっという間に男たちを片付けた灰谷蘭は、ごそごそと彼等の懐を漁り、ラッキー、と笑う。よく笑う人だなぁ、と思った。灰谷蘭は彼等の財布から紙幣だけを抜き取って自分のポケットへと突っ込むと、ふと気が付いたように私を振り返る。
「女、殴る趣味はあんまりねぇんだよなぁ……」
「あ、はい」
「はいってなんだよ。オマエ、なにその汚ねぇカッコ。よくココにきたなぁ」
灰谷蘭は上から下まで私を見つめて、眉を歪めた。彼と出会って恐らく15分程経ったけど、初めて笑う以外の顔を見たような。私は改めて自分の格好を見下ろす。着古したボロボロのパーカー、ボロボロのジーンズ。同じくボロボロのスニーカー。確かに降り立ったとき、妙な視線を感じたような。そういえば服を買えと言われてもいたことを思い出して、あぁ、と思い出したような息が漏れる。
灰谷蘭はそんな私を見下ろすと、ポケットに突っ込んだ手を取り出して私の手を引いた。機嫌がいいから、俺が選んでやるよ、と楽しそうに話すので私は、首を傾げながらも頷いた、きっと、彼がいればさっきみたいに絡まれることもないだろうし、とただそれだけだった。
灰谷蘭はその髪型からもセンスが伺えるように私と服を見比べてこれじゃねーな、と吟味していく。元々そういうことが好きなのかも知れないな。そう他人事のように思いながら彼が手に持っては雑にハンガーを戻す、という工程を繰り返すのをただ見つめた。
彼は途中から面倒になったようで、結局は1枚で着ることのできるワンピースを何枚か手に取ると私に押し付ける。これで買ってこいよ、と機嫌が良さそうに笑いさっき手に入れたお金を渡してくれた。それは、そもそもあなたや私のお金ではないと思ったのでやんわりと首を横に振ったけれど、オマエの手持ちじゃ買えねーだろ、と灰谷蘭は眉根を寄せる。機嫌がジェットコースターのように上下する人だな、と失礼ながらに思った。
彼の機嫌を損ねればなにをされるかも分からないし、このお店は駅からどの程度離れているのかも分からない。ただ彼の背中を追っていただけのさっきまでの自分の浅はかさを呪いつつ、私は自分でも分かるほどのヘラヘラとした笑みを貼り付けてありがとうございます、と頭を下げた。
思ったよりも大きな紙袋を抱えてお店を後にすると、彼はまだ煌々と明るい街並みを眺めてボソリと、腹減ったなぁと呟く。随分大きく独り言を言う人なんだなぁと横目で彼の様子を伺うと、聞いてんのか、とその女性と見紛うような端正な顔で睨まれた。ああ、同意を求められていたのか。あの人以外の人とこんな風に言葉を交わすことは、本当に久しぶりだったので私は灰谷蘭との距離をこの2時間程測りかねている。
そうですね、お腹空きました。私がそう言うと、灰谷蘭はまた機嫌が良くなったみたいで着いてこい、と笑った。ずっとそうして笑ってくれていたらいいのに。なぜかそう思って、私も笑顔を貼り付けた。
灰谷蘭が私を連れてドアを潜ったのは、みんな綺麗な服を着て、テレビの向こう側でしか見たことのないようなグラスを傾けているお店だった。絶対に灰谷蘭よりもずっと大人に見える店員さんは、彼が来たことを知ると私たちに駆け寄ってきてすぐに奥の席へ通してくれる。分厚いカーテンで覆われた空間にふかふかのソファは落ち着かなくて、私はキョロキョロと視線を彷徨わせた。英語なのか、はたまた違う国の言語なのか。よく分からない筆記体のような文字を眺めていると、軽い力で頭を叩かれる。突然のことに思わず、前に座る灰谷蘭へ視線を向けるとやはり機嫌の良さそうな彼がん、と私にメニューらしき冊子を差し出した。私はそれを、ありがとうございます、と受け取って眺めるけれど全然聞いたことのない言葉ばかりがカタカナで並んでいて首を傾げてしまう。
ふ、と目に入ったボロネーゼ、という文字の下に添えられた自家製ミートソースという言葉と、その上にパスタという単語を組み合わせてやっと知っている料理が頭に浮かんだ。これにします、と私の人差し指が示したものを視線だけで追った灰谷蘭が、カーテンの向こう側へおい、と低い声を出す。
彼は私の指したボロネーゼとあと何品か、私にはよく分からなかった料理を頼んでくれた。そして最後に私をチラリと見て、飲み物は、と聞いてくる。左側に寄せられているお洒落な形のグラスに入れられた水を見つめてから、大丈夫です、と答えると彼は手だけで店員さんを下がらせた。
料理が届くまで私たちはずっと無言で、灰谷蘭はポケットから取り出した携帯電話をカチカチと弄っている。私はそんな風に何かをすることも出来ず、隣に置いた紙袋とよく分からない音楽が流れてくるスピーカーの細かい穴を交互に見つめた。異様に喉が渇いて、料理が届く頃には私のグラスはすっからかんになってしまって、それを見た灰谷蘭はようやく口を開き、飲みすぎじゃね、と笑う。へへ、と気持ち悪い取り繕うような笑い声を私が洩らすと、灰谷蘭は笑顔を消して、手に持っていた携帯電話をソファへ投げ出した。
「オマエキモい笑い方するよなぁ」
「す、すいません」
「まぁ、オレには関係ねーけど。オマエ、オレのこと知らねーってことはここらへんのヤツじゃねーよなぁ」
「あ、えっと、今日は……たまたま」
「ふーん。次はいつ来んの?」
「わ、わかりません……」
自分のことなのに分からない、と答えた私に灰谷蘭は、首を傾げる。自分のことだろ、と呆れたように言われて、私は今日が本当にたまたまだと言うことを話した。父と呼ばなければいけないその人が、そういう人なのだと話した時、灰谷蘭は殺しちゃえばいいじゃん、と楽しそうに言ったので、私はそれを想像して、そして首を横に振る。私を捨てることも出来たのに、それをしなかった人だ。殺せない。ここまで育ててもらった義理があります、と答えた私に、灰谷蘭は興味を失ったようで前に置かれているポテトに視線を移す。それきり、会話はなかった。
灰谷蘭は、意外にもお店を出たら駅まで送ってくれた。意外と、と言うほど彼を知っているわけではないけど、少なくともこの時間の中で私は彼からの興味関心を惹いて、そして呆れられた筈である。そして彼の言動から、灰谷蘭という人は恐らくとんでもないマイペースで、そして気紛れな猫のような人なのだと私は思った。なので、呆れられた私へ最後まで無償の施しをしてくれることが、とても意外だったのだ。
「ありがとう、ございました」
「……ん」
ぺこり、と頭を下げた私に短く返事をして、灰谷蘭はすぐに踵を返した。時刻はもう日付を越えようとしている。まだ走っている電車に感謝をしながら、私はゆったりと歩いていく彼の後ろ姿を見つめていた。すると、思いついたように振り返った灰谷蘭は大股でこちらに向かって戻ってくる。なんだろう、と首を傾げるとポケットから千円札を出して私が肩に下げていた紙袋へ突っ込んだ。そして携帯電話を操作して私に画面を突き出す。私の目に映し出された、灰谷蘭の文字と11桁の数字の羅列。
「よーく目凝らして覚えて帰れー?」
「えっと……」
「オレの番号。どうせオマエ、ケータイなんて持ってねーんだろ」
「そう、ですけど……なんで?」
今日、オレが拾ったからオマエはオレのじゃん。そう言って灰谷蘭は私の頭に手を置いた。イヌとか飼ってみたかったんだよなー、と間延びした声で言うので、首を傾げてしまう。その理論で言えば、私を家に連れ帰るまでがセットなのでは、と思ったけれど、彼がそう言うのならそうだろう。私は無理矢理自分を納得させて、表示されている11桁の番号を頭に刻み込む。忘れないように、忘れないように。もう六本木なんて来ることはないだろうけど、何故かこの奇跡みたいな出会いをなくしてはいけない、そう思った。
灰谷蘭は食い入るように画面を見つめる私を満足そうに見つめると、困ったらその千円使ってオレにどうにか連絡しろよ、とこれまた楽しそうに笑う。私は何度も何度も頷いて、最後に彼を見上げた。
「そうだ、名前教えろ。電話だけされてもわかんねーから」
「えっと……ナマエです。ミョウジナマエ」
ナマエチャンな、と彼は繰り返し、オレのことは蘭でいいからなー、と囁いて今度こそ踵を返した。彼は満足したのか、もう振り返ることはなく夜の街へと溶け込んでいく。
これが、私と灰谷蘭の長い付き合いの最初の1日目だった。