神様を探すだけの簡単な仕事
あの夜の奇跡みたいな出会いは私を支えてくれている。外には、圧倒的な暴力性を持っていても私を助けてくれる人がいるのだと。あの日大きなバッグと共にいなくなった神様の代わりに、私に舞い降りてくれた天使のような人。天使と比喩するには彼の暴力はあまりにも酷く恐ろしいものだったけれど、あの人のような美しい人に屠られるのなら、それもいいのかも知れない。そう、私は思っていた。
あまりにも大きな紙袋は帰宅してすぐにゴミ袋に詰め込んで、証拠隠滅を図った。父はゴミなんて逐一確認するような真っ当な人間ではないのでバレることはなく、私は着て出かけるところもない綺麗なワンピースを見てはあの夜を思い出す。そしてあの日に手に入れたものは全て父が絶対に触らないとわかっているところに入れるのだ。母が置いていった木製のチェスト。
まるでそれに触れればそこから死んでしまうのかと思うほどに父はそこに触れないし、近寄りもしない。だからと言って捨てろ、その言葉すら言わない。
使ってもいいのかと問うことさえ許されないような雰囲気だったので敢えてそれを聞くことはしなかった。だからこうして父が仕事に向かっている日中の間だけ、私はここの前にずっと座る。あの日灰谷蘭が選んだワンピースを見て、そして自分で書いた走り書きの彼の携帯番号のメモと小さく折り畳んだお札を見て今日も生きていることに感謝するのだ。
母という神様がいなくなった私の、たった1人の神様のような人。
夜、味噌汁を混ぜる手が不意に止まった。父がつけたテレビから六本木、未成年、傷害致死という単語を私の耳が拾い上げる。父は今、私が洗い上げた風呂に入って上機嫌なのか、ピッタリと閉めた扉からも漏れるような音量の鼻歌が聞こえた。
カチリ、とガスコンロの火を止めて私はテレビへと近寄る。ローテーブルの上に乱雑に放置されていたリモコンを手に取って、音量を上げた。六本木で、暴走族と思われる集団の喧嘩があったらしい。死亡者が1人。恐らく顔面への殴打により意識不明の重体で救急搬送、程なくして命を落とした。主犯格である2名の未成年、兄弟を警察が関係者として捕まえたとアナウンサーの綺麗な女性が淡々と告げる。
痛ましい事件だと発言を求められたよく分からないおじさんが言うのを私は聞いて、何故かその2人のうちの1人が灰谷蘭なのではないかと考えた。彼のことは何も知らない。知っているのはあの夜に垣間見た彼の圧倒的な力と容赦なく振り下ろされた拳だけ。
弟がいたような話をしていないし、テレビでは未成年の少年と言われているだけで彼の名前も写真も何も出ていないのに、私は、それが灰谷蘭なのではと、どこか確信さえも持っていた。
ガチャ、と大きな音を立てて父が今のドアを開ける。飯は、と短く聞かれて不自然さを感じさせないように軽くローテーブルの上を整理した。出来てるよ、と笑顔を貼り付けて振り返ると父は満足そうに笑う。そのまま台所の冷蔵庫へ向かって発泡酒の缶を手に取ると、オマエは良い子だなぁ、と下品な顔で私を上から下まで見つめた。その舐め回すような視線が気持ち悪くて、私は逃げるように皿を並べる。
父とは、血が繋がっていない。戸籍上のみでの家族で、私はこの人のことを何も知らないのだ。誕生日も血液型も。仕事すら、作業着を着用する仕事ということだけしか知らない。機嫌が悪くても良くても浴びるように酒を飲み、気に食わなければ私を殴って、そして眠る。果たしてそれは、家族なのか。
この人が万が一、外で交通事故や何かの事件に巻き込まれて、死ぬかもしれないその時、私はそこに呼ばれる。私は、この人を助けるのか。
そこまで考えて、母のチェストにしまった彼の番号を思い返す。家の近くのコンビニともスーパーとも言えないお店の隣には、古臭い電話ボックスがあるけれど、私は灰谷蘭の無事を確かめるためにそこに向かうことすらもできない。
きっと恐ろしいのだ。彼ですら、罰せられるということを思い知るのが。
ある夜、突然髪を切られた。鬱陶しいと言って腰まで伸びた髪は結んでいた部分で力任せに握られる。そこに丁度よく目の前にあった台所用の鋏を入れて容赦なく切り落とした父は、きっと虫の居所が悪かったのだ。バラバラと散らばった私の髪の毛を床に落とすと、フンと鼻を鳴らし掃除しとけよ、と寝室に向かう。布団を広げるような音がしたことを確認してから、私は立ち上がって洗面台に向き直った。鏡に向き直ると記憶の底に根付いて無くならない母親の顔と、瓜二つな顔が映る。
今から半年前、家に警察が来た。灰谷蘭だと思っている未成年の逮捕から1年半が経った頃だった。長く続く雨に仕事がない苛立ちから毎日のように暴力を振るわれていた。日中は生活を食いつなぐための日雇いの仕事で留守にしていたけれど、夜は毎日毎日サンドバッグ状態。オマエさえ、と血走った目で睨みつけたあの顔は、今でもたまに夢に見る。
きっと夜な夜な鳴り響く殴打の音に耐えかねた近所の人が警察に連絡をしたようで、顔にアザがあるのを不審がられてから、父は目立つ場所に跡を残すようなことをしなくなった。
歳を重ねるほど記憶に残っている母にどんどん近づいていく顔の造形。痣のない顔は、出会った頃の母を父に思い出させたのだろう。若く、きっと父の目には美しく写った母親を。
だから母から受け継いだ顔に、同じく伸ばした髪が気に食わなかったのかも知れない。父は、思っているよりもずっと、母に出ていかれたことに腹を立ててるんだろう。
鏡に映る自分はいつも通り仏頂面で可愛さの欠けらも無い。ちょうど肩につくかつかないかの長さで切られた毛先を摘んで、やはり思い出すのはあの金色だった。彼は今どこにいるのだろう。何故か、会いたくなった。
灰谷蘭は、今も金色で長く美しい髪をしているのだろうか。彼ならきっとこの散切り頭を、ひっでーアタマと笑ってくれるはずだろう。もしも、あの綺麗な笑顔で笑ってくれたなら、この陰鬱な気持ちも、少しは救われるのかもしれない。
散らばった自分の一部だった髪の毛を掃除しながら、父がすっかり寝静まったことを確認する。わざと大きめな音を立てても止まない鼾に安堵の息を吐いた。髪も爪も自分の一部として存在するときはなんとも思わないのに、切り落とされると途端にその普遍さを失うのは何故なんだろう。自分の髪の毛だったそれは、なんだかとても気味が悪い。さっさと纏めてゴミ箱に捨てた。するともうキャパオーバーをしているゴミ箱の蓋から見え隠れするソレが、まだ私に未練があるのだと訴えるように食み出す。気持ちが悪い。
私はわざと大きな音を立ててゴミ箱から袋を外す。それから父の寝ている部屋の扉に向かって、ごみ捨てに行きます、と声を掛けた。部屋の中からは変わらずウンザリするほどの鼾が響く。もう父は、とっくに夢の世界の住人のようだった。
なんだか、今日は、灰谷蘭に会いたい。そんな気持ちで私は家を飛び出した。