誰かに愛されたかった人
私にとって灰谷兄弟と言えば、兄の蘭が一番最初に思い浮かぶ。これが決めてという理由も、確信を持って言えるようなことも特にない。ただ私は灰谷兄弟についてなにか語れるほど兄弟のあれやこれを知らない。中学で出会い、それからなんとなく交流のある蘭の更にその中の一部しか知らないからだ。
中学校に入学したての頃、未だ灰谷蘭という男の底知れない暴虐性について知らなかった生徒指導の教師に私は自分の頭髪と制服のスカートについてくどくどと八つ当たりにも似た文句を聞かされてうんざりしていた。そこに通り掛かったのが、当時入学したばかりの灰谷蘭だった。彼は特に目を引くような容姿とどこか掴めない雰囲気で、歩けばモーセの海割りの如く人が道を譲る。ざわついていた廊下が、静まり返ったことに訝しげな顔をして振り返ったその教師は、すぐに灰谷蘭を呼び止めた。おい、そこ、1年だろう、聞いてるか、オマエだ、金髪の三つ編み。誰が聞いても失礼だとわかるような言葉は、きっと灰谷蘭にとってもそうだったに違いない。のんびりと進めていた足を止めてゆっくりと振り返った灰谷蘭の顔は笑っていた。そして、こちらに迷いなく向かってくると自分よりも一回りほど大きなその教師を予告無く殴り付ける。バキ、だの、ズン、だのと凡そ人を殴り付けるような音では無い音を聞きながら私はただ灰谷蘭を見つめた。
「オマエ、なにじーっと見てンの?」
「え、あー……なんか、圧巻だなあって。凄いね、キミ。喧嘩強い。あっという間」
「……キモい。変なオンナだってよく言われねぇ?」
「言われないけど。ねえ名前なんていうの?トモダチになろーよ」
彼の陶器のような肌に教師の鼻から飛び出した返り血がついてるのが勿体なかった。ただそれをじーっと見ていると灰谷蘭は呆れたように私に話し掛ける。私が並べた小学生の感想文みたいな稚拙な言葉に灰谷蘭は笑って、それから、自分は灰谷蘭だと名乗った。そして、蘭と呼べと言う。
私は異性を名前で呼び捨てにする、という習慣があまりなかったのでそれに首を傾げ、どうしてかと聞いた。すると彼は自分には年子の弟がいる、区別がつかないからだと事も無げに私に答える。私はその言葉で彼には弟がいて、それが一個下なのだということを知った。
残念ながら弟の方は見たこともなければ特に話を聞くわけでもなかったので興味をそそられることも無く、私は灰谷蘭の数少ない普通の友人として2年ほど時を過したのだ。
まあそのうち1年程の期間、蘭は少年院、所謂ネンショーに入っていたのでほぼほぼ顔を合わせることはなかった。
中学1年の時でさえも気紛れな猫のように時々ふらりと学校に立ち寄っては、まずい給食を摘んで、よくこんなモン食えるよなァと私を笑って帰っていく。その繰り返しで、蘭が帰った後の教室は騒ついた。なんで来たのだとか、何を考えてるか分からないだとか、あんなんでも卒業出来るのかなだとか。本人を前にすれば途端に口を噤む癖に、人と言うのは本当に他人の、取り分け目立つ人の話をしたがる。
いつだって噂の中心にいた蘭は、ある時を境にぱったりと姿を見せなくなった。本当に音もなく突然に。メールをしてみたけれどそれが返ってくることもなく、まぁ元々学校に来ている人でもなかったので心配をする人なんて同級生は疎か、教師にもいなかったのだろう。灰谷蘭という人はいつの間にか、都市伝説のような希少価値の高い噂の中で生きる人になった。
そしてそのメールは約1年の時を経て返ってきたのだ。
今どこ。たったそれだけの言葉に思わず、イヤイヤ、こっちのセリフ、と呟いてしまった。数秒の間固まった後、蘭は今どこ、と聞くとメールめんどくさい、と返ってきたので私は電話帳から灰谷蘭を探し出して電話を掛ける。どこまでも他力本願だな、と少し呆れたけれど彼の近況が気になっていた私にも電話の方が有り難かった。
話を聞けば、どうやら彼は学校に来なくなった頃、とある暴走族のソーチョーだかフクソーチョーだかを殴って死なせてしまったらしい。力加減を間違えたのかと聞くと珍しく爆笑を頂けた。だから捕まって今の今までネンショーにいたのだと言う。ネンショーってなに、と聞くと少年院、ンなコト、テメェで調べろと厳しい言葉を喰らった。んで、今家なンだケド、食えるモノなーんにもねェワケ、と続けるので、私のお小遣いで買えるものにして、と苦笑しつつも了承すると蘭は笑った。なんでもイーヨ。そう言うので、先日家庭科の授業で作ったシチューにするかと聞くと、任せると答えられた。
そして私は初めて灰谷家に足を踏み入れたのだ。今考えれば年頃の男の子の家に同じく年頃の女の子が遊びに行くなんて、ご飯を作りに行くなんて、傍目から見れば不健全だし、きっと甘酸っぱい初恋ごっこに見えただろう。だけれど私と蘭にそんな綿菓子を口の中で溶かすような感情は全くない。敷居の高いマンションの重たい扉から現れた蘭は、記憶の中の姿とは大きく異なっていて、随分と短くなった髪に笑ってしまった。
慣れない手つきをカウンターから覗き込む蘭は、私を不器用だと笑う。家庭科の成績は悪かっただろう、と言うので5段階評価の5を貰ったことを話すとまた笑った。蘭は学校に来てないから留年するのかな、と冗談ぽく話すと、そしたらリンドウと同じ学年だな、と返答が返ってきて首を傾げる。リンドウって人がいるのかと聞くと、弟だと簡単に答えられた。そうか、弟なんだ。特に疑問は抱かなかった。そういえばそんなことを言っていたような。そうか、年子か、そしたらお兄ちゃんか、とか蘭に関することは思い浮かんだけれど、弟に対してなにか思うことは多分、その時はなかった。
「蘭の親は花が好きなの?」
「知らねェケド。なんで?」
「蘭と……リンドー?リンドウって花だよね?」
「……今度、覚えてたら聞いとくワ」
多分その今度は、ないのだろう。漠然とそんなことを思った。蘭は先程電話口で、自分は今までネンショーにいたのだとそう言っていた。きっと、親なら、私の知っている親なら、そんな時に手の込んだ、その中でも蘭やその弟の好きな食べ物を山ほど用意して待っている。でも、それがないというのは、きっとそういうことなのだろう。歪な形のジャガイモとニンジンの角が柔らかくなって丸くなってきたのを確認して、私はレトルトのルーを鍋に投げ込んだ。
もう出来るのか、と聞かれて私は頷く。私の家ではシチューのときはパンを焼くけど、蘭はどうする、と聞くとじゃあパン、と答えが返ってきた。きっと蘭のことを大好きで仕方の無い女の子ならここで簡単なパンでも焼くのかもしれないけれど、私はただの飯炊きとして呼ばれたに過ぎないのでレジ袋からいつも食卓に並ぶ市販の食パンを取り出す。蘭はいつも給食をつまむだけだから、彼がどの程度ものを食べるのか分からないので一応1斤分を買ってきたけれどどうしたものか。トースターも目で探す限りは見つからなくて、私はカウンターに凭れているであろう蘭を振り返った。
でもそこに蘭はいなくてバルコニーに繋がる大きな窓だけが私の目に映る。どこに行ったんだろう、そう思って顔だけをキッチンから覗かせると蘭はある部屋をノックもせずに開け放った。リンドー、と間延びした声で先程聞いたばかりの弟の名前を呼ぶ。今日弟もいたのか。気配を微塵も感じなかったので少し驚いたが、いや、灰谷家なのだから弟がいることも当然だろうと思ってその考えを打ち消す。
部屋からのっそりと現れたのは今の蘭と同じく随分短い髪の毛、蘭の少し下がり気味の眉とは正反対に上がった眉毛、それでも蘭と兄弟であることが一目瞭然であるほどその面影を持った男の子だった。大人びている蘭とは違い、まだ少し幼さを残しているのが1年という差なのだろうか。私も蘭と同じ歳であるけれども、蘭はそれより歳上だと言われても多分疑わないほどであるのでこの場合、弟の彼は歳相応なのかもしれない。
蘭は部屋から出てきた弟に、メシ、と短く告げるとこちらに戻ってくる。顔を覗かせている私に、あぁ、と今思い出したかのように声を出してくい、と親指で弟を指差し、コレ、弟、リンドウ、と端的に紹介をした。蘭の言葉の後に首だけを動かして会釈をしたリンドウくんにつられて私も首を軽く動かすと、パキ、と乾いた骨の音が鳴って思わずそこを抑える。
ごめんね、と言ってから私も名乗るとリンドウくんは少し笑った。それに少し安心して、私は戻ってきた蘭にトースターは無いのかと聞くとない、とだけ答えられる。困った。
結局焼かずにお皿に乗せただけのパンと歪な形の野菜が入ったシチューを蘭は1杯、リンドウくんは2杯食べてくれた。その間蘭はネンショーであった色んなことをつらつらと話す。初めに切られた髪の毛のこと。蘭は、髪の毛を切った人の顔を覚えているらしく、次に会った時はその人の髪を全部引き抜いてやるんだと楽しそうに笑うので、痛そうだね、と笑った。
学校には多分もう行かないらしい。面倒臭いと、美容院の予約をいつにするかとカレンダーを見つめて蘭は言った。リンドウくんは変わらずに中々割れない人参をスプーンで弄っている。
「そっか。じゃあ中卒?」
「んー……知らねー。でもオマエに中卒って言われンのムカつくなァ」
「アハハ。ネタにはするかも」
蘭は私の頭を軽い力で小突くと、片付けヨロシクと言ってフラフラ歩いていった。どこに行くのだろう、とその背中を目で追うと漸くニンジンを食べたリンドウくんが、風呂とだけ呟く。あぁ、そういうことか。私が納得して空になった蘭のお皿とリンドウくんのお皿を重ねて立ち上がるとリンドウくんが私の背中について追いかけて来る。
まるで小さい子がお母さんのあとを追うような感じで私は落ち着かないけど、やめて欲しいとも言えないので我慢した。テレビの音は聞こえるけれど、今まで蘭とだけ話していたので急に沈黙が苦しくなる。私はその重苦しさに耐えかねて、コレ使ってもいいの?とスポンジと洗剤を指さした。ウン、と隣で頷くリンドウくん。
蘭と似ているのに、きっと中身は全く違うのだろう。さっきから手が上がったり下がったりしているのは、きっと手伝った方がいいと思ってのことだ。
「リンドウくんも、ネンショー?出たばっかりで疲れてるんでしょ?私これ片付けて帰るからゆっくりしてていいんだよ」
「……アンタ、兄ちゃんのカノジョ?」
「蘭?まっさかー、有り得ないよ。私蘭みたいな変わってる人と付き合えないもん」
「フーン……」
リンドウくんは彷徨っていた手をスウェットパンツのポケットにしまう。そして、兄ちゃんが家に連れてくるの初めてなんだと、話し始めた。トモダチとか作らない人で、と言うので私は確かになあと言葉にはせず心の中で彼に同意をする。なるほどだからカノジョだと思ったのか。実に単純で分かりやすい。自分だけの価値観で生きているであろう蘭より、この子の方がどちらかと言うと普通に近い感性なんだろうなあと私は考える。
「リンドウくん?はさ……蘭のこと嫌い?」
「……嫌いじゃ、ねェけど……ニガテ。寝起きの兄ちゃん、ヤベェし」
いつもいいとこ持ってくし。リンドウくんは続ける。寝起きが悪いのは知らなかったなあ、私がそう言うとリンドウくんは少し嬉しそうに目を輝かせて、この間なんか、と嬉々として話し始めた。私はカチャカチャと忙しなく動かしていた手を、わざとゆっくり丁寧に動かすようにして彼の話に耳を傾ける。まだ声変わりし始めなのか、所々掠れる声に少しだけ、愛おしさを感じた。
それから私は細々と蘭と関わりを続けた。結局高校は通ってるんだか分からなかったけれど、蘭は私の通う高校までふらりと現れては制服が似合わないだの、新しく出来たカレシを捕まえてはシュミが悪いだの、小言を言う。
その代わり自分が経験した色々なことを話してはまたメシを作りに来いよと締め括る。ついこの間は最近渋谷あたりを騒がせているチームの抗争を見に行ったらしい。死人が1人出てたな、とまるで道に石が落ちてたことを言うような口振りで言うので私は面食らった。
蘭の周りではよく人が死ぬね、と言うと肩を殴られる。どうやらこれはお気に召さなかったらしい。別にわざわざ機嫌をとる必要はないので私は痛いよ、と抗議をする。蘭は何も言わない。ただ、帰るという選択にはならなかったようで私の家までの道を黙々と進んでいく。
その背中に、弟は元気なの、と聞くと元気だよとだけ返事をされた。私の記憶にいるのは、まだ幼さを残した人懐っこい弟くん。蘭の髪の毛はとても伸びたので、きっと弟くんの髪の毛も伸びているだろう。どんな髪型なんだろうな、そんなことを考えながら私は蘭の背中を追いかけた。