離さないから離れないでとか
オマエら、ママゴトでもしてんの?蘭は寝起きの開口一番不機嫌そうにそう言い放った。竜胆の言っていた通り、蘭は本当に寝起きが悪いらしい。今日はまだ機嫌がいい方で、この間なんて起きて一番洗面所にいた竜胆の臀部を蹴り飛ばし、邪魔だと言い放っていた。
ママゴト、ままごと、飯事。頭の中の辞書を引きながら、私は起きてきたばかりの蘭に自分用にと淹れたコーヒーを譲る。熱いだの、濃いだのと文句を言っているのは無視をした。
「ママゴトって?」
「そのまんま。ガキの恋愛でもねェんだから、なにチンタラやってんだよってコト」
「……蘭、変態。いつも聞き耳立ててるの?」
立ててねェ。蘭は不機嫌そうに呟く。じゃあなんで分かるんだ、そう聞きたかったけれどこれ以上は私も蹴られてしまいそうなので止めておいた。だけれど、確かに蘭の言うことは正しい。この灰谷家に住み始めて早いもので、もう3ヶ月の月日が経ったけれど私と竜胆は未だに同じベッドに入ったことが無い。
竜胆がこれまで使っていたベッドを私が使い、竜胆は床に布団を敷き、そこに体を横たえる。別に、ベッドが狭いだとかそんな理由は無い。ダブルベッドであろう黒い寝具で整えられたそこは私がひとりで眠るにはいくらなんでも広過ぎるし、竜胆くらいならきっと入っても大丈夫だ。私も竜胆も寝相が悪い方ではないので、そういうことが邪魔をしている訳では無い。
あの布団は元々オレのなんだよ、早く返せ。蘭はそう言った。そういうことか。納得はしたけれど、あの灰谷蘭が布団を使っている、その事実が私には面白すぎて噴き出してしまう。目敏い蘭はそれに気付いてテーブルに放置されていた紙ナプキンを丸めるとそれを私に投げつけた。
その布団、蘭のなんでしょ。さあこれから寝ようと2人で別々の布団に潜り込んだ時、意を決してこちらに背を向ける竜胆に言葉を投げかけた。竜胆は大きな背中を揺らして私を振り返る。その顔はとても罰が悪そうで、申し訳なくなった。怒ってるわけじゃないよ、私がそう言うと竜胆は俯く。
兄貴が言ったの、そう聞くので私は頷いた。大昔に使ってた、それは本当、でももう使ってねェよ、だから借りてる。竜胆は叱られた子どものようにしどろもどろで言い訳を並べて完全にその顔を下に向けてしまった。表情が見えないと、どんな言葉を彼にかけていいのか分からなくって私はただ沈黙を打ち消すように、そっか、と当たり障りのない言葉を呟く。
同衾を頑なにしないことには、なにか意味があるのだろうか。私たちは抱きしめ合うことすらあの再会した日以来していない。私を好きだと愛していると言った竜胆は、私に触れない。
それでも、蘭と竜胆が同時に出掛けてしまうような日には、竜胆は同じタイミングで帰宅する蘭を送迎の車に置き去って、我先にと車から転がり出るそうだ。
そしてその指が折れるのではというような勢いでエレベーターのボタンを押し、家への重たい扉を開ける前、必ず大きく息を吸うらしい。
これらのことは全て蘭から聞いたことである。勿論、俺から聞いたことは言うな、といつも通りの決まり文句が付いてきた。
多分、オマエがいなくなる、とか思ってんじゃねェの。蘭は呆れた様に呟いていた。蘭は、私に無駄な嘘をつくことをしない。竜胆も、きっとそうなのだ。あの日囁かれた愛の言葉に、きっと嘘は無い。
だから私は竜胆を少しでも安心させようと、帰ってきたら一緒に観たい映画があるのだと誘ったけれど、竜胆の顔が明るくなることはなかった。
せっかく再び会えたのに、私たちには埋まらない距離がある。
「竜胆」
「……なに」
「おやすみなさい。また明日」
黙って背を向けた竜胆に私はそう言葉を掛けた。竜胆は少し肩を揺らしたけれど、振り返ることも、なにか言葉を発することもなかった。
何も話さない竜胆に憤りを覚えない訳では無い。私だって人間であるので、好きな人には触れたいと思うし、触れられたいと思う。それに私は再会したあの日に、竜胆を教えて欲しい、知りたいとそう伝えた。だと言うのに、本人は素知らぬ顔で日々を過ごしている。私が居なくなるのは怖いくせに、私が逃げないように手を繋ぐことはしない。一緒のベッドで眠ることはしないのに、私が眠っている間頭を撫でる。なんていう矛盾なんだろうか。
今日から蘭は泊まりで仕事だと、先程家を出る時に溜め息を吐いていた。布団が変わるとよく眠れないそうだ。それを聞いた竜胆は、よく言うよ、と呆れていたのできっと布団が変わっても枕が変わっても、変わらずよく寝るし寝起きは悪いのだろう。
呆れている竜胆に、じゃあ竜胆もいないのか、と聞くと首を横に振り、帰るよ、とだけ簡単に言葉を返された。そんな竜胆を蘭はじっと、美しく整った綺麗な顔で見ていた。
脂質の多いご飯を好まないという竜胆しかいないので、晩御飯の献立に頭を悩ませていると私のスマホが震える。メッセージを受信したらしいその液晶には、灰谷竜胆の文字が表示されていた。すぐに開いて見ると、どうやら仕事の延長で会食になったらしい。もしかして避けられてるのか、とも思ったけれど詮索しても仕方がないと私はすぐに了解、と返信をした。そのメッセージにはすぐに既読がついたけれど、いくら待ってみても返信がくることはなかった。
釣った魚には餌をやらない男なのだろうか。随分な男に育ったものだと、心がざわつく。黒い靄のようなものが腹の底から沸き立つ感覚に、そうか、私は怒ってるんだ、とやっと理解した。
お望み通り居なくなってやろうか。別に望まれてもないけどそんなことを思いながら私は苦手なウイスキーに手を伸ばして、それから、止めた。社会人になってから、よくストレスをお酒で流し込んでは誤魔化していたけれど、結局それはその場限りに過ぎないことを私は身をもって知っている。
いつも通り、冷蔵庫から炭酸水を取りだしてペットボトルの飲み口に口をつけた。ピリピリとした感触が舌から喉に流れていく。僅かな痛みと共に飲み下したそれが、色々な感情を洗い流してくれればいいのに、そう願ったけれど、到底無理そうだった。
ガチャリ、と重たい扉が控えめに開いた音で目を開ける。映画を見ていたのだけれどいつの間にか眠ってしまっていたようで、テレビは待機モードになり、美しい夜景の画像を映していた。ソファに横たえていた体を起こすと、変な体勢で眠ってしまったからか肩や首の骨が乾いた音を立てる。
そこに、いま帰宅したのであろう竜胆がリビングに繋がる扉を開けて、その場で固まった。パキ、と初めて会ったあの日のように私の関節が音を立てて鳴り響く。恥ずかしい事では無いのに、なんだか変なところを見られてしまったようで私は音が鳴った首を押えた。
「な、んで」
「えっ……ここで寝ちゃってて、それで、多分鳴ったんだと、思う」
「そうじゃなくて、違くて、なんで、いンの……?」
「いたら、ダメなの?」
私はどうやらお門違いな返答をしたようで、竜胆は頭を振って私に駆け寄ってくる。がしり、と掴まれた肩から伝わってくる手の温度が、とても冷たくて私は息を飲んだ。会食、と言っていたのに竜胆からは少しもアルコールの匂いが感じられない。そのことと、彼が開口一番で発した言葉を頭で整理して、漸く理解をした。
そっか、逃げて、ってことだったのか。察しの悪い自分に自嘲気味な笑みが溢れる。
ゴメン、何となく、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、私がそう謝ると竜胆は泣きそうな顔で床に崩れ落ちた。聞き取れないほどの小さい声で、何かを言っている。よくよく耳を済ませると、なんで、とか、どうして、とか多分そのようなことを言っていて、その中でも一際よく聞こえたのは、ゴメンという謝罪の言葉だった。
二人して謝りあってるなあ。そんなことを呑気に思いながら、私は竜胆の瞳から流れる涙がフローリングに落ちる様を見つめる。
この兄弟、本当に2人揃って綺麗な顔をしている。きっと御両親の遺伝子からして優秀なのだろう。見たことはないし、見ることは多分ないだろうけど。
そうしていると竜胆は大きく深呼吸をして、涙をスーツで拭った。そしてソファに座っている私を床にしゃがみこんだ体制で見上げる。
「オレ、オマエのこと幸せにしてやれない」
何を話すのかと思えば、そんなことだった。
幸せにしてやれない。オマエはオレさえいなければ普通に幸せになれた。オレがオマエを好きにならなかったら、オマエは普通に生きられた。
懺悔するような言葉ばかりが並ぶ。取り敢えずは黙って竜胆の言葉を落ち着くまで聞いたけれど、正直、ウンザリだった。
始まりは、私だった。どっちが先に好きになったとか、そんなことは分からないけれど、行動を起こしたのは、先に触れたのは私だった。
それはきっと竜胆だって分かっている。だというのに竜胆はオレがオレが、と譲らない。どれだけ偽悪的なのかと思うほど。竜胆は一頻り話終わると、私のワンピースの裾を人差し指と親指で握る。置いていかないで、そう言われているような仕草に、私は感じていた憤りが静まるのを感じた。
「竜胆は、私を好きになったことを後悔してるの?」
「そ、ンな、ワケ……ねェ」
「うん。ならよかった。頷かれたらどうしようかと思っちゃった」
私が少しおどけて見せても竜胆は笑わない。早く笑顔が見たいなあ。竜胆の笑顔をもう3ヶ月は見てない。ほぼ毎日一緒にいるのに、それはあまりにも長過ぎないかな。そう思いながら私は竜胆の頭を撫でる。
竜胆も蘭も、普通普通って言うけど、普通の幸せってなあに。私がそう聞くと、竜胆は、それは、と言い淀んで、絞り出すように答えた。
結婚して、ニーシン?とかして、ガキ産んで、遊園地とか、プールとか、行って、そんな、感じ。オレは、多分、こんな仕事だから、結婚式は、まァやれなくはねェけど、オマエの親とかダチは呼べねェし、ガキ、は、難しい、と思う。
竜胆はごにょごにょと独り言のように話を続けた。要するに、大体の一般人がするようなことを竜胆を選ぶ以上、出来ない、ということらしい。所謂反社会的勢力だ。結婚こそ出来ても、ありとあらゆるものは出来ない。このご時世、契約書を交わすような契約の最後の方にもうお決まりのような文言で、書かれるほど、竜胆や蘭は世間の嫌われ者なのだ。
実はね、反社、結婚って調べちゃった。私が言うと竜胆は恐る恐る顔を上げる。分かってたけど、みんなやめた方がいいとか、子どもは幸せにならないとか、まあそんなことばっかり書いてあったよ。せっかく上がった竜胆の顔はまた下を向いてしまう。本当に仕方がない人だな、と私は竜胆の顔をすくい上げるように包み込んだ。
「私はね、今まで普通に生きてきたよ。普通に学校に行って、皆勤賞は、取れなかったし……ズル休みだってしたことあるけど。普通に卒業もしたし、つい3ヶ月前までは普通に会社で働いてた。……キミと再会するまでは」
「……うん」
竜胆は震えながら、私のワンピースの裾を離す。そしてその手を自分の顔に添えられている私の手の上に重ねた。その手は私のもの以上に冷たい。
蘭や竜胆に会わなければ、私はきっとキミたちの言う普通の人と結婚をして子供を産んで、おばあちゃんになって、時期が来たら死んで。キミの言う普通の幸せを享受して生きていたんだと思う。今、この手を離しても、多分それは出来るよ。
竜胆の手が重なっている方の手を軽く揺らすと、緩い力で握られ、すぐに解放された。それでもその手は離れない。そのことに、自分の顔が苦笑を浮かべたのがよく分かる。
「でもね、私は、竜胆がいいよ。例え普通じゃなくても、結婚するのはキミがいいし、もし子どもが出来るならキミとの子どもがいいし、私が死ぬ時はキミにそばにいて欲しいし、キミが死ぬ時は私がそばにいたい。普通の人とやることを、全部、竜胆、キミとしたいの。だって、キミとじゃなきゃ、楽しくない。なんていうの?心?うん。心が動かないの」
竜胆はもういい大人なのにボロボロと大粒の涙を流した。陶器のように綺麗な肌を滑り落ちて、私の濃い青色のワンピースに落ちた涙はまるで夜空の星の如く光っているように私の目に映る。綺麗だなあ、キミは涙まで綺麗なんだね。私がそう言うと竜胆は首を横に振って、違う、と言った。
違くないよ、綺麗だよ、私がそう言い返すと、竜胆は自分がこれまで何人もの人を手にかけたこと、自分の手は汚れている、とそんなことを言い出す。だから私には触れない。触れられない、と呟いた。
そういうこと、と私はこの3ヶ月の謎をようやく解き明かすことに成功した。難しい男に育ったわけでもなく、竜胆は最初に会った日から何も変わっていなかったのだ。ボタボタと涙を流している大きな男の子を抱きしめ、その耳に馬鹿だね、と囁く。
「私は、蘭の友だちなんだよ」
「知ってる」
「あの、蘭だよ?……そんな簡単に汚れないし、変わらない。そんなことも分からないの?」
「……でも」
「でもでもだって、はもういいよ。竜胆、私はキミがいい。竜胆がいいの。竜胆じゃなきゃダメ。同じこと言わせないでよ」
嫌いになるよ、私がそう言うと竜胆は慌てて私の背中に腕を回して、それはダメ、とぎゅうぎゅう力を込めた。最初からそうしてよ。そう思ったけど言わない。やっと抱きしめ合えたのだから、今はこの感触を感じていたかった。
3ヶ月振りの竜胆の腕の中は相変わらず狭くてきつかったけれど、私の全身はこの窮屈さを求めていたようで、すっぽりとそこに収まる。鼻腔に広がる竜胆の匂いに、自分の口角が上がるのを感じた。そうだ、私はずっとこの人とこうしたかったのだ。すっかりと大人になってしまった竜胆の背中をぎゅ、と握って、好きだよ、と言うと竜胆も同じ言葉を囁く。
「後悔、すンなよ」
「しないと思う。ていうか、させないで」
「……ドリョクシマス」
竜胆はカタコトでそう言うと私を見つめて、キスをしていいか、と聞いた。いいよ、と私の口が動く前に荒々しく口付けられて、あまりの性急さに笑っていると眼前に広がる竜胆の顔が不機嫌そうに歪む。どうせ、ガキ扱いするな、とでも思っているのだ。竜胆はリップ音を立てながら私の頬や瞼、首に口付けて、キスだけじゃ足らない、と呟く。それは暗に私への了承を求めているような呟きだった。
「竜胆、キミはね、私の許可なんてとらなくても、私に触っていいんだよ」
「言ったな?」
「うん。受けて立とう」
竜胆は涙で濡れていた顔をスーツの腕で拭うと、私の脇下に手を入れて抱き上げ、立ち上がる。浮遊感に驚いて、咄嗟に竜胆の首に腕を回すと竜胆はさっさと歩き始めた。向かうのは竜胆の部屋の方向で、私はこれから何が行われるのか期待と、少しの不安に胸を躍らせる。
もう何年もガマンしてる、ちゃんと付き合えよ。竜胆は不敵な笑みを浮かべて私に囁いた。今まで囁かれたどんな愛の言葉よりも、私の心が踊る。恥ずかしくて、嬉しくて、私は竜胆の首に回していた腕に力を込め、竜胆、と彼の名前を呼んだ。
ねえ、竜胆。会いたかったよ、そばにいたいよ、寂しがり屋なキミを守りたいよ、どうか私よりも先に死なないでね。伝えたいことは沢山あるけれど、言葉にはならない。いくら待っても言葉を発さない私に、竜胆はなんだよ、と聞いてくる。
「なんでもないよ」
パタン、と竜胆の部屋の扉が閉じる。もう蘭の布団は返さなきゃ。その前にちゃんとクリーニングをして、その後竜胆と一緒に蘭のお気に入りのモンブランを買いに行こう。私達のキューピットは、モンブランが大好きなのだ。そう思いながらも、上に乗る竜胆の重みに私は目を細める。好き、大好き、愛してる。どんな愛の言葉を並べても足りない。そう思うほどには、私はもう竜胆でなければ、駄目だった。